エホバの証人 ― 1992 年鑑の報告

エホバの証人 ― 1992 年鑑の報告

エホバの証人 ― 1992 年鑑の報告

コガミス川の南には,リュディアの都市フィラデルフィアがありました。この地方の中心地は肥沃な土地で,そこにある台地に位置するこの都市は,サルデス経由で地中海沿岸のスミルナに向かって西に伸びる広い谷を見下ろしていました。トルコ西部にあって現在アラシェヒルと呼ばれているフィラデルフィアは,かつてはぶどう酒の産地の中心として栄えました。その都市の主要な神がディオニュソス,つまりぶどう酒の神であったのもうなずけます。しかし,ぶどう酒に付き物の陽気さとは全く対照的に,この都市はイエスが言われた「サタンの会堂」の所在地でもありました。(啓示 3:9)真のクリスチャンの働き人たちの会衆は,聖なる行状が場違いに思えるこのような不適当な環境のもとでも繁栄したのです。この会衆は,イエス・キリストが啓示の書の中で個人的に呼びかけられた七つの会衆の一つです。それらエホバの忠節な崇拝者たちの前に,神権的な活動に通じる戸が大きく開かれました。

ダビデのかぎを持つ者,また地の王たちの支配者であられるイエスはこう言われました。「わたしはあなたの行ないを知っている ― 見よ,わたしはあなたの前に開かれた戸を置いた。それはだれも閉じることができない ― すなわち,あなたには少しの力があり,わたしの言葉を守って,わたしの名に不実な者とはならなかった」。―啓示 1:5; 3:7,8

想像してみてください。恐れを知らないキリストの追随者たち,迫害者と闘う固く結ばれた小さな一団が,神聖な奉仕への大きく開かれた戸という祝福を得たのです。宗教指導者や都市の支配者はそのような特権にあずかりませんでした。文化の最先端,また小アジアの中心部に通じる玄関とも言うべき華やかな都市フィラデルフィアで権力を揮っていても,イエスの好意を得ることはなかったのです。それとは逆にイエスは,神の王国を宣べ伝える機会を十分に活用するようフィラデルフィア会衆を励まされました。彼らは忍耐し,神の霊の助けを得て,なお一層エホバへの奉仕を行ない続けるだけの力のあることを示してきました。異邦人からの反対もユダヤ人からの反対も王国宣明の業をやめさせることはありませんでしたし,そのようなことはこれから先も決してありません。

今日の開かれた戸

今日,キリストの油そそがれた兄弟たちが率先している伝道活動の結果,大勢の人々が開かれた戸を通って王国奉仕に加わってきました。全世界の奉仕報告を調べてみれば,昨奉仕年度中エホバの証人が活動に通じる門を確かにくぐってきたことがきっと分かるはずです。

伝道者最高数: 427万8,820人。1990奉仕年度と比べて6.5%の増加。平均開拓者数の新最高数: 55万8,514人。良いたよりを宣べ伝える業に費やされた時間の合計: 9億5,187万21時間。

こうした1991奉仕年度の神権的な活動全体によって,どんなすばらしい結果がもたらされたでしょうか。まず,新たに献身したエホバの僕30万945人がバプテスマを受けました。さらに,会衆の数は1990年に比べて3,191 ― 平均すると1日に8.7 ― 増加し,その結果,211の国や地域の会衆の合計は6万6,207になりました。支部事務所の総数も93から97に増えました。この中には,かつて鉄のカーテンに閉ざされていた国々の二つの支部も含まれています。エホバの証人が法律上の認可を受けるようになった国は,アフリカのモザンビーク,アフリカ西方の大西洋に浮かぶカボベルデ,中米のニカラグア,南米のパラグアイ,ヨーロッパのブルガリア,ソ連のロシア共和国とウクライナ共和国です。

キリストの死の記念式の出席者数が明示している将来の拡大の見込みを考えると,本当に胸が躍ります。この神聖な祝いが行なわれた3月30日土曜日の夜,出席者数は1,065万158人でした。

