マタイ​に​よる​福音​書 24:1-51

24  さて,イエスが神殿から去っていく時に,弟子たちが近づいてきて神殿の建物を指し示した。  それでイエスは言った。「この全てを見ているのですか。はっきり言いますが,石がこのまま石の上に残って崩されないでいることは決してありません+」。  イエスがオリーブ山+の上で座っていると,弟子たちが自分たちだけで近づいてきて,言った。「教えてください。そのようなことはいつあるのでしょうか。あなたの臨在+と体制の終結+のしるしは何ですか」。  そこでイエスは言った。「誰にも惑わされないように気を付けなさい+  私の名を使う人が多く現れ,『私がキリストだ』と言って多くの人を惑わすからです+  あなたたちは戦争の音や戦争の知らせを聞きます。動揺しないようにしなさい。これらのことは必ず起きますが,終わりはまだなのです+  国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり+,あちらこちらで食糧不足+や地震があります+  これら全ては苦しみの激痛の始まりです。  その時,あなたたちは苦難を味わい+,殺されます+。私の名のために全ての国の人々から憎まれます+ 10  またその時,多くの人が信仰を捨て,互いに裏切り,憎み合います。 11  多くの偽預言者が現れ,多くの人を惑わします+ 12  不法なことが増えるために,大半の人の愛が冷えます+ 13  しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われます+ 14  そして,王国の良い知らせは,全ての国の人々が聞けるように世界中で伝えられます+。それから終わりが来ます。 15  ですから,荒廃をもたらす極めて不快なものが,預言者ダニエルが語った通り,聖なる場所に立っているのを見掛けるなら+(読者は識別力を働かせなさい), 16  その時,ユダヤにいる人は山に逃げ始めなさい+ 17  屋上にいる人は,家から物を持ち出そうとして下りてはならず, 18  畑にいる人は,外衣を取りに帰ってはなりません+ 19  その期間,妊娠している女性と赤ん坊に乳を飲ませている人にとっては悲惨なことになります+ 20  逃げるのが冬や安息日にならないように祈っていなさい。 21  その時,世界の始めから今まで起きたことがなく,いえ,二度と起きないような+大患難+があるからです。 22  実際,その期間が短くされないとすれば,誰も救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのために,その期間は短くされます+ 23  その時,『見なさい,ここにキリストがいる+』とか,『そこに!』とか言う人がいても,信じてはなりません+ 24  偽キリストや偽預言者+が現れ,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きな奇跡*や不思議なことを行う+からです。 25  私はあらかじめ警告しているのです。 26  ですから,人々が,『見なさい,彼は荒野にいる』と言っても,出ていってはなりません。『見なさい,奥の部屋にいる』と言っても,信じてはなりません+ 27  人の子の臨在は,東から出て西に輝き渡る稲妻のようだからです+ 28  どこでも死骸のある所にはワシが集まります+ 29  その期間の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり+,月は光らず,星は天から落ち,天の力は揺り動かされます+ 30  その時,人の子のしるしが天に現れます。そして,地上の全ての民族は胸をたたいて悲しみ+,人の子+が力と大きな栄光*を帯びて天の雲に乗って来るのを見ます+ 31  そして人の子は,大きなラッパの音と共に天使たちを遣わし,天使たちは,四方から,天の果てから果てまで,選ばれた者たちを集めます+ 32  イチジクの木の例えから学びなさい。若枝が柔らかくなって葉を出すと,すぐに,夏が近いことが分かります+ 33  同じように,これら全てを見たら,人の子が近づいて戸口にいることを知りなさい+ 34  はっきり言いますが,これら全てが起きるまで,この世代は決して過ぎ去りません。 35  天と地は過ぎ去りますが,私の言葉は決して過ぎ去りません+ 36  その日と時刻については誰も知りません+。天使たちも子も知らず,父だけが知っています+ 37  人の子の臨在の時はちょうどノアの時代のようになります+ 38  洪水前のその時代,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,結婚したりしていました+ 39  そして,洪水が来て全ての人を流し去るまで+注意しませんでした。人の子の臨在の時もそのようになります。 40  その時,2人の男性が畑にいて,一方は連れていかれ,他方は捨てられます。 41  2人の女性がひき臼を回していて,一方は連れていかれ,他方は捨てられます+ 42  それで,ずっと見張っていなさい。主がどの日に来るかを知らないからです+ 43  しかし,1つのことを知っておきなさい。家の主人は,泥棒がどの夜警時*に来るかを知っていたなら+,目を覚ましていて,家に押し入らせはしなかったでしょう+ 44  ですから,あなたたちも,用意ができていることを示しなさい+。人の子は予期しない時刻に来るからです。 45  主人が,召し使いたちに適切な時に食物を与えるため,彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか+ 46  主人が来て,そうしているところを見るなら,その奴隷は幸せです+ 47  はっきり言いますが,主人は自分の全ての持ち物を管理させるためにその奴隷を任命します。 48  しかし,もしその奴隷が邪悪で,『主人は遅れている』と心の中で言い+ 49  仲間の奴隷たちをたたいて,酔っぱらいたちと共に食べたり飲んだりし始めるなら, 50  その奴隷の主人は,奴隷が予期していない日,思ってもいない時刻に来て+ 51  最も厳しく彼を罰し,偽善者たちと一緒にならせます。奴隷はそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします+

