サモア

サモア

サモア

太平洋の温かい紺碧の海の中できらめく,魅力的なサモア諸島は,ハワイとニュージーランドのほぼ中間に位置しています。火山活動によって生まれたサモア諸島の,息をのむほどに美しい島々には,雲を頂く高い山や緑豊かな熱帯林があり,その海岸はやしの木で縁取られています。光り輝くラグーンは,およそ200種のサンゴや900種もの魚を育む,海の楽園です。初期のヨーロッパ人の宣教師たちが,プルメリアの香るこれらの島々を,南太平洋の中でも極めて美しい所と描写したのもうなずけます。

キリストが地上にいた時よりも1,000年ほど前,サモア諸島に最初に定住したのはラピタ人と考えられています。 a 勇敢な探検家,また熟達した航海者でもあったこれら最初期のポリネシア人は,東南アジアから太平洋地域に移り住んだようです。潮風や海流に乗って,帆を張った大きな双胴型カヌーで,それ以前のどんな人々よりも広い海域を航海しました。そして,南太平洋の真ん中で小さな群島を発見し,サモアと名づけました。

以後何世紀もの間に,その子孫はまず東を目指して太平洋のタヒチに行きました。そこから北のハワイ,南西のニュージーランド,南東のイースター島へと広がってゆきました。今日,この広大な三角形に含まれる海域は,「多くの島」という意味のポリネシアと呼ばれ,そこに住む人々がポリネシア人です。そのようなわけで,サモアは“ポリネシアのゆりかご”と言われているのです。

現代において,勇気のあるサモア人たちが別の意味で新天地を目指し,より重要な移住を行なってきました。航海者であった祖先のように,この人々もより良い生活を探し求めています。しかし,これらのサモア人はどこかの場所に探検に出かけたわけではなく,霊的な意味での闇から光への“航海”を行なっているのです。彼らは,真の神エホバに是認される崇拝の方式を探し求めてきました。―ヨハ 4:23

これから取り上げるのは,サモア, b アメリカ領サモア,トケラウにおけるエホバの証人の歴史です。西サモアは,1962年に独立国になりました。アメリカ領サモアは米国に領有されています。そのようなわけで,サモア諸島はサモアおよびアメリカ領サモアという二つの部分に分かれています。

真理の光が達する

神の王国の良いたよりがサモアに初めて伝わったのは1931年のことです。一人の訪問者がサモア諸島全域で,関心のある人たちに書籍や小冊子を合わせて470冊以上配布しました。その訪問者とはシドニー・シェパードであったと思われます。当時,ポリネシアの島々を船で巡って良いたよりを広めていた熱心なエホバの証人です。

王国の音信がアメリカ領サモアに伝わったのはその7年後のことです。ニューヨークのブルックリンにあるエホバの証人の世界本部で奉仕するJ・F・ラザフォードは,船でオーストラリアから米国に向かう途中,トゥトゥイラ島に立ち寄りました。ラザフォードとその一行はその短い時間を活用して,港町のパゴパゴを巡り,文書を配布しました。

その2年後の1940年,アジア太平洋地域の方々で開拓奉仕をしていたハロルド・ギルがアメリカ領サモアにやって来ました。ハロルドは「死者はどこにいるか」という小冊子を3,500部携えてきました。これはエホバの証人がサモア語に翻訳した最初の出版物です。 c

ハロルドは次いでサモアのウポル島に渡りました。8時間から10時間の船旅です。ハロルドは後にこう書いています。「しかしそれよりも早く,私についての話が伝わっていたに違いありません。私が到着すると,警察官が上陸を許可しないと言ったからです。そこで私はパスポートを提示し,やや重々しい文面の前書きを読み上げました。その前書きは,英国国王の臣民が『何の障害も受けずに通行し,この者にあらゆる援助と保護を差し伸べるよう』関係者すべてに要請するものでした。その結果,行政官と面会することができ,五日後に次の船が出るまでの滞在を許されました。私は自転車を借りて,その島を巡り,小冊子を遠く広く配布しました」。

ハロルドはサモア諸島への伝道旅行を成功裏に行なった後,オーストラリアに戻らなければなりませんでした。しかし,配布した出版物の一つがやがて,事務の仕事をしていたペレ・フアイウポルの手に渡ります。 d この小冊子の音信は,ペレの心の中に残りました。証人たちが戻ってきて,心に植えられた貴重な真理の音信に水を注ぐのを待っているかのような状態でした。―コリ一 3:6

それから12年後の1952年,英国からジョン・クロックスフォードというエホバの証人が,サモアの首都でウポル島にあるアピアという町にやって来ました。ジョンはその町で,ペレと同じ事務所で働くことになりました。親しみやすい人柄のジョンは,他の人に積極的に証言しようと努めていました。ペレが聖書に関心を持っているのを見て取り,自宅を訪ねてみることにしました。その時のことを,ペレはこう書いています。「日曜日の明け方近くまで話し込みました。私がするたくさんの質問に,ジョンはすべて聖書を読んで答えてくれました。これこそ探し求めていた真理に違いないと確信しました」。ペレと妻のアイルアはその年のうちに,サモア人として初めて,エホバに献身しバプテスマを受けました。

ペレは,先祖の宗教を捨てるなら釈明を求められることを知っていました。それで一生懸命聖書を学び,エホバに助けを熱心に祈り求めました。ペレと真理に関心を持つもう一人の親族は,一族の高位の首長から,出身の村ファレアシウでの会合に呼び出されました。そこは,アピアから西へ19㌔の所にある,海沿いの大きな村です。そこに待ち構えていたのは首長6人,弁士3人,牧師10人,神学教師二人,まとめ役の高位首長,そして一族の年長の男女でした。

その時のことについてペレはこう言います。「彼らは私たちが一族の名や先祖の教会を汚したとして,のろったり非難したりしました」。それから高位首長は,討論を行なうことを持ちかけ,それは延々午前4時まで続きました。

ペレはさらにこう語ります。「中には,『その聖書を引っ込めろ。聖書を使うな!』とわめく人もいましたが,私は質問すべてに聖書から答え,彼らの誤りを論駁しました。最後には,だれ一人何も言えなくなり,うなだれてしまいました。すると高位首長が弱々しい声で,『お前の勝ちだ,ペレ』と言いました」。

ペレは高位首長にこう答えたことを覚えています。「失礼ですが,私が勝ったわけではありません。今晩,あなたは王国の音信をお聞きになったのです。その音信を心に留めてくださることを私は心から願っています」。

こうしてペレが謙遜な態度でエホバとみ言葉 聖書に依り頼んだ結果,王国の真理の種はウポル島に根を下ろしました。

初期の集会

ペレの新しい宗教についての話は,結びつきの強いこの島の人々の間にすぐに広まりました。1世紀にパウロから音信を聞いたアテネ人のように,この「新しい教え」に興味を持ち,もっと知りたいと思う人たちがいました。(使徒 17:19,20)マアトゥシ・レアウアナエという青年は,この新しい宗教に関心を持つ人が毎週,病院の敷地内にある医師の家で集会を開いていることを知り,様子を見に行くことにしました。しかし,病院の入口に来た途端,弱気になってしまい,引き返そうとしました。幸い,そこにジョン・クロックスフォードが到着し,その晩の小さなグループの集会に参加するよう誘ってくれたのです。マアトゥシ青年は「神を真とすべし」という本の研究を楽しみ,また出席しようと思いました。初めのうちは集会に来たり来なかったりでしたが,やがて真理が心に根を下ろし,マアトゥシは1956年にバプテスマを受けました。

新しい人たちはこのグループと交わるようになると程なくして,学んだ事柄を他の人に伝えることの大切さを理解しました。クロックスフォード兄弟がアピアに到着して5か月足らずで,10人が兄弟と共に宣べ伝える業に加わるようになったのです。4か月後にその数は19人になっていました。それら新しい人たちは,友人や親族に証言し,良い結果を得ました。

そのような伝道者の一人が,ファレアシウに住む,サウバオ・トエトゥという名のいとこに証言しました。やがてサウバオと義理の弟のフィナウ・フェオマイアが家族と共に集会に出席するようになり,真理の側に立場を定めました。

1953年1月,サモアにおける真の崇拝の画期的な進展がありました。当時,集会に40人ほどが出席していたので,オーストラリアにあるエホバの証人の支部事務所は,サモアで最初の会衆をアピアに設立することを承認したのです。後にクロックスフォード兄弟が英国に戻ると,バプテスマを受けて間もないペレが会衆で指導の任に当たりました。伝道者たちは,人を恐れることなく熱心に活動していましたが,霊的にはまだ若く,経験がありませんでした。多くの場合,王国の音信を,より巧みに,心に訴える仕方で伝えることを学ばなければなりませんでした。(コロ 4:6)また,新しい人格をいっそう身に着ける点で助けの必要な人もいました。(エフェ 4:22-24)喜ばしいことに,そのような助けがすぐに差し伸べられます。―エフェ 4:8,11-16

海外からの助け

1953年5月に,オーストラリアの開拓者ロナルド(ロン)・セラーズとオリーブ(ドリー)・セラーズがアピア会衆を助けにやって来ました。ロンはこう書いています。「オーストラリア支部と現地の兄弟たちとの連絡が一時的に途絶え,支部の兄弟たちは心配していました。私たちが太平洋地域で奉仕したいと申し出ていたこともあって,サモアに移動して新しい会衆で特別開拓者として働くように要請されました」。

ロンとドリーは,遠い外国の地で宣べ伝えることにしばしば伴う挑戦となる事柄について思いを整えながら,飛行艇でサモアに向かいました。ロンはこう語っています。「驚くことがいっぱいでした。島じゅう至るところに熱帯の植物が茂っています。どこに行っても,幸せそうに笑みをたたえる,健康でがっしりした体形の人たちを目にしました。家には壁がなく,屋根は草ぶきで,サンゴが床にきれいに敷き詰められています。そのような家の周りで子どもたちははしゃいでいます。急いだり時間を気にしたりする人はいません。パラダイスに来たようだと思いました」。

セラーズ夫妻はペレの家に滞在しながら,すぐに活動を始めました。ロンはこう言います。「毎晩のように兄弟たちと会い,いろいろな質問に答えました。すぐに気づいたのは,兄弟たちは聖書の基本的な教理は理解しているものの,神の規準にかなうには多くの点で変化しなければならない,ということでした。その難しい時期に兄弟たちを助けるため,妻も私も多大の辛抱強さや普通以上の愛を示すように努めました」。残念ながら,ある人たちは聖書に基づくこうした愛ある再調整を拒み,徐々に会衆から離れていきました。一方,謙遜な態度を取り,訓練や励ましによくこたえ応じた人たちもいました。やがてその人たちが霊的に進歩し,結果として会衆は精錬され,強められたのです。

ロンとドリーはまた,率先して家から家の証言も行ないました。それまでほとんどの兄弟たちは,友人や近所の人に非公式の証言しかしていませんでした。セラーズ夫妻と共に戸別伝道を行なうようになると,関心のある人が大勢見つかりました。ロンはこう書いています。「ある時,関心を持つ首長のいる村に招かれました。その首長に神の王国についてもっと詳しく話すためです。食事の後に,聖書に関する活発な話し合いをしました。1時間が過ぎるころには,その話し合いはまるで公開講演のようになっていました。話を聞く人がどんどん増えて50人近くにもなっていたからです。しかも,何の宣伝もしていなかったのです」。伝道者たちが二人か三人と聖書研究をしていると,エホバの証人の活動に興味を持つ10人から40人もの人が集まってくる,ということも珍しくありませんでした。

しかし,そのような活動をキリスト教世界の僧職者が見過ごすことはありませんでした。当局がロンとドリーの滞在許可の延長を認めなかったので,ロンは高等弁務官に近づいてその理由を尋ねました。ロンは振り返ってこう語ります。「その人の話によると,幾人かの僧職者が私たちの証言活動について政府に苦情を申し立てたとのことでした。そのため,会衆の伝道活動を助けるのをやめると約束しなければビザの延長を認めない,と言われました。私は,それに応じるつもりはないと答えました。また,神の業をやめさせることなどだれもできないはずだ,とも言いました。すると高等弁務官は笑って,『それはどうかな。あなたが去ってみれば分かるでしょうね』と答えました」。

この時以降,当局は神経をとがらせ,外国のエホバの証人の入国を阻止するようになりました。そういう状況でしたが,1953年,セオドア・ジャラズが目立たないようにサモアに入り,会衆を励ましました。兄弟は当時オーストラリア支部で奉仕していて,現在は統治体の成員です。ロンは言います。「兄弟の訪問にとても鼓舞され,自分たちが霊的に正しい方向を目指している,という確信が得られました」。

その少し後,ロンとドリーのビザは切れ,二人はアメリカ領サモアに移動しました。それでも,サモアに滞在した8か月の間に,地元の兄弟たちを安定させ,強めることに大いに貢献しました。さらに,当局は知る由もありませんでしたが,セラーズ夫妻に代わって別の証人たちが間もなく到着することになっていました。

アピアにおける進展

1954年5月,23歳のリチャード・ジェンキンズがアピアにやって来ました。オーストラリア人で,バプテスマを受けて間もないとはいえ,熱心な兄弟です。リチャードはこう語ります。「オーストラリアを出る前,まず仕事が安定するまでは地元の兄弟たちと交わらないよう勧められました。しかし,数か月もすると,とても寂しく思うようになり,自分が霊的に弱くなっているのを感じました。それで人目を引かないようにしながらペレ・フアイウポルと会うことにしました」。二人は気づかれないよう,夜遅くに会いました。

リチャードは言います。「ペレは,会衆との結びつきを当局に知られて国外に退去させられないよう,私を実名では呼ばないことにする,と言いました。そのようなわけで,生まれたばかりのペレの息子と同じ,ウイティネセという名を私につけてくれました。“証人”を意味する英語のウィットネスをサモア語で発音した名です。今でも,サモアの兄弟姉妹は私をその名で呼んでいます」。

この新しい名前を用いながら,リチャードは慎重に兄弟たちと接触を保ちました。非公式の証言も行ない,聖書研究も何件か取り決めました。研究生の一人に,保健所の検査官として働いていたムファウル・ガルバオという若い男性がいます。この男性は後にサモアの支部委員会の成員になりました。やがて別の聖書研究生ファレマア・トゥイポロアと家族数人もエホバの証人になりました。