メキシコで記念式に出席したのは123万99人で,前年と比べて8%の増加でした。これは,メキシコの住民67人に一人がこの祝いに出席したことを意味します。また,30万2,367人の伝道者がいるブラジルでは,前年より10万6,813人多い89万7,739人が出席しました。昨奉仕年度中ブラジルでは毎日平均一つの新しい会衆を設立する必要があり,1991年9月1日付で21の巡回区と二つの地域区が新たに機能し始めましたが,それも不思議ではありません。フィリピンでの記念式の祝いの際,33万2,830人の人々を集会場に迎えることができたのは兄弟たちにとって喜びでした。この人数は伝道者最高数の3倍に当たります。東ヨーロッパでも記念式出席者数にかなりの増加が見られました。ソ連は10万8,633人の出席者数を報告しており,これは昨年と比べて何と43%も多い数字です。ポーランドでは,その祝いの夜に20万422人が王国会館や他の施設に詰めかけました。

記念式の夜,南アフリカの多くの町では暴力が荒れ狂ったため,関心を持つ人の中には,記念式会場への行き帰りに厄介なことに巻き込まれるのを恐れて家から出なかった人が少なくありませんでした。幾人かの人が直面した困難な事態の一例として,ナタール州の農村部にあるモンテベロ会衆の状況を考えてみましょう。この会衆は伝道者10人の小さな会衆で,自分たちの王国会館を建てて献堂したばかりでした。土曜日の朝,その地域で党派間の争いが始まりました。話をすることになっていた近くの会衆の長老が妻と共にモンテベロ村に近づくと,この兄弟を知っている土地の男が,「どこへ行くつもりかね」と言いました。兄弟は,記念式の話をしに王国会館へ行くところだと説明しました。すると男は,「いや,行ってはいけない。あそこでは殺し合いが起きているから」と警告しました。

案の定,王国会館の近くに行くと,数えただけで10人が死んでいました。党派間の争いの犠牲者です。このような危険があったにもかかわらず,記念式には16人が出席しました。その地域で明かりがついていたのは王国会館だけでした。家々はすべて,厄介者の注意を引くことを恐れて明かりを消していました。記念式の後,兄弟たちと関心を持つ人たちは全員,王国会館の近くの兄弟の家に泊まりました。翌朝みんなが家に戻った後,党派間の争いがまた始まりました。

「寄付において寛大」

エホバの民が全世界で驚くほど増加しているため,宣教者の家で働く全時間奉仕者や特別開拓者や旅行する監督の人数も増えてきました。彼らはみな個人的な必要物のための少額の払い戻し金だけを受け取る自発奉仕者ですが,それでも,野外奉仕の割り当てを受けているそれらの献身した働き人に家と食事を備え,様々な世話をするため,昨年4,021万9,589㌦1㌣(約56億3,074万2,461円)を要しました。ちょうどコリントの会衆が喜んで物を分け合ったために使徒パウロからほめられたのと同じように,皆さんも寛大さのゆえにほめられるべきです。パウロは,神にもたらされる栄光について,「彼らはこの奉仕の務めが実証するものによって神の栄光をたたえます。つまり,あなた方が……キリストに関する良いたよりに柔順であり,また……寄付において寛大であるからです」と書きました。―コリント第二 9:13

エホバの証人は良いたよりを前進させるためには,共に働いて新しい支部施設を建設する点でも真剣に努力しますが,それを目にした誠実な心の持ち主が王国の業の推進をもっと支援するためにできることをしたいと考える場合は少なくありません。ルースというナイジェリアの女生徒はその一例です。ルースは,1990年4月に正式に完成したイギードゥマのベテルと工場の建物を見学した後,このような手紙を寄せました。

「イギードゥマ・ベテルの美しい建物と快適な設備を見せていただき,とても楽しいひと時を過ごしました。そのすべては兄弟姉妹たちの自発的な寄付によって可能になりました。イギードゥマのこの大規模な建設についてエホバに感謝しているうちに,一つのことが気になりました。この建設に私はどんな貢献をしたのでしょう。16歳の女生徒の私には,金銭的に何かをすることはできませんでした。でも,見学したころ,私は卵を温めているニワトリを飼っていました。その後,卵がかえり,親鳥がひなを連れて出て来た日に,一羽のひなを選んで“イギードゥマちゃん”と名づけました。残念ながら,数週間後に病気がはやり,ひなは一羽,また一羽と死んでゆき,親鳥も死んでしまいました。ところが,イギードゥマちゃんは死なずにすんだのです。最近この鳥を売りましたので,ここに,良いたよりを広める業に対する私の『やもめの乏しき寄付』をお送りします」。