脚注

直訳,「しるし」。
もしかすると,「大きな力と栄光」。
または,「夜の何時」。

注釈

はっきり言いますが: または,「真実に言いますが」。ここのギリシャ語に含まれているアメーンという語は,ヘブライ語のアーメーンを翻字したもので,「そうなりますように」もしくは「確かに」という意味。イエスは発言や約束や預言の前置きとして頻繁にこの表現を使って,絶対的な真実性と信頼性を強調した。イエスのこの語の用い方は,宗教的文書で他に例がないとされている。ヨハネの福音書全体に見られる通り,イエスはこの語を2度重ねて(アメーン,アメーン)自分の言葉の信頼性をさらに強調することもあった。ヨハ 1:51の注釈を参照。

はっきり言いますが: マタ 5:18の注釈を参照。

石がこのまま石の上に残……ることは決してありません: イエスの預言は西暦70年にその通り実現した。ローマ人はエルサレムとその神殿を徹底的に破壊した。城壁のわずかな区画を除けば,その都市は完全に覆された。

終わり: または,「完全な終わり」。ここで使われているギリシャ語(テロス)は,マタ 24:3で「終結」と訳されているギリシャ語(シュンテレイア)とは異なる。マタ 24:3の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。

終わり: または,「完全な終わり」,「最終的な終わり」。マタ 24:3,6の注釈を参照。

オリーブ山: キデロンの谷を挟んでエルサレムの東側にある。見晴らしの利くこの場所からイエスと弟子たち,「ペテロ,ヤコブ,ヨハネ,アンデレ」(マル 13:3,4)は,エルサレムとその神殿をよく見ることができた。

臨在: ギリシャ語パルーシア(多くの翻訳で「来ること」という意味に訳されている)は字義的には,「傍らにいること」という意味。単なる到来や到着ではなく,ある期間にわたって存在していることを指す。パルーシアが持つこの意味は,マタ 24:37-39で例示されていて,「ノアの時代......洪水前のその時代」と「人の子の臨在の時」が比較されている。フィリ 2:12でパウロはこのギリシャ語を用いて,「いる時」と「いない[時]」を対比している。

体制: または,「時代」。ここでギリシャ語アイオーンは,特定の期間,時期,または時代を特色づける情勢や特徴を指す。用語集参照。

終結: ギリシャ語シュンテレイアの訳で,「共通の終わり」,「合同の終わり」,「一緒に終わること」という意味。(マタ 13:39,40,49; 28:20。ヘブ 9:26)これは,いろいろな物事が合わさって完全な「終わり」に至る時期を指し,その「終わり」に関してはマタ 24:6,14で別のギリシャ語テロスが使われている。マタ 24:6,14の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。

キリスト: ギリシャ語,ホ クリストス。「キリスト」という称号は「メシア」(ヘブライ語マーシーアハ)に相当し,どちらも「油を注がれた者」(「選ばれた者」とも訳される)という意味。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば,1世紀に,預言者や解放者と自称する者が現れてローマの抑圧からの解放を約束した。その人たちは,支持者たちから政治的なメシアと見なされたかもしれない。

終結: ギリシャ語シュンテレイアの訳で,「共通の終わり」,「合同の終わり」,「一緒に終わること」という意味。(マタ 13:39,40,49; 28:20。ヘブ 9:26)これは,いろいろな物事が合わさって完全な「終わり」に至る時期を指し,その「終わり」に関してはマタ 24:6,14で別のギリシャ語テロスが使われている。マタ 24:6,14の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。

終わり: または,「完全な終わり」。ここで使われているギリシャ語(テロス)は,マタ 24:3で「終結」と訳されているギリシャ語(シュンテレイア)とは異なる。マタ 24:3の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。

全ての国の人々……世界中: どちらの表現も伝道活動の規模を強調している。「世界」と訳されているギリシャ語(オイクーメネー)は,広い意味では,人間の住む場所としての地上を指す。(ルカ 4:5。使徒 17:31。ロマ 10:18。啓 12:9; 16:14)1世紀に,この語は離散したユダヤ人が住んでいた広大なローマ帝国についても使われた。(ルカ 2:1。使徒 24:5)「国の人々」と訳されているギリシャ語(エトノス)は一般に,多少とも血のつながりがあって共通の言語を話す人々の集団を指す。そのような国民や民族の集団は一定の地域に居住している場合が多い。

国民: ギリシャ語エトノスの意味は広く,国など一定の政治的また地理的境界内に住む人々を指すことも,民族を指すこともある。マタ 24:14の注釈を参照。

立ち上がり: または,「奮い立ち」,「意気込み」。ここのギリシャ語は「敵意を抱いて動く」という考えを伝え,「武装して立ち上がる」または「戦いを始める」とも訳される。