リチャードの別の聖書研究生であるシエム・タアセという若者は,以前は窃盗団のリーダーでした。そのグループは,公共事業局の物品を盗んでいました。シエムは霊的な進歩を遂げないうちに,以前に働いた盗みのために刑務所に入れられました。それでもあきらめなかったリチャードは,所長の許可を得て刑務所の外で,塀から100㍍ほど離れたところにあるマンゴーの木陰で研究を続けました。そのうち他の受刑者も一緒に研究するようになりました。

リチャードは振り返ってこう語ります。「看守はいませんでしたが,受刑者の中で逃げようとした人はだれもおらず,その幾人かは真理を受け入れました」。シエムは釈放され,やがて長老として奉仕するまでになりました。

1955年,リチャードはオーストラリアの開拓者グロリア・グリーンと結婚しました。二人はサモアで共に15年奉仕し,オーストラリアに戻るまでに35人の人が真理を学ぶように助けました。現在はオーストラリアのブリズベーンに住み,リチャードはその土地のサモア語会衆で長老として奉仕しています。

ほかにもサモアで早い時期に働いたオーストラリア出身の夫婦として,ウィリアム(ビル)・モスとマージョリー(ガーリー)・モスがいます。実際的な考え方をする長老のビルと,開拓者として24年の経験を持つガーリーがアピアに到着したのは1956年のことです。当時アピア会衆には28人の伝道者が交わっており,アピアとファレアシウに書籍研究の群れがありました。続く9年間,ビルとガーリーは会衆と共に精力的に奉仕しました。ガーリーの健康状態が悪化したため,1965年にオーストラリアに戻らなければなりませんでしたが,そのころにはファレアシウの群れは会衆になっていました。

当時は,宣教者の入国許可を求めても,そのたびにサモア政府から却下されていました。政府と僧職者たちが,エホバの証人の業が立ち消えになってほしいと思っていたことは明らかです。しかし,結果はその正反対でした。証人たちは増加して熱心に業を続け,しっかりと定着したのです。

アメリカ領サモアにおける進展

セラーズ夫妻は,サモアのビザが1954年に切れるのに伴って,オーストラリアに帰国する代わりに,アメリカ領サモアへの移住の許可を申請することにしました。ロンはこう書いています。「アメリカ領サモアの法務長官に近づきました。長官は,宗教上の理由でサモア政府にビザの申請が却下されたことを知ると,こう言いました。『セラーズさん,アメリカ領サモアは宗教の自由を認めていますから,あなたがビザを取得できるように取り計らいましょう』」。

1954年1月5日,ロンとドリーはアメリカ領サモアのパゴパゴに着きました。法務長官は入国の条件として,自分の事務所に定期的に出頭するようロンに求めました。エホバの証人の活動をよく把握できるようにするためです。結果として,二人は幾度か霊的な事柄について話し合うことができました。

その月に,ロンとドリーは法務長官の自宅に夕食に招かれました。地元のカトリックの司祭とロンドン伝道協会の牧師も招かれていたため,聖書についての活発なやり取りが交わされました。ロンはその時のことについてこう言います。「その集いの終わりに,法務長官は訪問者全員に感謝し,続けてこう述べました。『今晩の討論は,どうやらセラーズ夫妻の勝ちのようですね』。それから間もなく,私たちは永住ビザを取得できました。後に法務長官は,今後もエホバの証人の宣教者の入国申請を受け入れるという政府の意向を伝えてきました。私はすぐにそのことをオーストラリアの支部事務所に知らせました」。

アメリカ領サモアでエホバに献身した最初の人は,トケラウ出身の19歳のウアレシ(ウォーレス)・ペドロです。フィジーで特別開拓奉仕をしていた親戚のリディア・ペドロは,1952年にウォーレスの兄を訪ねて「神を真とすべし」という本を渡していました。若者だったウォーレスは,兄の家でその本を見つけ,注意深く調べました。

ロンとドリーがペドロ家の人々に出会ったのは1954年のことで,ウォーレスの兄と姉が研究をするようになりました。ウォーレスはエホバという名を持つ神を信じていましたが,初めは宗教に対して不信感を抱いていたので,研究に加わるのをためらいました。しかし,やがてエホバの証人が真理を持っていることを確信し,ファガトゴでの集会に定期的に出席しはじめました。ウォーレスは霊的に急速に進歩し,1955年4月30日,パゴパゴ湾でバプテスマを受けたのです。

ロンとドリーが島に着いてから1年たった1955年1月には,ファガトゴにある二人の小さな家で開かれていた集会に7人が出席していました。家には家具がほとんどなく,皆が床に座りました。程なくして,新しい人のうち3人が,二人と一緒に野外宣教を行なうようになります。小さな始まりでしたが,前途にはすばらしい進展が控えていたのです。

ギレアデの宣教者が到着する

1955年2月4日,米国から宣教者の夫婦が二組,アメリカ領サモアにやって来ました。ポール・エバンズとフランシス・エバンズ,そしてゴードン・スコットとパトリシア・スコットです。彼らはファガトゴの宣教者ホームに居を定めます。そのホームからは,近所の人々のにぎやかな暮らしの様子がよく見えました。同じ年にパゴパゴを訪問した巡回監督のレナード(レン)・ヘルバーグは,その情景を次のように描いています。

「宣教者ホームは大きなアパートで,昔風のよろず屋の上にありました。建物の横には小川が流れ,その向こうには,夕方になると船乗りたちがやって来る酒場がありました。酒場の中で喧嘩騒ぎが始まり,それが外の通りにまで広がると,小柄ながらも頑丈な体つきの地元の警察署長が葉巻をくわえたまま,人混みをかき分けながら入って行き,左右にパンチを放って群衆を制圧します。アパートの裏手の教会からは,地獄の火の説教が大音響で流れてきます。正面の道路に面したベランダからは,月に一度,政府が支給する給料を受け取るため銀行に集まる大勢の人々が見えます。その日には,教会の宣教師たちも島じゅうからやって来て,自分の教会の信者を血眼になって探します。お金を使ってしまう前に,十分の一の寄付を集めるためです」。

こうした活気ある環境の中で,霊的な事柄に対して関心を持つ人は少なくありませんでした。レンはさらにこう語ります。「ある宣教者が奉仕を始めるのは午前6時で,宣教者ホームから広場を挟んで向かいにある床屋の主人と,開店前に聖書研究を行ないます。それからパン屋の主人と研究し,そこで買ったパンを持ち帰って宣教者ホームの朝食にしました。この同じ兄弟は,その日の後刻には,刑務所の幾人かの受刑者たちと町の広場で研究を行なっていました」。その年の終わりに,宣教者たちは200人以上の人たちと,60件ほどの聖書研究を司会していたのです。

「今晩,無料の映画会があります」

多くの人が関心を示した理由の一つは,「躍進する新しい世の社会」 e という映画にありました。これは,組織が制作した映画としては,それより40年近く前の「創造の写真劇」以来のものであり,世界的な伝道活動や印刷出版の仕事を紹介し,エホバの証人がどのように組織されているかを示していました。レンは1955年にアメリカ領サモアを4週間訪れ,その間にこの映画を15回上映しました。見に来た人の合計は3,227人で,毎回の平均は215人になります。

レンは振り返ってこう言います。「映画の上映に先立って,車を走らせながら村々を回り,道行く人々にビラを配りました。その際,『今晩,無料の映画会があります』と大声で触れ回り,上映場所の村の名前も知らせました」。

その映画は人々に強烈な印象を与えました。上映の後に,人々はエホバの証人やその教えについてさらに知りたがりました。関心を持つ人で,エホバの証人が再びやって来るのを待てずに,自分のほうから宣教者ホームを訪ねる人も少なくありませんでした。宣教者たちは,同じ時間にホームの別々の場所で研究を司会しました。一つのグループの研究が終わると,入れ替わりで別のグループとの研究が行なわれました。ロン・セラーズはこう言います。「何年たっても,人々はエホバの証人と聞くと,その映画で見たすばらしい事柄を思い浮かべたものです」。

粘り強い伝道が心に響く

レン・ヘルバーグの訪問の2か月後,アメリカ領サモアで最初の会衆がファガトゴに設立されました。1年以内に,その会衆の伝道者の数は14人から22人に増えました。このころ,増加する会衆を援助するため,オーストラリアからさらに二人の特別開拓者,フレッド・ウェゲナーとシャーリー・ウェゲナーがやって来ました。フレッドは現在,サモアの国内委員会の成員として奉仕しています。

これらの伝道者,開拓者,宣教者は『霊に燃えて』いました。(ロマ 12:11)レンはこう書いています。「伝道者たちの粘り強さと,聖書に対する人々の関心の結果として,1960年代半ばには,ファガトゴ村のどの家も,聖書研究を以前にしたことがあったり,その時点で行なったりしていました。当時,島のどの家も月に一度は伝道者の訪問を受けていました」。

この徹底的な伝道活動は,聖書に対する地元の人々の見方に少なからぬ影響を与えました。レンは言います。「地上で永遠に生きるという希望,火の燃える地獄は存在しないこと,死者は無意識であることなどは,だれもが知るところとなりました。人々はそのような基本的な真理を,教会ではなく,エホバの証人から学びました。人々と一対一で話し,その人たちの聖書を開いて筋道立てて話し合ったからです」。

とはいえ,多くの場合,宗教上の結びつきや家族のきずなが,学んだ事柄に基づいて行動することの妨げとなりました。また,真のクリスチャンに求められる高い道徳規準よりも,教会が容認する道徳的にルーズな生活を好む人もいました。そのような中で,イエスの例えに出てくる旅商人のような,心の正直な人々がいたのです。彼らは真理を価の高い真珠のように見て,手放そうとしませんでした。それらの誠実な島民は,勇気をもって真理の側に立場を定めました。―マタ 13:45,46

サモア式の証言

カナダ出身の開拓者で,1960年にウォーレス・ペドロと結婚したキャロラインは,思い出をこう語ります。「当時,証言に行くのはとても楽しい経験でした。ほとんどの家で,聖書の話し合いに喜んで応じる人に会えました。聖書研究を取り決めるのは簡単で,一家そろっての研究になることもしばしばでした。

「特に思い出すのは,へんぴな村々での伝道です。たいてい家から家に子どもたちが付いてきて,私たちの証言をじっと聞いています。そして,私たちが来ることを知らせに次の家に走って行きます。私たちが話題にする事柄や用いる聖句までも話すのです。そのうち,村の子どもたちに先を越されないように,いろいろな証言を準備しました」。

兄弟たちは証言を行なう際,礼儀作法や地元のしきたりを守ることも意識しました。(コリ一 9:20-23)元宣教者で,現在はニュージーランドの支部委員会の成員であるチャールズ・プリッチャードは,こう書いています。「熱帯の気候のため,村のファレ(家)には壁がなく,家に人がいるかどうかはすぐに分かります。立ったまま話をすることや,家の人が応対に出る前に話しかけるのは,極めて不作法なことです。ですから,家に近づき,中の人が気づくまでじっと待ちました。すると家の人は,小石を敷き詰めた屋内の床に,きれいな敷物を広げてくれます。これは,お入りくださいという合図で,靴を脱いで家の中に入り,敷物の上にあぐらをかいて座ります」。そのような姿勢で長い時間床に座ることは,多くの宣教者にとって苦痛でした。しかし幸い地元の習慣では,敷物できちんと覆うなら,足を伸ばすこともできました。そうすることで,サモア人にとってとても失礼な行為となる,足を覆わずに家の人に向けることを避けられました。

サモアとアメリカ領サモアで20年にわたり宣教者として奉仕したジョン・ローズは,こう言います。「家の人は私たちを丁重に迎え,自分たちの粗末な家に聖書の音信を伝えに来てくれたことを光栄に思う,と言います。次いで話し合いは私的な事柄に移り,どこから来たか,子どもはいるか,家族はどこに住んでいるか,といった質問をされます」。

妻のヘレンもこう言います。「家の人にはいつも,普通はあらたまった場面で用いる敬意のこもった言葉遣いをしました。そうすることで,家の人を敬うと共に,聖書の音信を品位ある仕方で伝えることができました」。

キャロライン・ペドロはこう語ります。「そのようなあいさつの折に,話す相手やその家族をよく知り,家の人も私たちについて知ることができます。その人が霊的に必要とするものをより効果的に与えるという点で,このことは役立ちました」。

一通りのあいさつが終わると,ようやく王国の音信を伝えることができます。元宣教者のロバート・ボイスは次のように述べています。「家の人は決まって,私たちがどれほど長く話しても,ずっと聴いてくれました。そして,こちらの言った事柄をおうむ返しに述べ,その音信が重要だと思っていることを示すのです」。

人々は聖書によく通じているので,聖書の教えについての話し合いが延々と続くことは珍しくありませんでした。キャロライン・ペドロは,「そのようなやり取りによって聖書のさまざまな論題について自分自身も理解を深めることができました」と言います。家の人はたいてい,文書を快く受け取りました。そのうちに伝道者たちは,人々がただ興味本位で話を聞くのか,霊的な事柄に純粋の関心を抱いているのかを見分けられるようになりました。

新しく関心を持って集会に出席し始めた人の多くは,野外宣教に加わる面でも意欲的でした。ジョン・ローズはこう語ります。「サモア人はもともと人前で話すことが得意です。新しい人は多くの場合,あまり訓練を受けなくても堂々と信仰を言い表わすことができます。それでも私たちは,ただ生来の話す能力に頼るのではなく,出版物に提案されている証言を用いることや,聖書から論じることを励ましました」。そのような優れた訓練によってやがて,福音宣明を上手に行なえる人が大勢生み出されました。

サモア語の文書が反響を呼ぶ

多くのサモア人は英語を流ちょうに話しますが,そうでない人もいます。真理を愛するサモア人の心を動かすため,1954年にペレ・フアイウポルは4種類のパンフレットをサモア語に翻訳しました。ペレは長い間,サモア語の翻訳者として組織の中で引き続き主要な役割を担いました。石油ランプの明かりを頼りに,訳文を古い手動タイプライターで打ち込む仕事が夜遅くまで続くこともしばしばでした。

ペレは翻訳を行なうかたわら,妻と8人の子どもを養い,会衆の活動を率先して行ない,週5日半,島々のカカオ農園を見て回る仕事をしました。レン・ヘルバーグはこう書いています。「ペレは幾年もたゆみなく働き続け,他の人に認められることや称賛されることなど期待しませんでした。むしろエホバに用いられていることを特権と見て,深く感謝していました。忠節で謙遜で熱心なペレはエホバの証人として際立っており,だれからも尊敬され愛されていました」。