もう一つの例はエクアドルからのものです。ある開拓者は,集会に出席し始めた盲人の夫婦と聖書を研究しています。やがて,その夫婦はどうしたら集会の準備ができるか知りたいと思うようになりました。それで開拓者は,「ものみの塔」の研究記事と書籍研究の資料をテープに録音することにしました。二人はこの援助に感謝したでしょうか。ある日,夫が市場で店番をしていた時のこと,ある女性客が買い物代金として700円相当の紙幣を渡すと言いましたが,実際に渡したのは70円にもならない紙幣でした。この損失はこの盲人の夫婦の家賃1か月分に相当しました。それでも,二人はがっかりしてその晩の集会を休んだりはしませんでした。そして帰る前に夫は,王国の業に幾らかの寄付をしようとして寄付箱の場所を尋ねました。開拓者はそのことに触れ,「二人の感謝の気持ちには本当に驚かされます」と述べました。

偏見の壁を乗り越える

エホバの証人は命を高く評価しており,良質の医療を受けたいと思っています。しかし,輸血は受けません。これは,妥協の余地のない宗教上の立場です。(使徒 15:29)輸血の問題でエホバの証人がたびたび直面する偏見や拒絶的な態度の壁を,どうすれば克服できるでしょうか。ブルックリンにあるHIS(ホスピタル・インフォメーション・サービス)は,医療を必要とする仲間の証人たちを援助できるよう,長老たちを訓練し監督しています。この部門の教訓者の一人はこう述べました。「エホバの証人は,この『壁』を崩そうと無駄な試みをしているわけではありません。むしろそれを乗り越えようとしているのです。『わたしの神によって,城壁をよじ登ることができる』という詩編 18編29節の言葉を思い出します」。

1988年以来,HISは32のセミナーを通して,北米,南米,カリブ海,ヨーロッパ,太平洋地域の62の大きな支部の811の医療機関連絡委員会を訓練・設置してきました。3,846人の長老たちで成るこれらの委員会は,それらの土地に住む入院する可能性のある340万人のエホバの証人の特別な必要にこたえます。セミナーによって長老たちはそのような仕事を効果的に行なうことができるようになったでしょうか。

ある長老は,「おどおどせず堂々と,しかもふさわしい敬意を込めながら,自分たちの考えをはっきり伝えることができるようになりました」と言いました。別の委員はこう述べました。「血を避けるという原則を守るため,無血の代替治療が実際にあることを指摘したり,医学上の文献に言及したり,会見を申し入れたりする方法を学びました」。ある一流病院の外科部長は,「私が見るところ皆さんは,血の使用に関する医学面と法律面の情報については最先端を行っています」と言いました。

もちろん,医学上の専門知識が主要な論点となったわけではありません。ある委員は,「人間の知識が焦点となったのではありません。この取り決めにはエホバと聖霊の力添えがあるということが絶えず指摘されました」と述べました。旧東ドイツから来た兄弟は,「このセミナーは,病気の兄弟たちに一層深い関心を示すことを励ます効果もありました」と言いました。そうです,真のクリスチャンには,病んでいる仲間の信者を訪問して力になる責務があるのです。(マタイ 25:36と比較してください。)血の問題に関する対立に直面する兄弟たちを含め,緊急事態にある兄弟たちに助けと励ましを差し伸べることは,クリスチャン愛の一つの表明です。―伝道の書 4:12

『天幕布を張り伸ばす』

「あなたの天幕の場所をもっと広くせよ。そして,彼らにあなたの壮大な幕屋の天幕布を張り伸ばさせよ」。(イザヤ 54:2)新しい国民の誕生についてイザヤが書いた事柄は,原則的にエホバの証人の拡大に適用できます。現在,大会ホールや王国会館の建設は言うに及ばず,世界じゅうで20を超える支部が大規模な建設計画を進めています。

米国では,昨年,ニューヨーク州パタソンのものみの塔教育センターの建設に関して一段と大きな進展が見られました。その270㌶の敷地は,ブルックリンから北に約110㌔,ニューヨーク州ウォールキルのものみの塔農場から東に約70㌔のところにある,景色のよい田園地帯の便利な場所に位置しています。幾つかの建物が建設中です。そのうちの二つは5階建ての宿舎棟で,ほかにも,厨房と1,600人以上が座れる食堂のための3階建ての建物があります。毎日,650人以上の兄弟姉妹が建設のために働いています。見学者センターが開かれた1990年9月以来,8万人以上の人が建設現場を訪れました。