苦しみの激痛: ギリシャ語は字義通りには,出産時の強烈な痛みを指す。ここでは誰もが経験する苦痛,痛み,苦しみを指しているが,マタ 24:21で述べられている大患難に先立つ期間に,予告されている苦しみや苦難が,陣痛のように次第に頻繁になり強くなり長くなることを示しているように思われる。

お名前: 神の名前。ヘブライ語の4つの文字יהוה(YHWH)で表され,日本語で一般に「エホバ」と訳される。「新世界訳」では,この名前がヘブライ語聖書に6979回,ギリシャ語聖書に237回出ている。(ギリシャ語聖書での神の名前の使用については,付録A5と付録C参照。)聖書で,「名」という語は,その者自身,その評判,自分について宣言したこと全てを表す場合もある。(出 34:5,6,格 22:1,脚注と比較。)

私の名のために: 聖書の中で「名」という語は,その名を持つ人自身,その評判,その人が表す全てのものを意味することがある。(マタ 6:9の注釈を参照。)イエスの場合,その名は父がイエスに与えた権威や立場も意味する。(マタ 28:18。フィリ 2:9,10。ヘブ 1:3,4)イエスはここで,世の人々が弟子たちにひどいことを行う理由を説明している。それはイエスを遣わした方を知らないから。神を知るなら,イエスの名が表すものを理解して認めることができる。(使徒 4:12)イエスの名が表すものには,神が任命した統治者,王の中の王,命を得るために全ての人が従うべき方としての立場が含まれる。(ヨハ 17:3。啓 19:11-16。詩 2:7-12と比較。)

私の名のために: 聖書の中で「名」という語は,その名を持つ人自身,その評判,その人が表す全てのものを意味することがある。(マタ 6:9の注釈を参照。)イエスの場合,その名は父がイエスに与えた権威や立場も意味する。(マタ 28:18。フィリ 2:9,10。ヘブ 1:3,4)イエスがここで説明しているように,弟子たちが憎まれるのはイエスの名が表すもののため,つまり神が任命した統治者,王の中の王,命を得るために全ての人が従うべき方としての立場のためである。ヨハ 15:21の注釈を参照。

人々はイエスを信じようとしなかった: 直訳,「人々はイエスにつまずいた」。この文脈で,ギリシャ語スカンダリゾーは比喩的な意味で使われていて,「腹を立てる」ことを意味しているが,本文のように訳すこともできる。別の文脈で,このギリシャ語には,罪に陥ることや人を罪に陥らせるという考えが含まれる。マタ 5:29の注釈を参照。

信仰の妨げ: 「信仰の妨げ」と訳されているギリシャ語スカンダロンは,元々わなを指していたと考えられている。わなの中の餌の付いた棒のことだと考える人もいる。転じてこの語は,人をつまずかせたり倒れさせたりする障害物を指すようになった。比喩的な意味で,人を誤った歩み,道徳的な堕落,罪へと至らせる行動や状況を指す。この語と関係のある動詞スカンダリゾーはマタ 18:8,9で「信仰の妨げとなる」と訳されており,「わなとなる」,「罪を犯させる」とも訳せる。

信仰を捨て: 直訳,「つまずき」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語スカンダリゾーは比喩的な意味で使われていて,罪に陥ることや人を罪に陥らせることが含まれる。この語が聖書で使われるとき,その罪とは,道徳に関する神の律法を破ること,信仰を失うこと,偽りの教えを受け入れることを意味すると思われる。この文脈では,「罪に至る」とも訳せる。このギリシャ語は「腹を立てる」という意味でも使われる。マタ 13:57; 18:7の注釈を参照。

不法なこと: 「不法なこと」と訳されているギリシャ語は,法を破ることや軽蔑すること,法が全く存在しないかのように振る舞う人という考えを含む。聖書中の用法では,神の律法を無視する態度を暗示する。(マタ 7:23。コ二 6:14。テサ二 2:3-7。ヨ一 3:4

大半の人: この箇所を単に「多くの人」と訳している聖書もあるが,マタ 24:11,12の述べる「偽預言者」や「不法なこと」の影響を受ける「大多数の人」のこと。

終わり: または,「完全な終わり」。ここで使われているギリシャ語(テロス)は,マタ 24:3で「終結」と訳されているギリシャ語(シュンテレイア)とは異なる。マタ 24:3の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。

終わり: または,「完全な終わり」,「最終的な終わり」。マタ 24:3,6の注釈を参照。

終わり: マタ 24:6,14の注釈を参照。

耐え忍んだ: または,「耐え忍ぶ」。「耐え忍ぶ」と訳されるギリシャ語動詞(ヒュポメノー)は字義的には,「下にとどまる」という意味。しばしば,「逃げずにとどまる」,「自分の立場を固守する」,「粘り強く行い続ける」,「しっかり立っている」という意味で使われる。(マタ 10:22。ロマ 12:12。ヘブ 10:32。ヤコ 5:11)この文脈では,反対や試練に遭ってもキリストの弟子としての歩みを続けることを指す。(マタ 24:9-12