1955年に伝道者たちは,サモア語の『御国のこの良いたより』という32ページの小冊子を1万6,000部配布しました。分かりやすい言葉を用い,聖書の基本的な教えを理解しやすく説明していたので,家庭聖書研究を取り決め,また司会するのにうってつけでした。リチャード・ジェンキンズはこう書いています。「この小冊子を何度か研究するだけで,新しい人はバプテスマの用意ができました。使いやすくて,とても気に入りました」。やがて,他の小冊子もサモア語で発行されました。

サモア語の「ものみの塔」誌が最初に発行されたのは1958年です。印刷工としての経験を持つフレッド・ウェゲナーは,謄写版で印刷した紙をホチキスでとじて,雑誌を作りました。後に印刷は米国で,次いでオーストラリアで行なわれるようになりました。エホバの証人の出版物の幾つかは翻訳され,月1回出されているサモア語の「ものみの塔」誌に掲載されました。1970年代初めからはサモア語の書籍が発行されるようになり,宣べ伝える業に弾みがつきます。

エホバの証人の書籍は,サモア諸島全域で広く配布されました。1955年に伝道者たちが「ハルマゲドンを生き残って,神の新しい世へ」という本を配布した時,アメリカ領サモアではほとんどの家の人がそれを求めました。ウォーレス・ペドロはこう書いています。「人々は聖書を読んでいても,ハルマゲドンについては聞いたことがありませんでした。ですが,多くの家族がその本を読んでからは,私たちが村を訪ねると子どもたちは,『ハルマゲドンが来たよ!』とよく触れ回ったものです。我が子をハルマゲドンと名づけた親さえいました」。

1972年に,サモア語の「とこしえの命に導く真理」の本が発行された時にも,同じような反響がありました。当初,ほとんどの宣教者はこの本を月に2カートンかそれ以上,ぜひ読みたいと言う人たちに配布していました。フレッド・ウェゲナーはこう振り返ります。「人々は地元の市場で私たちに近づいてきました。バスの窓から身を乗り出して『真理』の本が欲しいと言う人もいたほどです」。

大会によって強められる

1957年6月,アメリカ領サモアのパゴパゴで初の巡回大会が開かれることになり,兄弟たちの期待は高まっていました。そのプログラムを楽しむために,サモアから船でやって来た伝道者たちもいました。兄弟たちは一般の人たちもぜひ招きたいと思い,大会があることを英語とサモア語で広く宣伝しました。その結果,サモアとアメリカ領サモアの合計60人の伝道者は,金曜日の最初のプログラムに106人が出席するのを見て,胸を躍らせました。

この大会では,昼休みに思いがけないことが起きました。サモアならではの習慣や,物見遊山でやって来た人たちのためです。ロン・セラーズはこう書いています。「サモアの習慣では,食事は重要な位置を占めています。人々は食事の時に,通りがかった人に声をかけて招き入れるのが普通です。兄弟たちが大会の昼食時に,好奇心の強い見物人を大勢招いたため,給食部門は予想外の負担を強いられました。出席する兄弟姉妹に足りる分しか用意していなかったからです」。

そうではあっても,食事の機会は,その様子を見る人たちに良い証言となりました。サモアでは特別な催しの際,男性が女性や子どもよりも先に食事をするのが普通です。外国人や聖職者はたいてい他の人たちとは別に座り,食事の最良の部分にあずかります。しかしその大会で見物人は,外国から来た宣教者たちが地元の家族と一緒に楽しそうに食事をする様子を目にしました。エホバの民の間の愛と一致は,だれの目にも明らかでした。

そのような大会は,励ましや訓練を与える機会となっただけでなく,すぐ後に続く厳しい試みに伝道者たちを備えさせるものともなったのです。

アピアでの背教

サモアでは,励みとなる増加が見られる一方で,問題も起き始めていました。マタイ(家長)の立場にある,我の強い人物の率いるグループが,神権的な指示を受け入れようとせず,アピア会衆で問題を引き起こしていました。その人の家で集会が開かれていたこともあり,会衆の中で緊張が徐々に高まってゆきました。

1958年,反対派の人たちはついに会衆を離れ,独自の研究グループを作りました。当時オーストラリア支部で奉仕し,フィジーを訪問していたダグラス・ヘルドは,サモアに渡り,不満を抱く人たちを助けるように努めました。聖書に基づく,兄弟の思慮深い助言は会衆の忠実な人たちに大きな励みを与えましたが,集会に出席する人たちの4分の1が反対派に加わってしまいました。そのうちの幾人かは,強い誇りが災いとなって,後に排斥されなければなりませんでした。

だれがエホバの霊の導きを受けているのかは,やがて明らかになります。反対派のグループは,最後には分裂し,姿を消したのです。それとは対照的に,アピア会衆はその年に伝道者が35%増加しました。会衆は一時的に,アピア病院の近くにあったジェンキンズ夫妻の家に集まりました。そして最終的に,アピアのファアトイアにあるマアトゥシ・レアウアナエの家で集会を開くようになりました。この家で兄弟たちは,愛と協力の精神に満ちた温かい交流を楽しみます。後にアピアで最初の王国会館が,マアトゥシの敷地に建てられました。オーストラリアのシドニーにある一つの会衆が資金面でその建設を援助しました。

励みとなる交わり

1959年,サモア政府は,アメリカ領サモアの5人の宣教者がアピアで初めて開かれる巡回大会に出席できるよう,入国を許可しました。これはアピア会衆をさらに強める機会となりました。288人が出席し,10人がバプテスマを受ける様子を見るのは,大きな喜びでした。その2年後,会衆は初の地域大会を主催します。ホワイトホース・インという宿の近くにある,ドイツ人が建てた古い病院で開かれました。里程標とも言えるこの大会には,はるばるニュージーランドからも代表者たちが訪れました。

こうした集いは,兄弟たちが大会を組織する面で貴重な訓練の機会となりました。実際,後にサモア政府が旅行する監督や宣教者の入国を拒否するようになった時,地元の兄弟たちだけで大会を組織することができたのです。1967年には,サモアで初めて,1時間の聖書劇が,準備のもと,時代衣装を着けて演じられました。その劇は,神の備えである古代イスラエルの避難都市を題材としたもので,出席した人たちの記憶に長く残りました。

当時,サモアの兄弟たちは,アメリカ領サモアやフィジーで開かれる,合同の大会からも益を得ました。しかし,出席にはかなりの努力と犠牲が求められました。例えば,フィジーの地域大会に行くには,旅費や食費が必要になる上,サモアを最長で1か月離れることになるのです。

アメリカ領サモアにおける前進

1966年,アメリカ領サモアの兄弟たちは,パゴパゴで開かれる「神の自由の子たち」地域大会を主催することになり,歓びに沸きました。歴史に残るこの大会には,八つの言語を話す372人の代表者が訪れました。オーストラリア,サモア(旧西サモア),タヒチ,トンガ,ニウエ,ニューカレドニア,ニュージーランド,バヌアツ(旧ニューヘブリディーズ),フィジーからです。さまざまな人種や言語の人々が大勢出席したため,大会期間中,その町のエホバの証人の比率は35人に一人となりました。当時,地元の会衆には伝道者が28人しかいなかったのです。

それだけの伝道者で,訪れる大勢の人の宿舎をどのように準備したのでしょうか。フレッド・ウェゲナーはこう振り返ります。「たくさんの代表者のための宿舎を見つけるのはそれほど難しくありませんでした。地元の人々はもてなしの精神に富み,兄弟たちを喜んで迎え入れてくれました。宗教指導者たちはとても悔しがりました」。

この大会はパゴパゴ会衆にすばらしい影響を与えました。6か月で集会の出席者が59%増え,新しい人が大勢資格を得て良いたよりの伝道者になりました。「そのうえ,会衆はもっとふさわしい集会場所を建てるようにも促されました」と,ロン・セラーズは書いています。パゴパゴの町があるトゥトゥイラ島には,空いた土地がほとんどなかったのですが,地元の伝道者が親切にも,町の西部のタフナ村にある一区画の土地を30年契約で貸してくれました。

フレッド・ウェゲナーは言います。「その土地は海面よりも低かったため,会衆は3か月にわたって苦労しながら溶岩を集め,敷地を高くしました」。

地元のカトリックの司祭で,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を定期的に読んでいた人が,床のコンクリート打ちの時,兄弟たちに教会のコンクリート・ミキサーを貸してくれました。ロン・セラーズはこう書いています。「この司祭は後に結婚生活に関する『目ざめよ!』の記事を読むと,すぐに司祭をやめて結婚しました」。

海外の兄弟たちも,この王国会館の建設を寛大に援助しました。アメリカ領サモアの初期の宣教者で,米国に戻っていたゴードン・スコットとパトリシア・スコットは,自分たちの会衆で使っていた椅子を,この新しい会館で使えるように寄付しました。ロン・セラーズはこう言います。「余った椅子は地元の映画館に売り,そのお金で,椅子を島に運ぶための費用を払うことができました」。130席ある,タフナのこの新しい王国会館は,1971年に完成し,献堂されました。後に会館の2階に,宣教者のための宿舎が建て増しされました。

サモアは門戸を開く

1974年まで,サモアにおける業は,政府がエホバの証人の宣教者の入国を規制していたために,あまり前進していませんでした。その年に,地元の責任ある兄弟たちが首相に面会し,状況について話し合いました。それらの兄弟の一人,ムファウル・ガルバオはこう書いています。「話し合いの際に,宣教者の入国申請すべてを検討するため,政府のある役人が無認可の委員会を設けていたことが明らかになりました。この委員会は,私たちの宗教上の敵対者で構成され,ビザの申請をことごとく却下していたのです。しかも,首相には何の報告もなされていませんでした。

「この悪巧みについて何も知らなかった首相は,入国管理の責任者に,エホバの証人に関する書類を持ってくるよう,その場で指示しました。そして私たちの目の前でその不正な委員会を解散させ,ポール・エバンズとフランシス・エバンズに,延長の可能な3年間の宣教者ビザを与えました」。まさに胸の躍るような知らせです。19年に及ぶ粘り強い努力の末,二人はついに正式に認められた宣教者としてサモアに入国できたのです。

エバンズ夫妻は最初,ムファウル・ガルバオの家に,その家族と一緒に住みました。しかし1977年,ジョン・ローズとヘレン・ローズがサモアに来ると,ローズ夫妻と共に新設された宣教者ホームに住むことになりました。それはアピアのバイアラ地区に借りた家です。その後も宣教者が入ってきました。1978年にはロバート・ボイスとベティー・ボイスが,1979年にはデービッド・ヨシカワとスーザン・ヨシカワが,1980年にはラッセル・アーンショーとレイラニ・アーンショーが加わったのです。

島の生活に順応する

これまで何年にもわたって,外国からサモアに証人たちが移ってきました。その人たちは,楽園のような土地での生活にもたいへんな面があることを,すぐに悟ります。その一つが交通手段です。ジョン・ローズはこう書いています。「アピアで宣教者として奉仕した最初の2年間は,集会や伝道に行くためにしばしば長い距離を歩いたものです。また,地元の人がよく利用する,カラフルなバスにも乗りました」。

派手に飾られたこの乗り物はたいてい,小型や中型のトラックの荷台に,木で作った乗客用のベンチを据え付けたものです。車内はすし詰めになり,乗客は農具から野菜や果物まで,何でも持ち込みます。大きな音で音楽が流され,乗客は陽気に歌い,さながらお祭り気分です。停留所,時刻表,路線などは,あってないようなものです。ある旅行ガイドにはこう書かれています。「ババウ行きのバスほど正確に運行しているものはない。着いた時刻が“定刻”なのだ」。

ジョンはこう言います。「途中で何か買いたいものがあれば,運転手にバスを止めてもらい,買い物ができます。その後,またバスに乗り,移動を続けます。遅れたと文句を言う人は一人もいませんでした」。

バスが満員になると,新たに乗ってくる人は座っている人のひざの上に座ります。宣教者の兄弟たちは,妻をひざの上に座らせておくのが得策であることをすぐに悟りました。目的地に着くと,たいてい子どもも大人も耳からコインを取り出して乗車賃を払います。便利な“小銭入れ”です。

宣教者や伝道者は,他の島に移動するために飛行機や小型の船を利用しました。移動には危険が伴い,遅れは付きものでした。「辛抱することと,ユーモアのセンスを持つことを学ばなければなりませんでした」と,エリザベス・イリングワースは言います。エリザベスは夫のピーターと共に長年,南太平洋の島々で巡回奉仕をしてきました。

陸では大雨が降ると移動が困難になります。サイクロンの時期は特にそうです。宣教者のジェフリー・ジャクソンは,会衆の書籍研究に行く途中,水かさの増した川を渡ろうとした時,足を滑らせ,ごうごうと流れる川の中で転んでしまいました。ずぶ濡れになり,泥まみれの状態で川から上がり,そのまま集会に行くと,場所を提供していた家族は体を乾かせるようにし,黒くて長いラバラバ(ポリネシアの巻きスカートのようなもの)を着せてくれました。関心を持つ新しい人が集会の時に兄弟のことをカトリックの司祭と勘違いしたので,一緒にいた人たちは笑いをこらえるのに必死でした。ジャクソン兄弟は現在,統治体の成員として奉仕しています。

新たに移って来る人たちが経験する困難としては,新しい言語を習得し,年中続く熱帯の暑さに慣れ,なじみのない病気に対処し,現代の便利品がほとんどない生活をし,虫に刺されないよう絶えず気をつけることなどがあります。ムファウル・ガルバオはこう書いています。「宣教者は私たちのためにまさに身を費やしてくれました。結果として,感謝の念を抱いた親の中には,愛情をこめて援助してくれた宣教者と同じ名を我が子につけた人もいるほどです」。

サバイイ島に良いたよりが伝わる

サモア諸島で一番大きく,自然が最もよく残されているサバイイ島に注意を向けましょう。この島の大部分には人が住んでいません。島には山々がそそり立ち,450ほどの火口がある険しい尾根が続き,人がほとんど入れないジャングル,ごつごつした溶岩原があります。島民の大半は海岸沿いに点在する小さな村に住んでいます。サバイイ島に良いたよりが初めて伝わったのは1955年のことです。レン・ヘルバーグと幾人かの伝道者がウポル島から来て短期間滞在し,「躍進する新しい世の社会」という映画を上映しました。

その6年後,二人の宣教者の姉妹がアメリカ領サモアからサバイイ島に移るよう要請されました。サモア人としてギレアデ学校に初めて出席したティア・アルニと,パートナーのアイビー・カウエです。二人は1961年にやって来て,島の東側にあるフォガポアという村に住む,年配の夫婦の家に滞在しました。後には,サバイイ島に以前住んでいた特別開拓者の姉妹がしばらくの間二人に加わりました。6人から8人で成るこの新しい群れを励まし,助けるため,アピアから兄弟たちが月に1回訪れて公開講演をしていました。この集会は,フォガポアの小さなファレで開かれました。