日本では,東海大会ホールの建設が始まった時,近所のある人が建設計画に強く反対し,建設を中止させるための運動を組織しようとしました。その男の人は敷地内で何が行なわれているかをチェックしに毎日やって来ては,いつもぶつぶつ文句を言っていました。ところがある日,この人がのこぎりを手に,現場にやって来ました。現場の責任者の兄弟はその人を制止しましたが,驚いたことに,その人はこう言いました。「これまでずっとお前たちのやっていることを見てきたが,ここにある竹やぶが邪魔になっているようだ。今日はわしも奉仕させてもらうぞ!」

集会場所や支部の建物の建設・拡張が必要なだけでなく,出版物を印刷する言語の数も『張り伸ばす』必要があります。例えば,ものみの塔農場にあるコンピューター部門は,MEPSとして知られる協会の世界的なコンピューターシステムを支えています。このシステムは現在,205の言語で書かれた資料の組版,翻訳,出版に貢献しています。

宣教訓練学校 ― 国際的な戸が開かれる

1991奉仕年度中,宣教訓練学校が初めて英語以外の言語で行なわれました。それは,フランス語,ドイツ語,イタリア語,スペイン語です。米国では,第7期のクラスがミシガン州ベルビルで,第8期のクラスがペンシルバニア州コラオポリスで開かれました。英国での第2期と第3期のクラスはサリーとマンチェスターで設けられました。外国語のクラスが開かれたのは,フランスのクレイユ,ドイツのメルベルゲン,イタリアのロセト・デリー・アブルッツィ,スペインのバルセロナです。

生徒は毎朝,学校が開かれている場所 ― たいていは大会ホールか予備室のある王国会館 ― の食堂に集まり,協会のすべての支部で行なわれているように日々の聖句を考慮します。訓練の一部として,生徒には日々の聖句の注解や食事の祈りが割り当てられます。朝食後,8時30分に授業が始まります。昼食のために1時間の休憩があり,その後,午後1時から2時まで生徒たちは,掃除,昼食後の皿洗い,施設の維持や修理の仕事,庭の手入れなどの割り当ての仕事を行ないます。午後2時に,再び教室での授業が始まります。授業が終わった後,宿舎で夕食のひと時を過ごし,晩の最後の3時間は宿題に充てます。

学校の目的と調和して,この学校の卒業生たちは,責任感を持って会衆の様々な責任や他の割り当てを果たしつつ,魂をこめて神のご意志を忠実に行なうよう勧められています。―コリント第一 4:2。エフェソス 6:6

訴訟は宣べ伝える業への戸を開く

ダビデは迫害を受けていた時に,「エホバが,苦しんでいる者の申し立て,貧しい者たちの裁きを履行してくださることを,わたしはよく知っています」と言いました。(詩編 140:12)エホバはご予定の時に,ご自分の方法で,忠実な崇拝者たちの弁護をしてくださいます。神は,抑圧されている人,苦しめられている人,不当な仕打ちを受けている人の味方です。ある国々では,宣べ伝える業への戸を開くため,また開いておくために,神が法制度をお用いになる場合さえあります。

戸を開いておくのを助けるため,約40人の兄弟姉妹から成るブルックリンの法律部門は統治体の指導のもとに働き,必要な法律上の問題を扱います。法制度は国によって異なりますが,そのほとんどは,“自然的正義”と“コモンロー”または憲法のほぼ同一の原則を基盤としています。経済統合を間近に控えた西ヨーロッパ諸国の動きや,東ヨーロッパでの劇的な政変のような最近の世界の出来事も,それぞれの法制度の相互依存の強まりを際立たせています。その結果,法律部門が,医療上の血の使用を拒否することや公の伝道活動に関連した諸権利など,法律上の問題に直面した協会の支部を援助することはますます多くなっています。

アフリカでは資産が返還される

昨年ベニンで14年ぶりに禁令が解かれると,政府は以前に没収した幾つかの王国会館,ポルト・ノボにあるかつての宣教者の家,金融の中心地コトヌーの元の支部事務所の建物を返還しました。これらの建物は現在修理中です。さらに政府は8人の宣教者の入国を許可しました。