王国: ギリシャ語バシレイアが出てくる最初の箇所。王が率いる政府およびその統治下の領土と人々を指す。このギリシャ語はギリシャ語聖書に162回出てくるが,55回はマタイの記述にあり,そのほとんどは天からの神の統治を指している。マタイはこの語を頻繁に使ったので,マタイの福音書は王国福音書とも呼ばれる。用語集の「神の王国」参照。

良い知らせ: 日本語聖書で「福音」とも訳されるギリシャ語エウアンゲリオンが出てくる最初の箇所。関係するギリシャ語エウアンゲリステースは「福音伝道者」と訳され,「良い知らせを伝える人」を意味する。(使徒 21:8。エフ 4:11,脚注。テモ二 4:5,脚注)

神の王国: ギリシャ語聖書全体で,良い知らせは,イエスの宣教のテーマであった神の王国と密接に結び付いている。「神の王国」と訳されるギリシャ語は,ルカの福音書に32回,マルコの福音書に14回,マタイの福音書に4回出ている。マタイは,「天の王国」という類似の表現を30回ほど使っている。マタ 3:2; 24:14,マル 1:15の注釈を参照。

伝道し: ギリシャ語は基本的に「使者として広く知らせる」という意味。知らせる方法を強調しており,一般には,一群の人たちへの説教ではなく多くの人々への宣伝を指す。

終結: ギリシャ語シュンテレイアの訳で,「共通の終わり」,「合同の終わり」,「一緒に終わること」という意味。(マタ 13:39,40,49; 28:20。ヘブ 9:26)これは,いろいろな物事が合わさって完全な「終わり」に至る時期を指し,その「終わり」に関してはマタ 24:6,14で別のギリシャ語テロスが使われている。マタ 24:6,14の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。

終わり: または,「完全な終わり」。ここで使われているギリシャ語(テロス)は,マタ 24:3で「終結」と訳されているギリシャ語(シュンテレイア)とは異なる。マタ 24:3の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。

王国: つまり,「神の王国」。ギリシャ語聖書全体で,「良い知らせ」(この節の良い知らせに関する注釈を参照)は,イエスの宣教のテーマであった神の王国と密接に結び付いている。マタ 3:2; 4:23,ルカ 4:43の注釈を参照。

良い知らせ: ギリシャ語エウアンゲリオンは,「良い」という意味のエウと「知らせを携えてくる人」,「広く知らせる(告げる)人」という意味のアンゲロスから来ている。(用語集参照。)多くの聖書では「福音」と訳されている。関連表現で「福音伝道者」(ギリシャ語エウアンゲリステース)と訳されている語は,「良い知らせを伝える人」という意味。(使徒 21:8。エフ 4:11,脚注。テモ二 4:5,脚注)

全ての国の人々……世界中: どちらの表現も伝道活動の規模を強調している。「世界」と訳されているギリシャ語(オイクーメネー)は,広い意味では,人間の住む場所としての地上を指す。(ルカ 4:5。使徒 17:31。ロマ 10:18。啓 12:9; 16:14)1世紀に,この語は離散したユダヤ人が住んでいた広大なローマ帝国についても使われた。(ルカ 2:1。使徒 24:5)「国の人々」と訳されているギリシャ語(エトノス)は一般に,多少とも血のつながりがあって共通の言語を話す人々の集団を指す。そのような国民や民族の集団は一定の地域に居住している場合が多い。

が聞けるように: または,「への証言として」。つまり,全ての国の人々が良い知らせを聞けるようにするため。ギリシャ語マルテュリオン(証言)およびそれと関係するギリシャ語は,ある主題と関係する事実や出来事について語ることを指す場合が多い。ここでイエスは,神の王国が何を成し遂げるかについて世界中で語られ,その王国に関連した事柄が証言されるということを述べている。イエスは,地球規模の王国伝道活動そのものが「臨在……のしるし」として大切な意味があることも示している。(マタ 24:3)全ての国の人々が「聞ける」ということは,全ての国の人々が真のキリスト教に転向するという意味ではない。その人々に証言がなされるという意味。