ティアとアイビーは1964年までサバイイ島にとどまり,その年に別の島での奉仕を割り当てられました。それから10年間は,サバイイ島で霊的な活動はほとんど行なわれませんでした。1974年以降,幾つかの家族がその島に移動し,業を再開しました。次の人たちです。リサティ・セギとマレタ・セギ,ハッピー・ゲルドナー-バーネットとマオタ・ゲルドナー-バーネット,ファイガアイ・トゥ,パロタ・アラギ,クミ・ファレマア(結婚後はトンプソン),それにアメリカ領サモアから移動してきたロン・セラーズとドリー・セラーズです。フォガポアにできた少人数の群れは,浜辺に隣接したセギ夫妻のファレで集まりました。後にその近くに宣教者ホームと王国会館が建てられました。やがてもう一つの群れが,サバイイ島西岸のタガという村にできました。

1979年以降,さらに多くの宣教者の夫婦が地元の伝道者を援助するため,サバイイ島に割り当てられました。ロバート・ボイスとベティー・ボイス,ジョン・ローズとヘレン・ローズ,レバ・ファアイウとテニシア・ファアイウ,フレッド・ホームズとタミ・ホームズ,ブライアン・マルケイヒーとスー・マルケイヒー,マシュー・クルツとデビー・クルツ,ジャック・ワイザーとメアリー・ジェーン・ワイザーなどです。宣教者たちが率先して奉仕することにより,サバイイ島での業は着実に前進しました。

とはいえ,サバイイ島の人々は,伝統や家族の結びつきに強く影響されています。島内の村の3分の1までがエホバの証人の伝道を禁じており,そのことをラジオで伝える所もあるほどです。ですから,新しい人が進歩するよう助けるには多くの時間と辛抱が必要です。それでも,大勢の人が真理に入り,その中には大きな健康上の問題を抱えている人もいます。

健康上の問題を乗り越えてエホバに仕える

メトゥセラ・ネルはその一人です。メトゥセラは12歳の時,馬から落ちて腰の骨を折ってしまいました。ある宣教者は振り返ってこう言います。「その事故の後,メトゥセラは歩く時に体が前に折れ曲がった状態で,いつも痛みがありました」。メトゥセラは19歳の時に聖書の研究を始め,家族から反対されても,固い決意をもって耐えました。会衆の集会へ,健康な人なら歩いて5分で行ける距離が,障害のために45分もかかりました。それでもよく進歩し,1990年にバプテスマを受けました。後に兄弟は正規開拓者として全時間奉仕を始め,さらには長老の資格も得ました。以来,30人以上の親族がファガでの集会に出席し,幾人かはバプテスマを受けました。メトゥセラは今でも健康の問題を抱えていますが,笑顔と明るい人柄でよく知られています。

重い病気を乗り越えて霊的に進歩した人として,サウマル・タウアアナエもいます。サウマルはハンセン病のために外見が損なわれ,僻地のアオポ村に住んでいました。そこは孤立した村であるため,最初はアイバン・トンプソンと手紙で聖書研究をしていました。後に特別開拓者のアサ・コーがサバイイ島に移り,研究を引き継ぎました。サウマルは1991年に初めて集会に出席した時,島の反対側にあるタガという村に,車で2時間かけて行かなければなりませんでした。

特別一日大会に初めて出席した時,サウマルは自分の外見のためにひどく気後れし,プログラムを車の中で聞いていたほどです。しかし,昼の休憩時間に兄弟姉妹が親愛の情を抱いて近づき,心から歓迎してくれたことに,とても感動しました。温かい勧めに感謝して応じ,プログラムの残りの部分は,聴衆と一緒に会場内の席に座って聞きました。

やがてサウマルと妻のトリセは,片道1時間以上をかけて,ファガでの集会に出席するようになりました。サウマルは1993年にバプテスマを受け,やがて奉仕の僕になりました。後に片足を切断する手術を受けたものの,引き続き自分で車を運転して集会に出席しました。サウマルとトリセは,自分たちの村がエホバの証人の伝道を禁止した時も,非公式に,また電話によって他の人に熱心に証言したのです。

二人は今ではアピアに住んでおり,健康上の問題を多く抱えるサウマルは,定期的に治療を受けています。サウマルは自分の状況を苦々しく思ったりしていません。むしろ,積極的で快活な人として知られています。サウマルも妻も,その強い信仰によって人々から敬意を得ています。

トケラウでの試練

サモアの北に位置し,三つの環礁島から成るトケラウに王国の音信が初めて伝わったのは1974年のことです。その年に,フィジーで医学部を卒業したロパティ・ウイリという医師はトケラウに戻りました。妻のエマウはバプテスマを受けており,ロパティもフィジーで短期間エホバの証人と研究していました。 f

トケラウに戻ったロパティは,やはり医師であるイオナ・ティニエルと妻のルイサがバプテスマを受けたエホバの証人であることを知ります。さらに,関心を持つ人で,エホバの証人の親族がいるナヌメア・フォウアとも出会います。この3人の男性が聖書を学ぶ定期的な集まりと公開講演を取り決め,間もなく出席者は平均で25人になりました。これら3人の男性とその家族は,他の人に非公式の証言を行なうようにもなりました。

しかし,こうした神権的な活動を皆が快く思っていたわけではありません。島の長老会議は,ロンドン伝道協会のある牧師に扇動され,3家族の頭たちを呼び出します。ロパティはこう語ります。「集会をやめるようにと命じられ,従わないなら私たちを家の中に閉じ込めて火をつけるか,いかだに乗せて島から追い出す,と言われました。聖書から筋道立てて話しましたが,長老たちは一歩も譲らず,とにかく自分たちの権威に従うように強要してきました」。この最後通告を受け,それらの家族は人目を引かないよう注意しながら集会を開くことにしました。

とはいえ,この反対は問題の始まりに過ぎませんでした。12年後にロパティの姉夫婦が真理を受け入れて教会を脱退すると,村の長老たちはエホバの証人を全員追い出したのです。ロパティはこう書いています。「その晩,家族ごとに持ち物をまとめて小さな船に積み込み,島でいちばん大きな村に逃げました。家や農園は,かつての隣人たちによって略奪されました」。

こうした迫害にもかかわらず,伝道者たちは勇気をもって崇拝のために集まり続けました。ロパティはこう語ります。「それぞれの家族は週末,遊びに行くように見せかけて,土曜日の朝にカヌーで小さな孤島に向かい,集会を開いた後,日曜日の晩に戻りました」。そのころ,幾つかの家族はまた,毎年の地域大会に出席するためトケラウからサモアまで長くてきつい船旅をしていました。

しかし,容赦ない反対が続いたため,これらの家族は結局ニュージーランドへ移住しました。1990年には,トケラウにエホバの証人が一人も残っていませんでした。それでも,当時アピアで開拓奉仕をしていたアイバン・トンプソンは,トケラウに住むロネ・テマという青年と手紙で研究しました。ロネは霊的に進歩し,今ではオーストラリアで長老として奉仕しています。

後に幾人かの伝道者はトケラウに戻りました。当時サモアの支部事務所で奉仕していたジェフリー(ジェフ)・ジャクソンは,ニュージーランド政府のトケラウ担当の長官と会ってトケラウのエホバの証人の現状について話したいと思っていたものの,なかなか接触できませんでした。ジェフはこう書いています。「そんな折,私は言語の専門家としてトケラウを訪れる許可を得ることができました。トケラウへの船旅の途中に船長から,もう一人の男性と共に,上級船員のためのラウンジでお茶に招かれました。その男性は何と,私たちが接触を試みていたトケラウ担当の長官だったのです。私たちは1時間以上話しました。話し合いの終わりに,長官は私に感謝し,トケラウの兄弟たちに対する圧力が和らぐよう善処することを約束してくれました」。

当局は今なお,トケラウにおけるエホバの証人の業に反対の立場を取っています。フイマヌ・キリフィとハテサ・キリフィの末の子どもが2006年に亡くなり,父親のフイマヌが聖書から葬式の話をしたところ,長老会議は一家を島から追い出すと脅しました。後にフイマヌは,地元の教会に関係した仕事を断わったところ再び脅しを受けました。さらに,フイマヌも妻も,政治活動に加わるよう圧力をかけられました。それでも,家族として信仰を保ち,堅く立ちました。その結果,この一家の信仰はそれまで以上に強くなったのです。「試練の間もエホバに頼ることを学びました」とフイマヌは言います。(ヤコ 1:2-4)この家族は,エホバが忠実な僕たちを見捨てたりされないことを知るようになりました。―申 31:6

エホバの祝福による霊的な増加

良いたよりがサモアに初めて伝わって以来,さまざまな支部がこの諸島における王国の業を監督してきました。現在は,骨折って働く4人の国内委員会の兄弟たちが,オーストラリア支部の監督のもとで奉仕し,サモア諸島での活動を世話しています。これまでサモアの兄弟たちは,遠隔の島々にも王国の音信を伝えることに力を注いできました。アメリカ領サモアにおける定期的な証言活動は,トゥトゥイラ島から遠く離れたスウェーンズ島(320㌔北)やマヌア諸島(100㌔東)にも及んでいます。そのような機会に,伝道者たちは文書を幾百冊も配布し,関心を持つ人たちとの聖書研究を何十件も取り決めました。さらに,他の伝道者たちも,地元の区域で外国語を話す人々に宣べ伝えることにより,いわば区域を広げてきました。

翻訳に力を入れる

伝道者の数の増加に伴い,サモア語の文書の必要性も大きくなりました。それにこたえるため,ツバルで宣教者として奉仕していたジェフリー・ジャクソンと妻のジェニーは1985年,サモアの支部事務所に移ることになりました。ジェフは,二人から成るサモア語の翻訳チームを監督する割り当てを受けました。こう語っています。「初めはベテルの食堂で翻訳の仕事をしていました。毎朝,テーブルの上のものを片づけてから翻訳を始め,昼前になると原稿を片づけて昼食のためにテーブルを整えます。食事が終わると再びテーブルのものを片づけて,翻訳を続けました」。

こうした状況だったので,仕事はあまりはかどりませんでした。翻訳の手順そのものも,多くの労力と時間を要していました。ジェフは振り返ってこう言います。「翻訳はほとんど手書きで行なってから,タイプライターで清書していました。原稿は校正や見直しのために何度もタイプし直し,ようやく印刷する準備ができました」。1986年,支部事務所に最初のコンピューターが入り,多くの手間を省くことができるようになりました。さらに,コンピューターを活用した支援ツールによって,翻訳と印刷の仕事が速く進みました。

この努力は主に,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の翻訳と出版のために払われました。1993年1月から,サモア語の「ものみの塔」誌は英語と同時に,しかも4色刷りで発行されています。そして1996年には,サモア語の「目ざめよ!」誌が年4回発行されるようになりました。ジェフはこう語ります。「『目ざめよ!』が出されたことは,新聞やラジオだけでなく,テレビのニュースでも取り上げられ,サモアじゅうに伝えられました」。

現在,サモアで奉仕する翻訳チームが,サモア語への翻訳の必要にこたえています。世界の他の言語の翻訳チームと同じように,サモアの勤勉な翻訳者たちも,言語の理解力と翻訳の技術を向上させる面で優れた訓練を受け,正確で効率的な仕事を行なっています。

支部の拡張が必要になる

1986年に,ミルトン・G・ヘンシェルが地帯監督としてサモアを訪れた時,支部の増大する必要にこたえる点で,シナモガの宣教者ホームは手狭であることが明らかでした。そのため統治体は,ブルックリンの設計・建設部門とオーストラリアの地区設計事務所の兄弟たちがサモアを訪れ,より大きな施設が必要かどうかを判断するよう指示しました。どんな提案が出されましたか。シナモガから5㌔内陸のシウセガという所にある3ヘクタールの土地を購入し,ベテルを新築する,という案です。さらに,新しい支部事務所が完成したなら,シナモガの古いベテル・ホームを取り壊し,そこに新たに大会ホールを建てるのです。

新しい支部の建設は1990年に始まりました。それはまさに国際的なプロジェクトでした。合計44人のインターナショナル・サーバント,69人のインターナショナル・ボランティア,地元の38人の専従奉仕者と他の多くの自発奉仕者が一致して働き,仕事を進めました。しかし,建設が順調に進んでいたやさき,災害が襲ったのです。

災害に見舞われる

1991年12月6日,これまで南太平洋を襲った嵐として最大規模のサイクロン・バルがサモアを直撃しました。風速70㍍を超える暴風が小さなサモア諸島で5日にわたって吹き荒れたため,植物や作物の90%が損なわれ,被害総額は3億8,000万㌦に達しました。残念なことに16名の犠牲者が出ました。

その時のことについてジョン・ローズは,「支部事務所はすぐに救援活動を組織しました」と述べています。数日のうちに,救援物資を満載したコンテナがフィジー支部から届きました。程なくして太平洋地域の他の支部からも救援のための寄付が寄せられました。

シウセガでインターナショナル・サーバントとして新しい支部の建設に携わっていたデーブ・ステープルトンは,こう書いています。「当座の必要が優先され,きれいな水,防水シート,灯油,医薬品が被災した兄弟たちに配られました。その後,シナモガのベテルを再び使えるようにしてから,被害を受けた建設中の支部の建物を修復しました。さらに,被害を受けた王国会館,宣教者ホーム,個々のエホバの証人の家の修理や再建を行ないました。仕事がすべて終わるまでに何か月もかかりました」。

政府は後日,エホバの証人を含むすべての宗教団体に,建物を修理するための資金を支給しました。兄弟たちは,壊れた建物の修理はすでに完了したので,お金は政府の建物の修復に用いてくださいという手紙を添えて,資金を返しました。政府の役人たちはそのことに感謝し,支部の建設のために外国から送られてくる資材の関税を引き下げました。結果として建設費をかなり節約できたのです。

「夢にも思いませんでした」

サイクロンで被害を受けた建物の修復が完了した後,新しい支部の工事は速やかに進められました。1年半後の1993年5月,ベテル家族が待ち望んでいた引っ越しが行なわれました。ついにシナモガからシウセガの新しいホームに移ることができたのです。

さらに1993年9月,オーストラリア,ニュージーランド,ハワイ,米国から技術を持つエホバの証人85人が,シナモガ大会ホールを建てるため,サモアにやって来ました。全員が自費で参加しました。オーストラリアから来た兄弟たちの責任者ケン・アボットは,こう書いています。「現場で使う建築用語や度量衡はさまざまでしたが,どんな問題もエホバの霊の助けにより,前向きな態度で乗り越えることができました」。