1976年に突然禁令が敷かれた時,宣教者たちは1日以内に荷物をまとめてベニンから退去しなければなりませんでした。政府に差し押さえられた支部事務所の書籍類と設備はどうなったでしょうか。その答えは1990年11月になってやっと分かりました。一人の男性が電話をかけてきて,首都のある家にエホバの証人の持ち物が幾らか保管されていると言うのです。兄弟たちはそこへ行って取ってくることができたでしょうか。驚いたことに,5,000冊以上の本と小冊子があり,その中には宣教者たちの図書も含まれていました。協会の他の持ち物としては,洗濯機が2台,ガスレンジ,ガスボンベ(ガスが充填されたままのものもあった),湯沸かし器,浴槽,芝刈り器などがありました。黄色く変色した本もありましたが,取り戻した物の大半は14年も保管されていたわりには良い状態にありました。本は兄弟たちに提供されたので,兄弟たちは個人用の図書をそろえるために本に飛びつきました。

ヨーロッパでの出版

フランスからの報告によると,フランス支部は1年以上にわたって何度も試みた末,1991年5月16日に新しい4色刷り印刷機の使用許可を政府から得ました。会衆に送り出された彩り豊かな最初の雑誌は,7月15日号の「ものみの塔」誌と7月22日号の「目ざめよ!」誌でした。

ユーゴスラビアは不穏な情勢のために動揺していますが,王国の業は続行されています。そして,以前とは大きく違う点として,家から家の伝道活動で当局から罰金を課されることは一度もありませんでした。ドイツで印刷された彩り豊かな書籍や雑誌が,クロアチア語,マケドニア語,セルビア語,スロベニア語,アルバニア語で行なわれる伝道活動に大きなはずみをつけました。このように,法律上の障害があっても王国を宣べ伝える業は前進します。エホバの業は勝利を収めるのです。―エレミヤ 15:20

翻訳サービス部門 ― 良いたよりを広める手段

バベルの塔の建設中に人間の言語が混乱した結果,人類はすぐにいろいろな言語を使うようになりました。このために新しい職業,つまり通訳や翻訳の仕事が必要になりました。これとは対照的に,西暦33年のペンテコステの日には,聖霊の力を受けた男女が自分の言語を忘れることなく,ローマ帝国の16の地方からやって来た人々の様々な言語を奇跡的に話すことができました。今日,人間の力を超えた翻訳が行なわれることはありませんが,それでも霊的食物は175余りの言語で定期的に,しかもその多くは同時に供給されています。

ものみの塔の出版物はすべて,まず英語で書かれます。英語は世界人口の9%近くが話している言語です。この資料を世界じゅうの言語で供給するために,世界各地にある協会の65の支部には900人余りの熟練した翻訳者がいます。統治体の執筆委員会はブルックリンの本部から,世界じゅうで行なわれている翻訳のための努力を統括しています。これには,新しい翻訳部門を設置すること,翻訳者の訓練を計画すること,支部からの質問に答えること,調査のための適切な道具を備えることなどが含まれます。1989年4月に,翻訳に関連したこうした努力を支援するため,翻訳サービス部門と呼ばれる新しい部門が設置されました。

言葉はたくさんの意味を持つことが多いため,翻訳は辞書のとおりに一語一語置き換えてゆくという機械的な作業ではありません。熟語は翻訳者にとって独特の問題になります。それは文字どおりに翻訳することができないからです。例えば,1991年6月8日号の「目ざめよ!」誌に出てきた“bite your tongue(文字どおりには「舌をかむ」の意)”という英語表現には,『自分に傷を負わせる』という意味ではなく,『黙っている』という意味があります。また,元の言葉の意味全体を,翻訳している言語で正確に伝えることも必要です。そのうえ,話し言葉も書き言葉も生きています。時と共に用法が変わるにつれ,言葉は成長し,拡大し,変化するからです。数年前に,“glasnost(グラスノスチ)”,“perestroika(ペレストロイカ)”,“right to life(中絶反対)”,“pro-choice(中絶賛成)”,“computer hacker(コンピューターハッカー)”などの言葉を聞いたことのあった人がはたしているでしょうか。こうした表現は,翻訳者にとって果てしなく続く課題となっています。

翻訳者たちは協会の執筆スタッフと協働しながら,英語本文の力強さや味わいを正確につかむよう努力しています。統一性を保つため,英語の熟語や他の文法的要素について説明する注釈が,翻訳者のために本文中に挿入されています。こうしたサービスに対する各支部の反応はどのようなものでしょうか。