伝えられます: または,「広く知らされます」。マタ 3:1の注釈を参照。

終わり: または,「完全な終わり」,「最終的な終わり」。マタ 24:3,6の注釈を参照。

献納の祭り: この祭りのヘブライ語名はハヌッカ(ハヌッカー)で,「奉献」,「献納」という意味。8日間行われ,冬至に近いキスレウ25日に始まった。(この節のに関する注釈と付録B15を参照。)それは紀元前165年のエルサレムの神殿の再献納を祝う祭り。それよりも前,シリアの王アンティオコス4世エピファネスはエホバの神殿を汚して,ユダヤ人の神エホバに対する侮蔑を表した。例えば,全焼の捧げ物が毎日捧げられていた大祭壇の上に別の祭壇を造った。紀元前168年キスレウ25日,アンティオコスはエホバの神殿を徹底的に汚すため,その祭壇で豚を犠牲として捧げ,その肉の煮汁を神殿全体に振り掛けさせた。神殿の門を焼き,祭司たちの部屋を取り壊し,金の祭壇,供えのパンの食卓,金のランプ台を運び去った。そして,エホバの神殿を異教のオリュンポスの神ゼウスに再献納した。2年後,ユダ・マカバイオスが都市と神殿を奪還した。神殿が清められた後,紀元前165年キスレウ25日に再献納が行われた。それはアンティオコスがゼウスの祭壇で極めて不快な犠牲を捧げてからちょうど3年後だった。エホバへの全焼の捧げ物が再び毎日捧げられるようになった。聖書の中には,エホバがユダ・マカバイオスに勝利を得させて神殿を修復するよう指示したことを直接述べた言葉はない。しかしエホバはかつて,ご自分の崇拝に関する一定の目的を遂行するために,ペルシャのキュロスのような異国人を用いたことがあった。(イザ 45:1)意志を果たすために,ご自分の献身した民の男性を用いたとも考えられる。聖書が示しているように,メシアの宣教や犠牲に関する預言が実現するためには,神殿が存在して機能していなければならなかった。さらに,メシアが人類のために自分の命という偉大な犠牲を差し出す時までレビ記で定められた犠牲が捧げられるべきだった。(ダニ 9:27。ヨハ 2:17。ヘブ 9:11-14)キリストの弟子たちは献納の祭りを祝うように言われてはいなかった。(コロ 2:16,17)とはいえ,イエスや弟子たちが,この祭りを祝うことを非難したという記録はない。

聖なる都: エルサレムのこと。エホバの神殿の所在地だったので,「聖なる」と付くことが多い。(ネヘ 11:1。イザ 52:1

荒廃をもたらす極めて不快なもの: ダニエルは,「極めて不快なもの」が荒廃と結び付くことを予告していた。(ダニ 9:27; 11:31; 12:11)イエスはここで,「荒廃をもたらす極めて不快なもの」が当時まだ現れていなかったことを示している。それは後に来ることになっていた。イエスの死の33年後,クリスチャンはこの預言の最初の実現を目撃した。それは,極めて不快なものが聖なる場所に立っているのを実際に見掛けた時だった。並行記述のルカ 21:20は,「エルサレムが陣営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,荒廃が近づいたことを知りなさい」となっている。西暦66年,異教ローマの軍隊は「聖なる都」エルサレムを包囲した。そこはユダヤ人が神聖視していた場所であり,ローマに対するユダヤ人の反抗の拠点でもあった。(マタ 4:5; 27:53)識別力のあるクリスチャンは,偶像ともいうべき軍旗を掲げたローマ軍こそ「極めて不快なもの」であると認識し,それを「山に逃げ始め」るべき最終的な合図と理解した。(マタ 24:15,16。ルカ 19:43,44; 21:20-22)クリスチャンが逃げた後,ローマ軍はその都と国民に荒廃をもたらした。エルサレムは西暦70年に滅ぼされ,ユダヤ人の最後のとりでマサダは73年にローマ軍の手に落ちた。(ダニ 9:25-27と比較。)この預言が細部にわたって実現したことは,今後さらに大規模な実現も必ずあり,最後にはイエスが「力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来る」という確信の根拠となる。(マタ 24:30)ダニエルの預言はイエスの時代以後に実現する,というイエスの言葉を多くの人が見落としている。そのような人たちは,ユダヤ人の伝承に従って,ダニエルの預言を紀元前168年の出来事に当てはめている。それは,シリアの王アンティオコス4世(エピファネス)がエルサレムにあったエホバの神殿を汚した時である。アンティオコスはエホバの崇拝の撲滅を図り,エホバの大祭壇の上に別の祭壇を造り,その上で異教のオリュンポスの神ゼウスに豚の犠牲を捧げることまでした。(ヨハ 10:22の注釈を参照。)外典のマカベア第一書(1:54)は,ダニエル書にある表現と同様の言い回しを使って(極めて不快なものと荒廃とを関連付け),その表現を前述の紀元前168年の出来事に当てはめている。しかし,ユダヤ人の伝承とマカベア第一書の記述は人間による解釈であり,神による啓示ではない。確かにアンティオコスは神殿を汚して強い不快感を生じさせたが,その敵対行動の結果としてエルサレムや神殿やユダヤ国民が荒廃したわけではない。

聖なる場所: この預言が最初に実現した時には,神殿を含むエルサレムを指す。マタ 4:5の注釈を参照。

(読者は識別力を働かせなさい): 神の言葉を研究する時,読者は常に識別力を働かせる必要があるが,ダニエルの預言のこの部分を当てはめる際は,特別に注意深くあるべきことを言うのだろう。イエスは話を聞いている人たちに,この預言の実現が過去ではなく将来であることに注意を促していた。この節の荒廃をもたらす極めて不快なものに関する注釈を参照。

ユダヤ: ローマの属州ユダヤのこと。

山に: 4世紀の歴史家エウセビオスによると,ユダヤとエルサレムのクリスチャンはヨルダン川を渡ってペラに逃げた。そこはデカポリスの山地にある町。

屋上: 家の屋根は平らだった。そこは物置(ヨシ 2:6),休息(サ二 11:2),睡眠(サ一 9:26),祭り(ネヘ 8:16-18)など,多くのことに使われた。そのため,へりに低い壁を造ることが求められていた。(申 22:8)住人は一般に,外階段やはしごで屋上から下りることができ,家の中に入らなくてもよかった。逃げるようにというイエスの警告の緊急性がよく分かる。