ハワイから来ていたエイブラハム・リンカーンは,こう語っています。「国籍の違う兄弟たちが肩を並べて働く様子をじかに見て,皆が良い影響を受けました」。

国際的な建設チームの一致した努力によって,大会ホールはわずか10日で完成しました。地元の伝道者たちは,サモアに来た兄弟たちと働いて貴重な建設の技術を学び,また霊的な益も受けました。そのため,工事が完了してから開拓奉仕やベテル奉仕を始めた人もいたのです。

ついに1993年11月20日と21日に,支部と大会ホールの献堂式が行なわれました。統治体のジョン・バーが両方の献堂式の話をしました。古くからの宣教者ポール・エバンズは,その喜ばしい集いに出席した多くの人の気持ちを次のように言い表わしました。「エホバがこれほどまでに祝福してくださるとは,夢にも思いませんでした」。

真理が生活を変化させる

人々は神の言葉の真理に心を動かされると,自分の生活をエホバの高い規準に合わせたいと思うようになります。サモア人の中にも,神の言葉の力によって生活を変化させてきた人が少なくありません。―エフェ 4:22-24。ヘブ 4:12

例えば,ンゴンゴ・クプとマリア・クプは,サモア人の言う“闇の中で生きる”,つまり内縁関係にありました。フレッド・ウェゲナーは次のように述べています。「私たちはこの二人としばらく研究していましたが,結婚していないということを知りませんでした。ところがある日,二人は取得したばかりの結婚証明書をうれしそうに見せてくれました。それから間もなくバプテスマを受けました。ンゴンゴは後に亡くなりましたが,マリアはアメリカ領サモアで今も正規開拓者として奉仕しています」。

サモアで新しい人が直面するもう一つの問題は,血の神聖さに関係したものです。サモアには絞め殺した豚や鶏を調理して食べるという習慣がありますが,これは神の言葉が禁じていることです。(創 9:4。レビ 17:13,14。使徒 15:28,29)アメリカ領サモアに住むある若い女性は,この件に関する神の明確な命令が自分の聖書の中に記されているのを見て驚きました。ジュリー-アン・パジェットはこう説明しています。「この女性は,家族みんなが教会に通い,聖書も定期的に読む家庭で育ちましたが,血抜きされていない肉を子どものころから食べていたのです。それでも聖書の指示をすぐに受け入れ,血抜きされていない肉は以後食べないことを決意しました」。血の神聖さに関するエホバの証人の立場は,今ではサモアのどこでもよく知られています。さらに,サモアの医療関係者も多くの場合,輸血に関するわたしたちの立場に敬意を払ってくれます。

創造者を賛美する若者たち

サモアでは,親は子どもが小さいときから料理,掃除,畑仕事,また弟や妹の世話をすることなどを教えます。早くから与えられるそのような訓練は,サモアの子どもたちがまだ若くても霊的な責任を果たす上で助けになっているようです。中には家族の助けがなくてもエホバに仕えるという立場を定める若者もいます。

アネ・ロパティは,両親が集会に行かなくなった時,13歳でした。それで兄,弟,妹をいつも呼び集め,集会に出席するため,王国会館まで8㌔の道のりを歩きました。後にアネは開拓奉仕をし,またシウセガの支部の建設現場で働きました。アネはこう書いています。「わたしは宣教者たちから大きな感化を受け,霊的に進歩するよう助けていただきました」。アネは建設奉仕をしていた時にオーストラリアから来ていたスティーブ・ゴールドに出会いました。二人は結婚し,インターナショナル・サーバントとして東南アジア,アフリカ,ロシアで建設奉仕を行ない,サモアのベテルに戻りました。現在はオーストラリア支部で奉仕しています。

放送によって教える

エホバの証人はこれまで王国の良いたよりを広めるため,さまざまな手段を用いてきました。特に効果的だったのはラジオ放送です。アピアに拠点を置く独立したFMラジオ局から,週に一度の番組をエホバの証人に担当してもらえないかという話がありました。1996年1月から始まったその番組の題は,「聖書に関する質問の答え」というものでした。

サモア支部のレバ・ファアイウとパロタ・アラギが出演し,台本も準備しました。レバはこう説明します。「初回の番組の中で,アラギ兄弟が次のような幾つかの質問をしました。ノアの時代の洪水は実話ですか。洪水の水はどこから来て,どこに行ったのですか。すべての動物をどうやって箱船の中に収めることができたのですか。それに対して私は,エホバの証人の出版物の内容をもとに,質問に答えました。番組の終わりには,翌週のテーマを紹介し,何か尋ねたい点があれば近くのエホバの証人と連絡を取るよう勧めました。別の時には,次のような質問を扱いました。ソロモンには妻が大勢いたのに,クリスチャンは妻を一人しか持てないのはなぜですか。愛の神が火の燃える地獄で人々を永遠に苦しめたりするのでしょうか。聖書は神の言葉ですか,それとも人間の言葉ですか」。

その番組は1年余り続き,多くの人の関心を呼び起こしました。アイバン・トンプソンはこう語っています。「いろいろな人から,その番組をいつも楽しく聴いていた,と言われました。聖書にそのような興味深い質問の答えが出ているとは知らなかった,と言う人もいました」。

王国会館が必要とされる

1990年代には,サモアとアメリカ領サモアのほとんどの会衆は,個人の家や,木や草で作った建物で集まっていました。2002年から2007年まで国内委員会で奉仕したスチュワート・ドゥーガルは,次のように言います。「そのような集会場を見た地元の人たちから,ばかにされることもよくありました」。アメリカ領サモアのタフナにある,築25年の王国会館も老朽化していました。新しい建物が切実に必要でした。

しかし,新しい王国会館を建てるには,もっと広い土地が必要です。トゥトゥイラは小さな島なので,そのような土地はほとんど見つかりません。兄弟たちは,ある著名なカトリック教徒の女性のところに行きました。その人は,古い王国会館に程近いペテサに空き地を持っていました。兄弟たちが崇拝のための会館を建てられる土地を必要としていることを知ると,その女性は娘に相談してみると約束しました。娘はそこに商業用の建物を建設することを計画していたのです。3日後,兄弟たちの祈りは聞き届けられました。その女性は,「神様を第一にしなくてはいけない」という理由で,その土地を兄弟たちに売ることにしたと言ってきたのです。

ウォーレス・ペドロはこう書いています。「その女性は,私たちが支払いを済ませる前に土地の権利証書を渡してくれ,『あなたたちは正直なので,間違いなく全額支払ってくれるでしょう』と言いました。もちろん,お金はきちんと支払いました」。この敷地に,冷房を完備した250席の美しい王国会館が建てられ,2002年に献堂されました。

1999年,エホバの証人は資金の限られた国々で王国会館を建設するための新しい取り決めを設けました。その取り決めのもと,サモア諸島で最初に建てられたのは,ウポル島の南海岸にあるレファガという孤立した村の王国会館です。エホバの証人10人で成るレファガの会衆はそれまで,ある伝道者の家の正面に付け足した,壁のない草ぶきの部屋で集会を開いていました。

その建設プロジェクトを監督したのはジャック・シーディーです。ジャックはオーストラリア人で,妻のコラルと共にトンガで7年間奉仕した経験があります。こう書いています。「農家の人や漁師や主婦などの建設奉仕者たちは,遠くから見るとアリのように現場をあちこちと素早く動き回っていました」。

60席の王国会館が2001年に完成した時,村の人たちはその出来栄えに感心してこう言いました。「皆さんの会館は気品があり,シンプルで,とても魅力的ですね。わたしたちの教会とは大違いです。建物の装飾は派手で,たくさんの備品がとかく乱雑に置かれ,しかもほこりだらけです」。集会の出席者も大幅に増加しました。2004年に,この新しい会館で行なわれたキリストの死の記念式には205人が出席しました。

資金の限られた国々におけるこの建設計画によって,2005年の終わりまでに,サモア諸島全域で4軒の王国会館が新築され,3軒が改装されました。さらに,サモアのアピアにあるシナモガ大会ホールも改装されました。資金の限られた他の国々と同様,サモアの伝道者たちも,世界じゅうのクリスチャンの兄弟姉妹からの愛ある支援に深く感謝しています。―ペテ一 2:17

時代の変化に対応する

外国に移住したサモア人も大勢います。例えば,オーストラリアやニュージーランド,また米国,特にハワイには,かなりの数のサモア人が住んでいます。それらの国には,サモア語の11の会衆と二つの群れがあり,700人以上のエホバの証人が交わっています。さらに,移住先の英語の会衆で奉仕する,サモア人の伝道者もいます。

外国で霊的な訓練を受け,サモアやアメリカ領サモアに戻って訓練の成果を生かしている,サモア人の証人たちもいます。例えば1990年代には,次の兄弟たちがオーストラリアで開かれた宣教訓練学校に出席し,サモアに戻って王国の業を推し進めています。タラレレイ・レアウアナエ,シティビ・パレソオ,ケーシー・ピタ,フェアタ・スア,アンドリュー・コー,シオ・タウアです。現在,アンドリューと妻のフォトゥオサモアは,サモア・ベテルで奉仕しています。シオと妻のエセは,幼い息子エルネイサンを連れて巡回奉仕を数年行ないました。現在シオは国内委員会の成員です。他の卒業生も,長老,開拓者,会衆の伝道者として忠実に奉仕しています。

こうした立派な活動によってどんな成果が得られたでしょうか。2008年には,サモアとアメリカ領サモアの合計12の会衆で,最高620人の伝道者が奉仕しました。2008年の記念式には2,300人余りが出席しました。ですから,サモア諸島では伝道者がさらに増加する良い見込みがあります。

エホバの組織と共に前進する

これまでサモアにおいて心の正直な大勢の人々が神の王国の良いたよりにこたえ応じてきました。(マタ 24:14)海を行き巡った父祖たちの精神に倣い,それらの人たちはサタンの古い世を出て,エホバの霊に導かれる組織の中の霊的な新天地を目指す旅をしています。彼らは,その旅の途中で直面する数々の問題を克服してきました。そうした障害の中には,家族の反対,村からの追放,僧職者による宣伝,政府が課す制限,不道徳への誘惑などがあります。それでも,まことの神エホバに仕えることをやめたりはしません。(ペテ一 5:8。ヨハ一 2:14)どんな結果になったでしょうか。霊的パラダイスの恩恵に浴し,安らぎを得ているのです。―イザ 35:1-10; 65:13,14,25

とはいえ,この旅はまだ終わっていません。神の王国政府による義の支配を享受する地上のパラダイスという終着点は,すぐそこです。(ヘブ 11:16)サモア諸島のエホバの証人は,世界じゅうの兄弟たちと肩を並べ,神の言葉と強力な聖霊に導かれつつ引き続き前進し,ゴールに到達する決意を固めています。

[脚注]

a ラピタという名は,これらの人々が作った独特の土器が最初に発見された,ニューカレドニアの遺跡の名称にちなんだものです。

b 西サモアは1997年に国名がサモアに変わりました。これから先の記述では,サモアという名称を用います。

c ハロルドを家に泊めて世話したタリウタファ・ヤング氏の子孫のうち幾人かは,後にエホバの証人になりました。孫のアーサー・ヤングは現在,アメリカ領サモアのタフナ会衆で長老また開拓者として奉仕しています。ハロルド・ギルがヤング家に贈った聖書をアーサーは今も持っていて,大切にしています。

d サモア人にはファーストネーム(名)― 例えばペレ ― とファミリーネーム(姓)があります。ペレには,父方のフアイウポルというファミリーネームがありました。それに加え,サモア人の中には首長名を持つことを許される人もいます。エホバの証人の中には,首長名を放棄する人や,持つことを辞退する人もいます。その名に政治的もしくは世俗的な意味合いがあると感じるからです。この報告では基本的に,ペレ・フアイウポルといった具合に,ファーストネームの次にファミリーネームを付ける方法を取っています。

e この映画は1995年にビデオカセットで再び出され,以下の言語で入手できます。アラビア語,イタリア語,英語,オランダ語,韓国・朝鮮語,ギリシャ語,スウェーデン語,スペイン語,チェコ語,中国語(広東語,北京語),デンマーク語,ドイツ語,日本語,ノルウェー語,フィンランド語,フランス語,ポルトガル語(ブラジル,ヨーロッパ)。

f ロパティはその後,ニュージーランド滞在中にバプテスマを受けました。

[77ページの拡大文]

「今晩,あなたは王国の音信をお聞きになったのです。その音信を心に留めてくださることを私は心から願っています」

[98ページの拡大文]

「私たちが村を訪ねると子どもたちは,『ハルマゲドンが来たよ!』とよく触れ回ったものです」

[108ページの拡大文]

「ババウ行きのバスほど正確に運行しているものはない。着いた時刻が“定刻”なのだ」

[69,70ページの囲み記事/図版]

サモアの宗教 ― 昔と今

古代サモアの宗教は,多神教,アニミズム(精霊崇拝),心霊術,先祖崇拝などの種々の面を取り入れたものでしたが,寺院や偶像はなく,祭司もいませんでした。宗教は生活のあらゆる面に浸透していました。では,1830年にサモアを訪れたロンドン伝道協会の宣教師たちが,人々を改宗させるのに好都合な状況にあると感じたのはなぜでしょうか。

サモアの古代の伝承では,強力な新しい宗教が古い神々の支配を終わらせることが予告されていました。サモアの首長たち(マタイ)は,宣教師たちがその新しい宗教の代理者であると考えました。マリエトア王はキリスト教徒の神エホバを崇拝することを選び,臣民にもそうするよう命じたのです。

カトリック,メソジスト派,モルモン教会,ロンドン伝道協会などの宣教師たちは大勢の信者を獲得し,今日サモア諸島では住民のほぼ全員が教会に属しています。サモアの政府もアメリカ領サモアの政府も宗教的な標語を掲げ,それは「神はサモアの基」,「サモアよ,神を第一に」というものです。サモアではテレビで宗教番組がよく放映されています。

村に住む人々は宗教の影響をとりわけ強く受けます。多くの場合,地元の首長が村人の宗教を決めてしまうのです。地元の牧師の給料や教会の経費のために,時には収入の30%までも寄付するよう圧力をかけられることもあり,反感を抱く人も多くなっています。だれが最も高額の寄付ができるかを競わせることさえ行なわれ,いちばん多く寄付した“勝者”を公表する教会もあるほどです。