ドイツからは,「翻訳者たちはこの待ちわびていた備えをたいへん熱烈に歓迎しました」という言葉が寄せられています。ガーナ支部は,「特定の表現の意味を挿入するシステムのおかげで,非常に時間のかかる調査や,翻訳しなければならない英語資料についてあれこれ考える時間が大幅に減りました」と述べています。また,イタリア支部によれば,「動植物のラテン名が出ているのも役立ちます。おかげで時間をかなり節約できるため,翻訳者は翻訳そのものに専念できるようになっています」。

聖書の翻訳も,協会が手がけている大きな仕事の一つです。新世界訳聖書は現在13の言語で全訳もしくは部分訳を入手でき,さらに20の言語への翻訳が承認されています。今まで翻訳者たちは,聖書を翻訳する作業に平均15年の歳月を費やしてきました。執筆委員会は聖書の翻訳に必要な時間を減らすため,コンピューターの効果性を見定めるための調査を指示しました。人間の知性は,表現の意味をつかんで「真実の正確な言葉」を選択することができるため,コンピューターよりもはるかに優れています。(伝道の書 12:10)しかし,コンピューターも非常に便利な道具になり得ることが分かりました。それで,聖書の翻訳者たちは,聖書の言葉や表現に関する重要な情報の蓄積や検索のために,融通のきくコンピューターシステムを活用しています。これには,聖句に関する協会の説明を見つけるための徹底的なリサーチ機能が備わっています。これによって,聖書の翻訳が,最高の質を維持しながら,いっそう速く進むよう期待されています。

協会は良いたよりをできるだけ広く告げ知らせる仕事に取り組んでいます。「ものみの塔」誌は,1992年1月1日号から111の言語で翻訳されています。そのうち66の言語は英語と同時に出版されています。言い換えれば,エホバの証人の95%は同じ霊的食物を同時に受け取っているということです。新しい出版物は,アルバニア語,カンボジア語,エストニア語,グルジア語,マケドニア語,ヌドンガ語,ネパール語など,さらに多くの言語で発行されるようになりました。統治体は今後も,前途に控えている膨大な仕事を行なう翻訳チームを強化するために努力します。その結果,エホバの是認のほほえみのもとに,あらゆる人種,国籍,言語の人々がさらに多くの聖書や聖書研究の手引きを入手できるようになるに違いありません。

神の自由への戸を開く大会

「わたしは大きな会衆の中であなたをたたえます。大勢の民の中であなたを賛美するのです」。(詩編 35:18)エホバの証人は宇宙の主権者を賛美するための機会を決して逃しません。毎年行なわれる地域大会でも一致してその方を賛美します。昨奉仕年度中,1990年から引き続いて行なわれた「清い言語」大会が世界のある場所で終わろうとしていたころ,「自由を愛する人々」と題する1991年の大会が地球の別の地域で始まりました。

1990年8月から10月にかけて,ブラジルのエホバの証人にとって特筆すべき出来事がありました。それは四日間にわたって行なわれた一連の「清い言語」大会です。広大なブラジル各地の68都市で開かれた110の大会の幾つかは国際大会で,他の多くの国の人々も参加しました。出席者の合計は54万8,517人でした。また,1万3,448人がバプテスマを受けたことをみんなで喜びました。

これらの国際大会は地元の新聞やテレビで大きく取り上げられました。ジョルナル・ダ・タルデ紙は一面全体を割いてこう報じました。「この大会では,他の宗教行事とは対照的に,熱狂的な様子が見られない。叫び声を上げる人は一人もいない。賛美歌も穏やかなものである。これ見よがしのいやしもなければ,袋を持って信者から金を集める人もいない。それどころか,一心に耳を傾ける雰囲気が漂っている」。

昨奉仕年度中,1991年7月と8月にブラジルで開かれた「自由を愛する人々」地域大会も大成功を収めました。兄弟たちは大会の話を聞き,神から与えられた自由をいっそう大切にしてゆくようになりました。三日間にわたるこれらの霊的な宴では,明るい雰囲気が醸し出されました。全部で98の大会が開かれ,合計48万2,034人が出席し,8,991人がバプテスマを受けました。