冬: この季節は大雨,洪水,寒さなどのために移動が難しく,食べ物や宿も見つけにくかっただろう。(エズ 10:9,13

安息日: ユダヤなどでは,安息日の律法に関連した規制のために長距離の移動や荷物の運搬が難しかった。また,安息日には町の門が閉じられていた。使徒 1:12付録B12参照。

キリスト: ギリシャ語,ホ クリストス。「キリスト」という称号は「メシア」(ヘブライ語マーシーアハ)に相当し,どちらも「油を注がれた者」(「選ばれた者」とも訳される)という意味。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば,1世紀に,預言者や解放者と自称する者が現れてローマの抑圧からの解放を約束した。その人たちは,支持者たちから政治的なメシアと見なされたかもしれない。

偽キリスト: または,「偽メシア」。ギリシャ語プセウドクリストスが出てくるのは,この節と並行記述のマル 13:22だけ。不当にキリストもしくはメシア(直訳,「油を注がれた者」)と唱える人を指す。マタ 24:5の注釈を参照。

人の子: または,「人間の子」。原語で,この表現は福音書に約80回出ている。イエスは自分を指してこの表現を用いた。自分が女性から生まれた紛れもない人間であること,また人類を罪と死から救う力を持つ,アダムにちょうど対応する人間であることを強調したものと思われる。(ロマ 5:12,14,15)この同じ表現は,イエスがメシアすなわちキリストであることも明らかにした。(ダニ 7:13,14用語集参照。

臨在: ギリシャ語パルーシア(多くの翻訳で「来ること」という意味に訳されている)は字義的には,「傍らにいること」という意味。単なる到来や到着ではなく,ある期間にわたって存在していることを指す。パルーシアが持つこの意味は,マタ 24:37-39で例示されていて,「ノアの時代......洪水前のその時代」と「人の子の臨在の時」が比較されている。フィリ 2:12でパウロはこのギリシャ語を用いて,「いる時」と「いない[時]」を対比している。

人の子: マタ 8:20の注釈を参照。

臨在: マタ 24:3の注釈を参照。

人の子のしるし: このしるしは,マタ 24:3の「[イエス]の臨在……のしるし」とは別。ここで言うしるしは,人の子が大患難の時に裁きを宣告して執行するために裁く方として「来る」ことと結び付いている。この節の来るに関する注釈を参照。

胸をたたいて悲しみ: または,「嘆き悲しみ」。手で何度も胸をたたき,深い悲しみや,罪悪感と後悔の気持ちを表現すること。(イザ 32:12。ナホ 2:7。ルカ 23:48

天の雲: 雲があると見えにくくなるが,人は理解の目で「見」ることができる。(使徒 1:9

来る: マタイ 24章と25章でイエスが来ることについて述べている8例のうちの最初。(マタ 24:42,44,46; 25:10,19,27,31)どの場合にも,ギリシャ語動詞エルコマイ(「来る」)の活用形が使われている。その語はここで,人類に注意を向ける,とりわけイエスが大患難の時に裁きを宣告して執行するために裁く方として来る,という意味で使われている。

見ます: 「見る」と訳されるギリシャ語動詞は字義的には,「物を見る」,「眺める」という意味だが,心の目で「識別する」,「知覚する」という比喩的な意味でも使われる。(エフ 1:18

四方: 直訳,「4つの風」。東西南北の4つの方角を指す慣用句で,「あらゆる方角」,「至る所」という意味。(エレ 49:36。エゼ 37:9。ダニ 8:8

例え: または,「例え話」。ギリシャ語パラボレーは字義的には,「そばに(一緒に)置く」という意味で,例え話,格言,例えなどの形を取る。イエスはある事柄を説明するのによく似た事柄になぞらえる,つまり「そばに置く」ことが度々あった。(マル 4:30)イエスの例えは短い話でたいていは創作的なものであり,そこから道徳上また宗教上の真理を引き出すことができた。

例え: または,「例え話」,「教訓」。マタ 13:3の注釈を参照。

天と地は過ぎ去ります: 他の聖句は,天と地が永遠に存続することを示している。(創 9:16。詩 104:5。伝 1:4)それでイエスのこの言葉は誇張表現で,仮にあり得ないことが起きて天と地が過ぎ去ったとしても,イエスの言葉は実現する,という意味だと理解することもできる。(マタ 5:18と比較。)一方,ここで述べられているのは,啓 21:1で「以前の天と以前の地」と呼ばれている比喩的な天と地のこととも考えられる。

私の言葉は決して過ぎ去りません: または,「私の言葉が過ぎ去ることは絶対にありません」。動詞にギリシャ語の否定語が2つ付いて強い打ち消しを表し,イエスの言葉の永続性をはっきり強調している。