多くの村では,毎日10分から15分の「サ」と呼ばれる祈りの時間になると,活動を中断しなければなりません。長い棒を持った青年たちが道路沿いに間隔を置いて立ち,取り締まりに当たります。違反者は叱責されたり,最高100㌦もの罰金を科されたり,長老たちや村人にごちそうをふるまったりしなければなりません。ひどい場合は,打ちたたかれることや村から追放されることもあります。

ある時,巡回監督のジョン・ローズは妻のヘレンと共に,移動のためにくたくたになってサバイイ島のサリム村に到着しました。ちょうど「サ」が始まったばかりだったので,見張りの人たちから,村に入らないで待つよう求められました。二人は言われたとおり,「サ」が終わるまで待ってから宿舎に向かいました。

村の高位首長は,二人が待たされたことを聞くと,滞在先の家の人にわびました。その首長は,エホバの証人は大切な客であると言い,見張りをする人たちに,ローズ夫妻がいつでも,たとえそれが「サ」の途中であっても村に入れるように指示しました。なぜ特別の扱いを受けたのでしょうか。首長の息子であるシオという若者が証人たちと聖書を研究し,霊的によく進歩していたのです。シオ・タウアは今,サモアの国内委員会の成員です。

[図版]

ジョン・ローズとヘレン・ローズ

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サモア,アメリカ領サモア,トケラウの概要

国土

サモアは二つの大きな主島 ― 18㌔の海峡で隔てられているウポル島とサバイイ島 ― と幾つかの小さな無人島から成っています。サモアの南東約100㌔にあるアメリカ領サモアは,主島のトゥトゥイラ島に加え,マヌア諸島,スウェーンズ島,アウヌウ島,そして無人のローズ島から成っています。トケラウはサモアの北480㌔に位置し,海抜の低い三つのサンゴ礁島で構成されています。

住民

人口は,サモアが21万4,000人余りで,アメリカ領サモアは5万7,000人ほどです。トケラウの住人は約1,400人です。90%余りはポリネシア系で,残りはアジア系,ヨーロッパ系,混血のポリネシア系の人々で成っています。

言語

主な言語はサモア語ですが,ほとんどの人は第二言語として英語を話します。トケラウでは,サモア語に似たトケラウ語が話されています。

生活

農業,観光,マグロ漁,水産加工が主な産業です。

食物

でんぷん質に富むタロイモ,料理用バナナ,パンノキの実をココナツミルクに混ぜたものが主食になります。豚肉,鶏肉,魚も供されます。パパイア,パイナップル,マンゴーなどのトロピカル・フルーツも豊富です。

気候

赤道に近いため,1年の大半は高温多湿です。アメリカ領サモアのトゥトゥイラ島の首都パゴパゴは,年間降雨量が5,000㍉に達します。

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「とても良い本」

ハロルド・ギル兄弟は,サモア語の「死者はどこにいるか」という小冊子3,500部をアメリカ領サモアで配布するため持ち込みました。行政官にその小冊子を1部渡したところ,各宗派の指導者に見せるよう提案されました。一般の人々に配布するのがふさわしいかどうか,それらの指導者が法務長官に意見を述べられるようにするためです。各宗派の指導者たちはどう反応するでしょうか。

ロンドン伝道協会の牧師は友好的で,反対しませんでした。セブンスデー・アドベンティスト派の人々は,ハロルドが自分たちの信者を連れ去らない限り関知しない,という態度を取りました。海軍の牧師は皮肉めいたことを言いましたが,敵対的ではありませんでした。カトリックの司祭には,会いに行かなくてもよくなりました。思いがけない出来事が起きたからです。ハロルドは,自分を行政官のところに案内してくれたサモア人の警察官に,その小冊子を1部手渡していました。数日後,その警察官に,興味深く読むことができたかどうか尋ねました。

すると警察官はたどたどしい英語でこう答えました。「長官[法務長官]わたしに言った。『[カトリックの]司祭に,これ良い本か聞いて来なさい』。でも,わたし木の下行く,本読む。わたし思う。『これとても良い本,でも司祭見たら言う,「良くない本」』。だから,わたし長官に言った。『司祭言った,「とても良い本」』」。

後日,法務長官がハロルドに,自分の事務所に来るようにと言いました。事務所の中で,長官がその小冊子のページをめくる間,ハロルドは内容を説明しました。すると長官は電話をかけて,その小冊子を配布する許可を与えるよう指示しました。その結果,ハロルドは持ち込んだ小冊子のほとんどを島々で配布することができたのです。

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サモアの伝統文化

1847年,ロンドン伝道協会の宣教師ジョージ・プラットはサモア人を,「世界はさておき,ポリネシアで最も礼節を守る人々」と評しました。サモアには,ファア・サモア(サモアの流儀)と呼ばれる伝統文化があり,それは生活のあらゆる面を律する,高度に体系化された規範のことです。

この規範の中で最も重視されているのが,「自分より高位の人に対して敬意を,時には崇敬の念さえも示すことである」と,「サモア諸島」(英語)という本は述べています。この敬意は,礼儀作法,正しい言葉遣い,一族や村に対する忠誠心などの形で表わされます。先祖伝来の習慣や宗教を退けるのは,多くの人にとって考えられないことです。

こうした伝統の守り手である家長(マタイ)は,一族の日常生活にかかわる事柄を指示し,村の会議で一族の代表を務めます。絶対服従を命じ,権威を行使するに当たって,罰金を科したり,打ちたたいたり,村から追放したりすることさえあります。例えば,ある村で僧職者が少年たちを唆してエホバの証人に石を投げさせた時,村のマタイはその僧職者に罰金を科しました。

村には10人から50人のマタイがいます。拡大家族(アイガ)によって選出されるのが普通ですが,世襲によってその立場に就く人もいます。称号は,厳密な階級制にしたがって定められています。それぞれの村には,村の長(アリイ)がおり,村の会議のまとめ役を務めます。さらに,その代弁者(トゥラファレ)は儀式上の事柄を扱います。しかし,マタイの立場にある人がみな政治的もしくは宗教的な役割を担うわけではありません。専ら一族にかかわる事柄を扱う場合もあります。例えば,一族の土地の用途を決定する権限を持ち,それを管理する人がいます。

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「エホバの人」

サウバオ・トエトゥ

生まれた年 1902年

バプテスマ 1954年

プロフィール ファレアシウで真理を受け入れた最初の人。後にサウバオの土地に王国会館が建てられた。息子のタフィガ・サウバオの語った経験

アピアに住む父のいとこが1952年に,ファレアシウの我が家を訪れました。このいとこはエホバの証人と交わっていて,私の父と聖書について話したいと思っていたのです。村に住む親族数人が話に加わることにしました。その話し合いは,土曜日の朝から月曜日の午後まで続き,途中で仮眠を取るために1時間中断しただけでした。その後,週末になるたびに同じような話し合いをし,それが4回続けられました。父はついに,「これで疑問が解けた。これこそ真理だ」と皆の前で述べました。父の家族も,父の義理の弟フィナウ・フェオマイアとその家族も真理を受け入れました。

父はすぐに証言を始めたので,親族は動揺しました。父のことを敬虔なセブンスデー・アドベンティスト派の信者と見ていたからです。親族は父のことをあざけって,“エホバの人”と呼びました。しかし,それは最高の褒め言葉でした。父は小柄でしたが勇気のある人で,明晰な思考力を持ち,話す言葉には説得力がありました。ですから,新たに見いだした信仰について上手に弁明することができました。やがて私たちの小さなグループは,サモアで二つ目の会衆になりました。

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健康が優れなくても忠実

ファガリマ・トゥアタガロア

生まれた年 1903年

バプテスマ 1953年

プロフィール マタイになって名声を得る機会を辞退して正規開拓者になる。

ファガリマは視力が弱く,内反足で足が変形していたにもかかわらず,後に幾年もサモア各地で特別開拓者として奉仕しました。ある巡回監督は,ファガリマと家から家の奉仕をしていた時,眼鏡をかけずに聖書を正確に読んでいたので,目が良くなったのかと尋ねました。ファガリマは,眼鏡をなくしてしまい,覚えている聖句を暗唱したのだと答えました。

ファガリマはフィジーで開かれる大会にぜひ出席したいと思い,自分一人でウポル島の反対側に行き,4週間にわたってココナツを集めました。足が悪いのに,ココナツを1度に15個,3㌔ほど離れた所まで運びました。その場所で殻から果肉を取り出し,乾燥させます。それから,その果肉を売り,フィジー行きの切符を買うためにアピアまで行きました。しかし,運賃が値上がりしていたため,切符は買えませんでした。それでも,不平を言ったり,あきらめたり,だれかに助けを求めたりはせずに,元の場所に戻りました。ココナツから果肉を取り出し,さらにお金を得るためです。大会が自分の知らない二つの言語で開かれると思っていたにもかかわらず,それだけの努力を払ったのです。フィジーに到着したファガリマは,大会のプログラムの大部分が自分の言語で提供されることを知ります。努力は大いに報われました。

[87ページの囲み記事/図版]

『本当に楽しい毎日でした』

ロナルド・セラーズ

生まれた年 1922年

バプテスマ 1940年

プロフィール 1953年,妻のオリーブ(ドリー)と共に特別開拓者としてサモアに移動する。1961年,ギレアデ宣教者学校を卒業し,今でも特別開拓者としてアメリカ領サモアで奉仕している。

サモア政府は私たちのビザの延長を認めなかったので,妻と私はアメリカ領サモアに移りました。島を結ぶ船が午前3時に,人けのないパゴパゴの波止場に着き,私たちは船を降りました。アメリカ領サモアには私たち以外に伝道者はおらず,ポケットには12㌦しかありませんでした。その日の午前中に,以前に聖書研究をしていた人の父親が親切にも,家に泊まるようにと言ってくれました。一間だけの家の隅をカーテンで仕切り,そこで休みました。自分たちの住まいを探したかったのですが,すぐ隣の家から証言を始めました。

数週間後,ファガトゴ村のよろず屋の上にある大きなアパートを借りました。絵のように美しいパゴパゴ湾を一望できる場所でしたが,家具は何もありませんでした。ノア兄弟から言われたことを思い出しました。「太平洋の島では,便利なものはあまりないかもしれません。文書の箱をたたんで床に敷き,ベッド代わりにすることさえあるでしょう」。まさにそのとおりになりました。適当なベッドやテーブルや椅子を作るだけのお金がたまるまで,数か月かかりました。とはいえ,家と呼べる場所を持てただけでも幸せでした。

愛する妻は1985年に亡くなりましたが,私は今でもほぼ毎日奉仕に出かけています。50年余り続けてきた開拓奉仕や宣教者奉仕を振り返り,本当に楽しい毎日だったと心から言うことができます。

[88ページの囲み記事/図版]

「エホバへの愛を持たせてくれました」

ウォーレス・ペドロ

生まれた年 1935年

バプテスマ 1955年

プロフィール アメリカ領サモアで最初にバプテスマを受ける。妻のキャロラインと共に開拓奉仕をし,子どもを育てた。今は米国ワシントン州シアトルで奉仕している。

聖書を研究し,伝道を始めた時,着の身着のままで家から追い出されてしまいました。その晩は浜辺で寝なければなりませんでした。どんな結果になろうとも,あなたにお仕えするための勇気を与えてくださいと,エホバに祈りました。

翌日,学校の図書館にいたところ,たまたまポールエバンズ兄弟が入ってきました。兄弟は私の様子がおかしいことに気づき,「宣教者ホームに行って話しましょう」と声をかけてくれました。宣教者たちは親切にも私をそこに住まわせてくれ,同じ年にバプテスマを受けることができました。

高校卒業後には宣教者たちと一緒に開拓奉仕をしました。後にはカナダ出身の熱心な開拓者で,フィジーで奉仕したことのあるキャロライン・ヒンシと結婚しました。私たちはアメリカ領サモアで特別開拓奉仕を始めました。

両親も徐々に態度を和らげました。父は亡くなる前に聖書を研究しましたし,母は72歳でバプテスマを受けました。私は初期の宣教者たちの手本に感謝しています。宣教者たちはエホバへの愛を持たせてくれました。今に至るまでその愛が私の支えとなっています。

[91,92ページの囲み記事/図版]

粘り強さが良い結果に

ポール・エバンズ

生まれた年 1917年

バプテスマ 1948年

プロフィール 妻のフランシスと共に40年以上にわたりサモアとアメリカ領サモアで宣教者として奉仕する。

妻と共に1957年に巡回奉仕を始めた当時,サモアに入国するのは簡単ではありませんでした。政府は地元のエホバの証人を外国の証人たちから引き離し,助けを受けられないようにしていたのです。訪問者は観光目的の人も含め,滞在中に改宗行為はしないという趣旨の書類に署名することが求められました。それで,巡回監督として初めてサモアを訪れた時,改宗行為とは何を意味するか,入国管理官に尋ねました。その人が戸惑っているようだったので,こう質問してみました。

「あるカトリックの人が外国から来て,教会に行ったとします。教会で頼まれたなら,立ち上がってみんなの前で話をすることは許されるでしょうか」。

「それは差し支えないでしょう」と,管理官は答えます。

私はこう続けます。「ご存じのとおり,エホバの証人は人々の家を訪ねて聖書の音信を伝えます。もし私が友人から,その業を行なう時に一緒に来て欲しいと言われたなら,それは許されるでしょうか」。

「おそらく大丈夫だと思います」。

「では,家の人が私に質問してきたら,それに答えてもいいですか」。

「それは問題ありません」。

私は最後に,「これで安心しました。どう対応したらよいか,分かりました」と言いました。

巡回訪問を無事に終えて出国する時,この同じ管理官に,私たちの滞在中のことについて何か良くない報告を耳にしたかどうか尋ねました。

「いいえ。何も言うことはありません」という答えが返ってきました。

「次に入国する時はどうすればいいですか」とさらに質問しました。

すると,「入国管理局を通さないで,わたしあてに手紙を書いてください。そうすれば入国できるよう手配しましょう」と言われました。

その後何度か,勧められたとおりにして,訪問を行なうことができました。

偏りのない見方をするこの管理官の後任者たちは,残念ながらあまり協力的ではなく,私の後の巡回監督がサモアへ入国することを認めませんでした。この状況は1974年まで続き,その年に政府は妻と私に宣教者としての入国を許可しました。辛抱と粘り強さがついに報われたのです。

[図版]

フランシス・エバンズとポール・エバンズ

[97ページの囲み記事]

弁士たちの言語

サモア語は,柔らかで抑揚のある,耳に心地よい言語です。ところが,フレッド・ウェゲナーが述べるとおり,「大抵の語は母音が多くて込み入っており,宣教者たちは言語を習得するためにたくさんの練習(ファアタッイタッイガ)と励まし(ファアラエイアウイナ)が必要です」。

生彩に富む修辞表現やことわざ風の言い回しがサモアの文化の中で重要な位置を占めています。首長(マタイ)や弁士(トゥラファレ,代弁者)は好んで聖書を引用し,公式の場では凝った言い回しをします。サモア人の伝統的な礼儀作法が端的に表われているのは,場面に応じて正式もしくは儀式上の言葉をきちんと使い分けることです。サモア人には,首長格の相手への十分に確立された尊敬語(タウタラ・レレイ)があり,神,首長,権威者,外国人に語りかける時や,それらに言及する時に用います。一方,普段の会話や自分自身について話す時には,あまり形式張らない日常語(タウタラ・レアガ)を用います。

このように,サモア語には公的また儀式上の事柄を話題にしたり,聖書について話したりする際の,明確な敬語的表現があります。それを用いるなら人々の感情を害さないですみます。サモアで宣教者として奉仕し,現在は統治体の成員であるジェフリー・ジャクソンは,次のように説明しています。「サモア語には礼儀や敬意という概念が貫かれているため,サモア人に証言する時には,普通なら高貴な人に対して用いる丁寧な言い方をし,同時に自分自身については慣例どおりに一般語を用いることが重要です」。

[99ページの囲み記事/図版]

「涙が止まりませんでした」

ロバート・ボイス

生まれた年 1942年

バプテスマ 1969年

プロフィール 妻のエリザベス(ベティー)と共に1978年から1986年までサモア諸島で宣教者として奉仕する。

アメリカ領サモアに到着してまだ間もないころ,人々はサモア語を学ぼうとする私たちの努力を認め,たくさんの間違いを見過ごしてくれたものです。私はある時,サタンがこの世界に影響を及ぼしていることを示すために啓示 12章9節を引用しました。ところが,サモア語では悪魔(ティアポロ)とレモン(ティポロ)の発音がとてもよく似ています。この二つの語がごっちゃになってしまい,“レモン”が天から投げ落とされ,人の住む全地を惑わしている,と説明してしまいました。その上,エホバが間もなく“レモン”を打ち砕いて終わらせる,と言ったのです。当然ながら,家の人も,一緒に奉仕していた宣教者も大笑いしました。

別の時に,私は家から家の奉仕でサモア人の女性に,暗記した証言をしていました。後になって分かったことですが,その女性が理解できたのは,私が述べた啓示 21章4節という聖句の箇所だけでした。何か大切なことを伝えに来たに違いないと思い,その女性はすぐ中に入って,自分の聖書を開いて聖句を読みました。この一つの聖句が女性の心を動かし,後にその人は聖書研究を始め,子どもたちともども真理を受け入れたのです。

幸い,私たちはやがてサモア語をマスターし,多くの良い経験をしました。数年後,健康状態の悪化で米国に戻ることを余儀なくされました。サモアを去る時は,涙が止まりませんでした。

[101,102ページの囲み記事/図版]

「町じゅうの人が参列したかのようでした」

1950年代のことですが,フレッド・ウィリアムズの葬式は,アピアで行なわれた中で,とりわけ大きな規模のものになりました。船長として知られたフレッドは,がっしりした,年配の元船乗りで,妻がエホバの証人でした。七つの海を航海し,南太平洋の島々で名の通った人で,数々の功績を残しています。ある時など,はるか遠くの海で座礁した後,船員と共に救命ボートに乗り,わずかな食料だけで幾千キロもの距離を航海し,無事に帰還したことがありました。

船長は,宗教上の習わしは一般に偽善的だと考えていました。それでも,ウイスキーを飲み,ポーカーに興じていたこの元船乗りは,ビル・モスと聖書を研究し,熱心なエホバの証人になりました。バプテスマを受けたころには,目がほとんど見えず,ほぼ寝たきりの状態でした。それでも,新たに見いだした信仰について,見舞いに来る大勢の人に必ず話していました。その中には宗教指導者たちも含まれていたのです。

船長は自分が亡くなったら,エホバの証人が葬式を執り行ない,海に葬ってほしいと言い残していました。ガーリー・モスはこう書いています。「葬式には町じゅうの人が参列したかのようでした。ラジオ局が訃報を伝え,アピアにある会社や企業も半旗を掲げて哀悼の意を表わしました」。大勢のエホバの証人に加え,法律家や学校の教師,著名な宗教指導者たち,それに企業の関係者も参列していました。

ビル・モスの話に皆が聴き入りました。ビルは聖句をたくさん引き,船長が抱いていた,楽園の地に復活するという希望について説明しました。ガーリーは言います。「船長はなんて立派な人だったのかしらと強く感じました。ふだんは戸別伝道で話を聞く機会のない大勢の人に,自分の葬式で証言がなされるようにと考えていたからです。『死んだとはいえなお語っている』アベルのようだと思いました」。(ヘブ 11:4)「船長は亡くなった日に,自分の葬式によって,いわば大きな証言をしたのです」。

船長の自宅で葬式の話が行なわれた後,50台以上の車が港に向かいました。ガーリーは次のように書いています。「波止場は見物人であふれていて,私たちが船まで行けるように警察官が人垣をかき分けなければならないほどでした。家族と共に,高等弁務官や,町の主立った人たちがアオレレ号(飛ぶ雲)という小型の帆船に乗り込み,出航しました」。この帆船の名前はぴったりでした。ビルは飛ばされないようマストにしがみついていなければならなかったからです。船はコルクのように波にもまれ,ビルにも,着ている服にも,聖書にも,猛烈な風が吹きつけたのです。最後に,ビルが『海はその中の死者を出す』という聖書の約束を引用し,祈りをささげました。(啓 20:13)その後,布に巻かれ,重しを付けられた船長の遺体が,こよなく愛した太平洋の荒波の中に投じられました。その葬式は後々までずっと話題になり,証言の機会がたくさん開かれました。

[図版]

バプテスマを受ける前のフレッド・ウィリアムズ“船長”

[109,110ページの囲み記事/図版]

『戻れるよう努力してきました』

フレッド・ウェゲナー

生まれた年 1933年

バプテスマ 1952年

プロフィール 妻のシャーリーと共にサモアのベテルで奉仕している。国内委員会の成員。

私たちは結婚して間もない1956年に,オーストラリアからアメリカ領サモアに移り,特別開拓者として奉仕しました。最初に割り当てられたのは,パゴパゴ湾の東側の入口にあるラウリイという小さな村です。ドアも窓も天井も水道もない,あばら家に引っ越しました。何とか住めるように手を加えた途端,家族が増えました。両親の反対で家から追い出されていたウォーレス・ペドロという若者が私たちと一緒に住んで開拓奉仕をすることになったのです。

2年後,私たちはギレアデ学校に出席し,宣教者としてタヒチに遣わされました。しかし,長くとどまることはできませんでした。政府は宣教者ビザの申請を却下し,文章は丁寧ながらも,次の飛行機で国外に退去するよう書面で伝えてきたのです。それでアメリカ領サモアに戻り,パゴパゴでポール・エバンズと妻のフランシス,ロン・セラーズと妻のドリーと共に,ファガトゴの宣教者ホームに住み,そこで奉仕しました。私は食堂のテーブルに置かれた古い謄写版印刷機でサモア語の「ものみの塔」誌と「わたしたちの王国宣教」を印刷しました。1962年,妻と共に巡回奉仕を行なうように招かれました。最初の巡回区は南太平洋の大部分から成り,アメリカ領サモア,キリバス,クック諸島,サモア,ツバル,トンガ,ニウエ,バヌアツ,フィジーが含まれていました。

8年後,息子のダリルが生まれ,アメリカ領サモアに居を定めました。私は特別開拓者として奉仕し,妻は聖書文書をサモア語に翻訳する奉仕に多くの時間を充てました。

そのころ,家計の足しに,アワビ漁を行なうエホバの証人と共に働いたことがありました。しかし,その人の小型船の船外機が故障し,4日間も漂流する羽目になりました。何百キロも流され,激しい嵐を切り抜け,32隻の船が行ってしまうのを目にし,危うく大型コンテナ船に衝突しそうになり,ようやく救助されました。それから間もなく,妻が二人目の子を妊娠したことが分かります。1974年,私たちは不本意ながらオーストラリアに戻ることにし,そこで娘のタマリが生まれました。

その後も時あるごとに,宣教者として遣わされた,こよなく愛する島に戻りたいと思ったものです。ですから1995年,私たち夫婦が娘と共にサモアに戻って3人ともベテルで奉仕するよう招かれた時,どんなにうれしかったか,想像していただけるでしょうか。1年後,妻と共に再び巡回奉仕をするように招かれました。26年ぶりのことです。サモアやアメリカ領サモアやトンガで共に奉仕した,長年忠実に歩んできた人たちと再会できたのは,大きな喜びでした。―ヨハ三 4

現在,私たち夫婦は,タマリとその夫である基井英之と共にサモアのベテルで奉仕しています。サモアに戻れるよう努力してきて,本当に良かったと思います。

[113,114ページの囲み記事/図版]

『エホバは祈りに答えてくださいました』

ファイガアイ・トゥ

生まれた年 1932年

バプテスマ 1964年

プロフィール 1965年から1980年にかけてウポル島とサバイイ島で開拓奉仕をする。現在はサバイイ島に住んでいる。

私は生まれつき両足がひどく変形しています。足のつま先が丸まって,かかとの下にまで来てしまい,歩くのがとてもたいへんです。

初めて真理について聞いた時,心に深く響きました。会衆の集会に出席したかったのですが,岩だらけの固い道を歩いてそこまで行くのは到底無理に思えました。しかしそのうち,ゴムのサンダルを使って特製の靴を自分で作ることを覚え,もっと楽に歩けるようになりました。

バプテスマを受けて間もなく開拓奉仕を始めました。ウポル島で9年開拓奉仕をした後,姉夫婦と共に,王国伝道者の必要の大きいサバイイ島に移動し,その島で特別開拓者になります。一緒に奉仕したのは,姪のクミ・ファレマアです。

姪と共にバスで毎週,ファガからラタというサバイイ島西岸の小さな村に行きました。そこで一人の女性との聖書研究を司会した後,8㌔離れたタガという村まで歩き,別の女性と研究しました。その日はこの女性の家に泊まり,翌朝バスでファガに戻ります。このようにして2年ほど通い続けた結果,うれしいことに,どちらの女性も,また後には家族も活発なエホバの証人になりました。

私は親族がサバイイ島を離れた後も島にとどまり,姉妹や関心のある女性たちで成るファガの少人数の群れを世話しました。毎週の「ものみの塔」研究や会衆の書籍研究を司会し,家から家の奉仕で率先しながら姉妹たちと共に働きました。月に1回,アピアから長老の兄弟が来て,日曜日の集会を司会してくださいました。村の長が集会で王国の歌を歌うことを禁じたため,皆で歌詞を朗読しました。5年後,この少人数の群れを世話するために,宣教者の夫婦レバ・ファアイウとテニシア・ファアイウがニュージーランドから移動して来ました。その後,他の宣教者たちも入って来ました。サバイイ島には現在,ファガとタガに活気あふれる会衆があります。

私はずっと独身ですが,子どもがとても好きで,見かけるとすぐに近づきます。一時期,ある子どもたちと共に住んだこともあります。また,霊的な“子どもたち”が成長し,エホバの側に立場を定めるのを見て,大きな喜びを味わってきました。

今では年を取り,家から家に歩いて伝道することはできなくなりました。自分の家で聖書研究を司会し,病院で会う人たちに証言しています。それでも自分の限界に気落ちし,もっと多くを行なえるよう助けてください,とエホバに祈りました。すると,会衆の宣教者たちから電話証言をしてみないか,と言われました。これまでの人生を振り返り,エホバが確かに祈りに答えてくださったことがよく分かります。

[118ページの囲み記事/図]

昨日,今日,明日

サモアとトンガでは時刻は同じですが,日付はトンガが1日先です。なぜでしょうか。サモアとトンガは国際日付変更線を挟んだところに位置し,トンガはその西に,サモアは東にあります。そのようなわけで,トンガとサモアはすぐ近くにありますが,毎年,キリストの死の記念式を世界で最初に行なう国の一つがトンガで,最後に行なう国の一つがサモアです。

[図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

\ サモア

| 水曜日

| 午後7時

|

|

|

|

|

トンガ |

木曜日 | 南太平洋

午後7時 |

|

|

国際 | 日付変更線

|

| ニウエ

|

|

|

|

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|

[123,124ページの囲み記事/図版]

神のみ名を尊ぶ聖書翻訳

1884年,キリスト教世界の宣教師たちは聖書をサモア語に翻訳し,その際にヘブライ語聖書全体でエホバの名を用いました。また,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でも,神のみ名の省略形を4回用いています。それは,「ヤハを賛美せよ」という意味のアレルイアという言葉の中に見られます。(啓 19:1-6)しかし,この翻訳の1969年改訂版では,エホバの名が一つの節を除いて,すべての節から削除されました。その一つの節にだけ出ているのは,翻訳者の見落としが原因と思われます。(出 33:14)教会の関係者は,神の名を賛美歌からも削除し,教会員にエホバという名を用いないようにさせました。

しかし2007年11月,聖書を愛するサモアの人々は,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のサモア語版を受け取ってとても喜びました。正確で理解しやすいこの翻訳は,霊感のもとに記された本文中に神のみ名を忠実に復元しています。以前にサモアで宣教者として奉仕した統治体の成員ジェフリー・ジャクソンは,アピアで開かれた,サモアとその周辺の島合同の特別な大会で,その新しい版を発表しました。

この発表のことがテレビのニュースでも伝えられ,大きな関心を呼び起こしました。サモアのベテルに電話をかけ,その聖書が欲しいと伝えてきた人たちもいます。政府の要職にある一人の人は,職員に渡したいので10冊欲しいと言いました。ある学校の校長は,学年の終わりに成績の良かった生徒たちに贈りたいと,5冊依頼してきました。

この新しい聖書が注意深く訳され,原文の意味を理解する上で貴重な助けとなっている,という好意的なコメントが多くの人から寄せられています。「新世界訳」は,サモアの人々が神のみ名を用いることの大切さを再び認識するための助けともなっています。ウポル島バイレレに住む特別開拓者フィナウ・フィナウは,ある女性が神のみ名を用いることの大切さを理解できるよう,イエスの模範的な祈りを引き合いに出し,次のようなやり取りをしました。