臨在: ギリシャ語パルーシア(多くの翻訳で「来ること」という意味に訳されている)は字義的には,「傍らにいること」という意味。単なる到来や到着ではなく,ある期間にわたって存在していることを指す。パルーシアが持つこの意味は,マタ 24:37-39で例示されていて,「ノアの時代......洪水前のその時代」と「人の子の臨在の時」が比較されている。フィリ 2:12でパウロはこのギリシャ語を用いて,「いる時」と「いない[時]」を対比している。

臨在: ギリシャ語パルーシア(多くの翻訳で「来ること」という意味に訳されている)は字義的には,「傍らにいること」という意味。単なる到来や到着ではなく,ある期間にわたって存在していることを指す。パルーシアが持つこの意味は,マタ 24:37-39で例示されていて,「ノアの時代......洪水前のその時代」と「人の子の臨在の時」が比較されている。フィリ 2:12でパウロはこのギリシャ語を用いて,「いる時」と「いない[時]」を対比している。

臨在: マタ 24:3の注釈を参照。

ノアの時代: 直訳,「ノアの日」。聖書の中で,ヘブライ語やギリシャ語の「日」という語はある人の生きた時代を指して使われることがある。(イザ 1:1。エレ 1:2,3。ルカ 17:28)ここで,「ノアの時代」と人の子の臨在が比較されている。ルカ 17:26に記されている同様の句では,「人の子の時代」という表現が使われている。イエスは,ノアの時代の最終局面として洪水が起きた特定の日のことを言ったのではない。「ノアの時代」は幾年にも及ぶ期間だった。それで,予告された「人の子の臨在[あるいは「時代」]」も幾年にも及ぶ期間だと理解できる。ノアの時代は洪水が最高潮となったが,「人の子の臨在」も救いを得ようとしない人々の滅びで頂点を迎える。マタ 24:3の注釈を参照。

洪水: または,「大洪水」,「大変動」。ギリシャ語カタクリュスモスは破壊力を伴う大きな洪水を指し,聖書でノアの時代の大洪水に関して使われている。(マタ 24:39。ルカ 17:27。ペ二 2:5

箱船: ギリシャ語は「箱」,「ひつ」とも訳すことができ,それが大きな箱のような形だったことを示すのかもしれない。

連れていかれ: 「連れていかれ」と訳されているギリシャ語は,さまざまな文脈で使われ,良い意味の場合が多い。例えば,マタ 1:20で「迎え入れる」,マタ 17:1で「連れて」,ヨハ 14:3で「迎えます」と訳されている。ここの文脈では,「主」の前で良い立場を得て救われることを指すと思われる。(ルカ 17:37)洪水の日にノアが箱船に入れられたことやロトが手を引かれてソドムから連れ出されたことにも対応するのかもしれない。(ルカ 17:26-29)一方,捨てられるとは,滅びに値する者として裁かれることを意味するのだろう。

連れていかれ,……捨てられます: ルカ 17:34の注釈を参照。

ずっと見張っていなさい: 直訳,「目を覚ましていなさい」。イエスは以前に,ご自分の来る日と時刻を弟子たちは知らないので,主の来る時をいつも意識して目を覚ましている必要があることを強調していた。(マタ 24:42; 25:13の注釈を参照。)この勧告をこことマタ 26:41で繰り返している。マタ 26:41では,主の来る時をいつも意識して目を覚ましていることと絶えず祈ることとが結び付けられている。同様の勧告がギリシャ語聖書を通じて見られ,真のクリスチャンは決して油断してはならないことが分かる。(コ一 16:13。コロ 4:2。テサ一 5:6。ペ一 5:8。啓 16:15

ずっと見張っていなさい: ここのギリシャ語は「目を覚ましている」という基本的な意味があるが,多くの文脈では「用心している」,「見張っている」という意味。マタイはこの語をマタ 24:43; 25:13; 26:38,40,41で使っている。マタ 24:44ではその語を「用意ができている」必要性と結び付けている。マタ 26:38の注釈を参照。

管理人: または,「家令」,「家の管理人」。ギリシャ語オイコノモスは,自らも召し使いだが召し使いたちの上に立てられた人を指す。古代には,主人の物事を任された忠実な奴隷がそのような立場を占めることが多かった。それで,非常に信頼された立場だった。アブラハムの「全所有物を管理していた」従者もそのような家令もしくは家の管理人だった。(創 24:2)これは創 39:4に記されているようにヨセフにも当てはまる。イエスのこの例えで「管理人」が単数形だからといって,特定の1人だけを表すとは限らない。聖書には,人々の集団を指して単数名詞が使われている例がある。エホバはイスラエル国民に呼び掛けて,「あなたたちは私の証人[複数形]である。私に仕える者[単数形]であり,私が選んだのである」と語った。(イザ 43:10)同じように,ここの例えも集合体としての管理人について述べている。マタ 24:45にある同様の例えで,この管理人は「忠実で思慮深い奴隷」と呼ばれている。

召し使いたち: この語は,主人の家で働く人全てに当てはまる。

思慮深い: ここで使われているギリシャ語は理解力という考えを伝えていて,それは洞察力,先見の明,識別力,慎重さ,役立つ知恵と結び付いている。同じギリシャ語がマタ 7:2425:2,4,8,9で使われている。セプトゥアギンタ訳はこの語を創 41:33,39でヨセフに関して使っている。