フィナウはマタイ 6章9節を読んだ後,こう尋ねました。「神聖なものとされるべきなのはどなたのお名前だと思いますか」。

「主です」とその女性は答えました。

フィナウはさらにこう論じます。「でもコリント第一 8章5節には,多くの『神』や多くの『主』がいるとあります。では,どうして主が真の神のお名前であると言えるでしょうか。多くの偽りの神々も同じく主と呼ばれているのです」。

その上でエホバというお名前が出ている箇所を見せ,キリスト教世界の人々が自分たちの翻訳聖書からその名前を取り除いたことを説明しました。そして核心を突く次の質問をしました。「もしだれかがあなたの一族の首長名(マタイの名)を取り除いたり変えたりしようとするなら,どう感じますか」。

「憤慨するでしょうね」と女性は答えました。

フィナウはこう返します。「そのとおりです。エホバも,み言葉 聖書からご自分の名を取り除こうとする人たちに対して,同じように感じておられるんですよ」。

[図版]

サモア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」

[126,127ページの囲み記事/図版]

「エホバは百倍とも言える祝福を注いでくださった」

ルメパ・ヤング

生まれた年 1950年

バプテスマ 1989年

プロフィール 元首相の娘。アピアで正規開拓者として奉仕する。

私はサバイイ島で育ち,父は著名な実業家また政治家でした。父は大規模なカカオ農園を持ち,200人ほどの人を雇っていたので,サモアの新聞にカカオ王として紹介されました。サモアの首相を幾年か務めたこともあります。

私は11人兄弟のうちの一人でした。父はとりたてて宗教に熱心ではありませんでしたが,母が聖書について基礎的なことを教えてくれました。母が亡くなった時,深い喪失感に襲われました。ですから,宣教者のジュディー・プリッチャード姉妹が復活の希望について証言してくれた時,母に再び会えると思い,胸が高鳴りました。

私が次々とする質問に,ジュディーはすべて聖書から答えてくれました。すぐに聖書研究になり,やがて証人たちの集会に出席し始めました。

夫のスティーブは,村の教会で執事として主立った立場にあり,私が研究することに当初は反対でした。夫は私を幾人かの僧職者のもとに連れて行きました。僧職者たちは私を説得して集会に行くのをやめさせようとしましたが,私は言いなりにはなりませんでした。次に父のところに連れて行かれましたが,父は研究を家以外の場所でしたらどうかと言うだけでした。実の兄弟姉妹は,私が宗教を変えたことをあざけりました。しかし,私は聖書の真理を学ぶことをあきらめませんでした。

ついに資格を得て王国伝道者になった時,1軒目に訪問したのはなんと,父の閣僚を務めた人の家でした。その人は父の家で開かれた政治的な会合にたびたび出席し,私のこともよく知っていました。とても気後れし,一緒に奉仕した人の後ろに隠れてしまいました。人々は私が伝道しているのを見ると戸惑い,「お父様はなんと言っているのですか」と尋ねたものです。しかし父は道理をわきまえた人で,私が新たに見いだした信仰を擁護してくれました。それだけでなく,そのころには「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌を自分で読むこともしていました。

やがて私は人への恐れを克服し,正規開拓者になりました。聖書研究を司会するのが大好きで,私の予定が空き次第,新たに研究を始められそうな人が50人ほどいます。しかし,何よりうれしいのは,4人の子どもたちに真理を教えることができたことです。娘のフォトゥオサモアと夫のアンドリュー,息子のスティーブンと妻のアナは,現在サモアのベテルで奉仕しています。さらに,妹のマヌが真理を受け入れるように助けることもできました。以前は反対していた夫のスティーブも,聖書を学び始め,集会に出席するようになりました。確かにエホバは百倍とも言える祝福を注いでくださったのです。

[図版]

左: フォトゥオサモア・コーとアンドリュー・コー。右: アナ・ヤングとスティーブン・ヤング

[129,130ページの囲み記事/図版]

エホバか,プロゴルフかを選ぶ

ルシ・ラファイテレ

生まれた年 1938年

バプテスマ 1960年

プロフィール プロゴルファーの道に進むよりも開拓奉仕を始めることを決める。

私が18歳の時,通りの向かいに住む家族がエホバの証人という宗教に入ったことを知りました。私は好奇心からその家の父親であるシエムタアセのところに行って,なぜそのように神のお名前エホバを用いるのか,尋ねてみました。シエムの親切な物腰や聖書から筋道立てて話してくれたことに心を動かされた私は,シエムと聖書を研究することになり,集会にも出席し始めました。そのことを知った父は,私を脅しつけました。私は集会に行かせてほしいと頼み込みましたが,エホバの証人とはかかわりを持つなと強く言われました。ところが意外にも,翌日になって父は考えを変えたのです。後におばから,「あなたは寝ていた時,『エホバ,助けてください』とずっと叫んでいたのよ」と言われました。どうやら夢の中でうなされて,寝言を言っていたようです。幸い,その寝言が父の心を和らげたのです。

私の家から通りを挟んだ向かいには,サモア唯一のゴルフコースもあり,私はそこで小遣い稼ぎに,プレーヤーがなくしたゴルフボールを見つけては集め,お金に換えていました。そのうち,当時サモアの元首だったマリエトア王のキャディーをするようになりました。王は私にゴルファーの素質があると考え,古いゴルフクラブのセットをくれました。さらに,私がプロゴルファーになれるよう,地元の二人の実業家をスポンサーとしてつけてくれました。私のゴルフの腕によって「サモアの名を揚げられる」と考えたのです。胸が高鳴りました。しかし程なくして,ゴルフがエホバに仕える点で妨げとなり始め,良心が痛みました。

世界のプロゴルファーたちが参加した,サモアのオープンゴルフ選手権大会で優勝した時,私は岐路に立たされることになります。王はたいへん喜び,選手たちが招かれるディナーパーティーで,私をアメリカ人のある有名ゴルファーに紹介したいと思いました。事の成り行きに困惑した私は,『さあ,どうするつもりなんだ。ゴルフを取るのか,エホバを取るのか』と自分に問いかけました。その夜,巡回大会のリハーサルを優先し,パーティーには行きませんでした。

当然ながら王はひどく腹を立てました。そのことで父から問い詰められた私は,エホバに仕えることがなぜそれほど大切なのかを聖書から長い時間をかけて説明しました。驚いたことに,父は涙を流し,こう話し出しました。「おまえが5歳の時,重い病気にかかってな,もう死んだと言われたことがあったんだ。それで,おまえの体を墓の中に降ろしていた時,ハチがおまえの顔を刺した。すると,おまえは大声で泣き始めた。まさに間一髪だった。今から思えば,あの時おまえが助かったのは,エホバ神の証人になるためだったんだな」。以後,父が反対することはありませんでした。

ニュージーランドに移住した後,私は正規開拓者,それから特別開拓者として合計10年奉仕し,ロビンという特別開拓者の姉妹と結婚しました。やがて子どもが3人でき,オーストラリアに移住しました。その後の30年,私は全時間の仕事をして家族を養い,その間にも大勢の親族を真理に導くことができました。さらに時あるごとに,再び開拓奉仕をさせてくださいとエホバに祈っていました。そして2004年にはうれしいことに,世俗の仕事を退職し,ついにその目標を達成することができたのです。プロゴルフの道を進む代わりに,エホバに仕えることを選んで,本当に良かったと思います。

[135ページの囲み記事/図版]

親の訓練が良い結果に

パナパ・ルイ

生まれた年 1967年

バプテスマ 1985年

プロフィール 妻のマレタと共にサモアで特別開拓者として奉仕する。

息子のソパが小学校に入学した時,校長に「エホバの証人と教育」のブロシュアーを渡し,宗教的また国家主義的な活動についてのわたしたちの立場を説明しました。

しかし,その翌日に息子から聞いたところによると,校長は全校生徒や教師の前でブロシュアーを破り,教会の賛美歌を歌うようエホバの証人の子どもたちに要求しました。それを拒むと,証人の子どもたちを全員の前に立たせ,自分たちの宗教の歌を歌うように求めました。そのように言えば,怖がって従うだろうと考えたのです。ところがソパは証人の子どもたちに,「『エホバよ,わたしたちは感謝します』の歌を歌おうよ」と呼びかけ,みんなで歌えるようリードしたのです。

校長は感心し,ソパの勇気を褒めました。後に,校長と他の幾人かの教師は真理に関心を示すようになりました。この校長はわたしたちを見かけるたびに,ソパは元気かと尋ね,よろしく伝えてほしいと言ってきます。ソパはその後も霊的によく進歩し,2005年にバプテスマを受けました。

[138,139ページの囲み記事/図版]

「集会は歩いて行ってもそんなに遠くありません」

バル・ロトヌウ

生まれた年 1949年

バプテスマ 1995年

プロフィール バルと6人の子どもは集会に出席するために山を越える22㌔の道のりを歩いた。

エホバの証人がレファガの私の家を訪ねて来たのは1993年のことで,私は聖書研究の勧めに応じました。その後まもなく,子どもたちと共に,島の反対側にある,22㌔離れたファレアシウでの集会に出席し始めました。

平日,晩の集会がある日には,子どもを学校に迎えに行き,早退させます。先生の中には,放校処分にすると言って脅す人もいましたが,私たちにとって集会は宗教上どうしても欠かせないものであると説明すると,何も言われなくなりました。子どもたちは銘々,集会用の着替え,聖書,歌の本,研究用の出版物をビニール袋に入れて持ちました。バスが通りがかると乗せてもらうこともありましたが,大抵は22㌔の距離をすべて歩きました。

ファレアシウの王国会館にようやく着くと,地元の証人たちは私たちを歓迎し,何か食べさせてくれました。また,シャワーを取って集会のために着替えられるようにもしてくれました。集会後は,再び長い時間をかけて家まで歩き始めます。島の中央を横切る尾根の上までたどり着くと休憩し,子どもたちは仮眠を取ります。その間も私は,家まで乗せてくれる車がそばを通らないか,ずっと見ていました。通常,家に着くのは真夜中をとうに過ぎてからでした。翌朝の5時には起床し,ファレアシウに向かう始発のバスに乗って,伝道に行きました。

ある時私は,村の高位首長がまとめ役を務めるマタイたちの会合に呼び出されました。村には私の祖父が建てた教会があるのに,そこには通わず,わざわざファレアシウまで出かけているのはなぜかと問い詰められました。結論として,ファレアシウの集会に行くのはやめるよう言い渡されました。しかし,何と言われようとも集会には行くつもりでした。人間よりも神に従うことを決意していたのです。―使徒 5:29

やがて状況は山場を迎えます。私が村のトオナイ(教会の聖職者や執事や村のマタイが集う,日曜日の昼食会)に出席しなかった時,首長たちは罰として肥えた豚5頭を差し出すよう要求したのです。私にとって,これはとても大きな負担でした。一人で6人の子どもを育てていたからです。それでもやっとのことで,飼っていた豚を大きくして渡しました。時たつうちに,村人たちは私たちの確固とした立場を尊重し,反対しなくなりました。

何年もの間,集会に行くには多大の努力が要りました。しかし,そのかいがありました。子どもたちはみな活発な証人で,息子の一人は奉仕の僕です。

今も子どもたちと共に歩いて集会に行っています。しかし,22㌔離れたファレアシウまで歩くのではなく,すぐ近くです。2001年,私たちの村に美しい王国会館が新築されたのです。活気のある一つの会衆がそこを使っています。ですから今でも,集会は歩いて行ってもそんなに遠くありません。

[132,133ページの図表/グラフ]

年表 ― サモア

1930

1931年 サモアに良いたよりが伝わる。

1940

1940年 ハロルド・ギルは「死者はどこにいるか」という小冊子を配布する。これはサモア語の最初の出版物。

1950

1953年 アピアに最初の会衆が設立される。

1955年 ギレアデを出た宣教者たちがアメリカ領サモアにやって来る。

1955年 「躍進する新しい世の社会」という映画がアメリカ領サモアの各地で上映される。

1957年 アメリカ領サモアで最初の巡回大会が開かれる。

1958年 「ものみの塔」誌のサモア語への翻訳が始まる。

1959年 西サモアで最初の巡回大会が開かれる。

1960

1970

1974年 サモアに宣教者たちがやって来る。トケラウで業が始まる。

1980

1984年 アピアのシナモガ宣教者ホームに支部が開設される。

1990

1991年 サイクロン・バルがサモア諸島に甚大な被害を与える。

1993年 サモア語の「ものみの塔」誌が英語と同時に発行されるようになる。新しいベテル・ホームと大会ホールが献堂される。

1996年 FMラジオで「聖書に関する質問の答え」という番組が毎週放送される。

1999年 王国会館の建設計画に弾みがつく。

2000

2007年 サモア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表される。

2010

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

700

400

100

1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010

[図版]

フランシス・エバンズとポール・エバンズ

[73ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ハワイ

オーストラリア

ニュージーランド

トケラウ

スウェーンズ島

サモア

アメリカ領サモア

マヌア諸島

ローズ島

南太平洋

ニウエ

国際日付変更線 水曜日

‐‐‐‐‐‐

木曜日

トンガ

アメリカ領サモア

トゥトゥイラ島

パゴパゴ

ペテサ

タフナ

ファガトゴ

ラウリイ

アウヌウ島

サモア

サバイイ島

アオポ

ラタ

タガ

ファガ

サリム

フォガポア

ウポル島

アピア

ファレアシウ

シウセガ

バイレレ

レファガ

ババウ

アピア

バイアラ

ファアトイア

シナモガ

[66ページ,全面図版]

[74ページの図版]

ペレ・フアイウポルとアイルア・フアイウポルは,サモア人として初めてエホバに献身した

[81ページの図版]

ロン・セラーズとドリー・セラーズは1953年に,必要の大きなサモアへ移動した

[84ページの図版]

リチャード・ジェンキンズとグロリア・ジェンキンズの結婚式の日,1955年1月

[85ページの図版]

ガーリー・モスとビル・モスがサモアへ向かうところ

[95ページの図版]

サモアの典型的な家

[100ページの図版]

アピアのこの王国会館はサモアで最初に建てられたもの

[107ページの図版]

タフナの最初の王国会館,アメリカ領サモア

[115ページの図版]

メトゥセラ・ネル

[116ページの図版]

サウマル・タウアアナエ

[131ページの図版]

アネ・ロパティ(現在はゴールド)は年若いころにエホバの側に立場を定めた

[141ページの図版]

サモアの事務所とベテル

サモアの国内委員会: 基井英之,フレッド・ウェゲナー,シオ・タウア,レバ・ファアイウ