奴隷: イエスのこの例えで単数形の「奴隷」が使われているからといって,特定の1人だけを表すとは限らない。聖書には,人々の集団を指して単数名詞が使われている例がある。エホバはイスラエル国民に呼び掛けて,「あなたたちは私の証人[複数形]である。私に仕える者[単数形]であり,私が選んだのである」と語った。(イザ 43:10ルカ 12:42にある同様の例えでは,この奴隷が「忠実な管理人,思慮深い者」と呼ばれている。ルカ 12:42の注釈を参照。

来る: マタイ 24章と25章でイエスが来ることについて述べている8例のうちの最初。(マタ 24:42,44,46; 25:10,19,27,31)どの場合にも,ギリシャ語動詞エルコマイ(「来る」)の活用形が使われている。その語はここで,人類に注意を向ける,とりわけイエスが大患難の時に裁きを宣告して執行するために裁く方として来る,という意味で使われている。

来て: マタ 24:30の注釈を参照。

その奴隷: ここの奴隷はルカ 12:42に出ている管理人を指す。「その奴隷」は忠実であれば,報われる。(ルカ 12:43,44)一方,「その奴隷」は忠実でないなら,「最も厳しく」罰せられる。(ルカ 12:46)イエスのこの言葉は事実上,忠実な管理人に対する警告。マタ 24:45-51にある同様の例えで,イエスは「もしその奴隷が邪悪で……心の中で言い」と述べている。これは「邪悪」な奴隷が出るという予告でもそのような奴隷を任命するということでもない。イエスは忠実な奴隷に,もし邪悪な奴隷の性質を表すようになることがあればどうなるかを警告している。

その奴隷が邪悪で: イエスのこの言葉は,事実上マタ 24:45の忠実で思慮深い奴隷に対する警告。「邪悪」な奴隷が出るという予告でもそのような奴隷を任命するということでもない。イエスは忠実な奴隷に,もし邪悪な奴隷の性質を表すようになることがあればどうなるかを警告している。忠実でない奴隷は「最も厳しく」罰せられる。(マタ 24:51ルカ 12:45の注釈を参照。

偽善者たち: ギリシャ語ヒュポクリテースは元々,声を増幅するための大きな仮面を着けたギリシャ(後にはローマ)の舞台俳優を指す。この語は,うそや見せ掛けで自分の本当の意図や性格を隠す人のことを表す隠喩として使われるようになった。イエスはここでユダヤ人の宗教指導者を「偽善者たち」と呼んでいる。(マタ 6:5,16

歯ぎしりしたり: または,「歯がみしたり」,「歯を食い縛ったり」。これは,苦悩,絶望,怒りといった気持ちの表れとなり,時にきつい言葉や乱暴な行動が伴う。

最も厳しく彼を罰し: 直訳,「彼を2つに切り」。この描写を文字通りに理解すべきではないと思われる。これは厳しい罰という考えを伝えている。

偽善者たち: マタ 6:2の注釈を参照。

歯ぎしりしたり: マタ 8:12の注釈を参照。

メディア

神殿の丘の石
神殿の丘の石

西壁の南の部分にあるこれらの石は,1世紀の神殿の丘にあった建造物に使われていたと考えられている。エルサレムとその神殿がローマ人に破壊された事実を思い出させるものとなっている。

オリーブ山
オリーブ山

オリーブ山(1)は,キデロンの谷を挟んでエルサレムの東側にある,丸みを帯びた石灰岩の丘が連なったもの。神殿の丘(2)の向かい側にある丘は最も高い所で約812メートルあり,聖書で一般にオリーブ山と呼ばれている。イエスが自分の臨在のしるしについて弟子たちに説明したのは,オリーブ山でのことだった。

外衣
外衣

「外衣」に当たるギリシャ語ヒマティオンは,恐らくヘブライ語のシムラーに相当する。ゆったりした長い服のこともあったようだが,多くの場合は長方形の布だった。簡単に着たり脱いだりできた。

イチジクの木
イチジクの木

葉と早い時期の実が一緒に出ている春のイチジクの木の枝。イスラエルでは,たいてい2月に最初の果実になる芽が枝に現れ,4月の下旬か5月に葉が出て,夏が近いことを知らせる。(マタ 24:32)イチジクは年に2回収穫できる。6月か7月の初めに成熟する早い時期の実(イザ 28:4。エレ 24:2。ホセ 9:10)と,新しい枝にできて普通は8月以降に成熟し,主な収穫となる遅い時期の実。

ひき臼
ひき臼

普通,2人の女性がこの種の回転式ひき臼を操作した。聖書時代に使われた臼の1つのタイプ。(ルカ 17:35)2人は向かい合って座り,各々片方の手で取っ手を握って上石を回した。一方の女性は空いている方の手で,穀粒を少しずつ上石の穴に入れ,もう一方の女性は臼の縁から盆や敷布にこぼれ出る麦粉を集めた。女性たちは毎日穀粒をひいた。朝早く起きてその日のパンに必要な麦粉を準備した。