イタリアの「自由を愛する人々」地域大会に出席した24万5,161人の中には,一人のカトリック司祭がいました。この司祭は,7月19日から21日にかけてブレーシャで開かれた大会の出席者に混じっていましたが,感動のあまり次のようなメモを寄付箱に入れました。「私は,今日はもちろん普段着のまま来ましたが,カトリックの司祭です。教会がいつも厄介者とみなしているこの人々が実際に何を行ない何を話しているのか,私はじかに見てみたいと思いました。この競技場で15分ほど過ごしただけですが,私がこれまでどれほど時間を無駄にしてきたかを悟るにはそれで十分でした。皆さんは本当に見倣うに値する手本です。おかげでよくよく考えさせられました。皆さんは私がもっと頻繁に使うべきもの,つまり聖書をよく使っています。もしかしたら私も,ネクタイに上着という姿で皆さんのお仲間になる日が来るかもしれません」。

昨年,東ヨーロッパでは三つの国際大会が開かれました。ハンガリーのブダペストは4万601人の出席者を迎え,チェコスロバキアのプラハには7万4,587人が出席し,ユーゴスラビアのザグレブ大会には1万4,684人が集まりました。世界各地からやって来た楽しそうな出席者たちが,大会会場付近の道路にあふれたのは,すばらしい光景でした。すぐれた聖書教育を受け,旧交を温め,新しい友人を作った出席者たちの間には喜びがあふれました。

ブダペストにあるネープ競技場で7月26日から28日にかけて開かれた国際大会には,35か国から出席者がやって来ました。これは,1989年6月にエホバの証人が法的に認可されてからわずか2年後のことでした。しかし数年前,この競技場の建設が行なわれていた時には,宗教的な信念のために投獄されている兄弟たちがいました。看守は,「おまえたちがこの競技場を見ることは絶対にないな」と,兄弟たちに豪語しました。それに対して一人の兄弟は,「いや分かりませんよ。エホバの証人がそこで集まる日がきっと来ます」と答えました。兄弟はそう言ったために打ちたたかれました。しかし,この大会に出席し,競技場が4万人以上の出席者で埋めつくされるのを見たその兄弟は,どんなにか喜んだことでしょう。

ソ連では,初めて大会を公然と開くことができました。現在は独立国家になっているエストニアの海沿いの都市タリンでは,一部の大会出席者にとって皮肉に思えるような光景が見られました。447人がバプテスマを受けた場所から,兄弟姉妹たちは,1950年と1951年に仮設の刑務所として使われていた古い要塞を見ることができました。一部の兄弟たちはその仮設刑務所でしばらく過ごし,それから遠いシベリアの強制労働収容所に連行されました。それで,非常に喜ばしい時ではありましたが,身の引き締まるような記憶が一瞬よみがえってきたのです。

支部の献堂式: もう一つの開かれた機会の戸

「あなたの家に住む者たちは幸いです。彼らはなおもあなたを賛美しつづけます」と,コラの忠実な子たちは歌いました。(詩編 84:4)今日,支部の施設は,エホバの崇拝を促進する機会の戸を開きます。そして新しい施設が献堂される時,それはエホバに賛美を歌う特別な機会になります。

フィジー

1990年12月25日,火曜日,フィジーの首都スバは,よく晴れた暖かな南国の一日を迎えました。増築が成ったばかりの支部事務所と宿舎の献堂式に,何千人もの人が集まってきました。フィジーには800以上の島があり,そのうち約100の島に人が住んでいます。フィジーの人口は73万6,000人余りで,こちらもついほほえんでしまうような笑顔と親切なもてなしぶりは有名です。最初のエホバの証人がフィジーにやって来たのは1913年のことでした。1930年代には,3家族の小さなグループがスバで集会を開いていたにすぎません。1940年には活動が公式に禁止されましたが,第二次世界大戦後に禁令は解除されました。こうして,最初のギレアデの宣教者たちがフィジーに来る道が開かれました。宣教者たちは1947年4月5日にフィジーに到着し,当時活発に奉仕していた12人の伝道者と一緒に働きました。

1957年に,現在はオーストラリアに住んでいるレン・ヘルバーグと,地元の開拓者レン・ヒートレーがギレアデ学校に遣わされました。1年後,二人が戻って来ると,スバに支部事務所が開設されました。「当時は支部とは思っていませんでした。『出張所』と呼んでいたのです」と,ヒートレー兄弟は述懐します。「しかし,さすがにエホバのなさることでした」と付け加えるのはヘルバーグ兄弟です。1940年代後半には,スバに一つの会衆しかありませんでしたが,今では良いたよりが南太平洋全域に広まっており,その結果,現在はニューカレドニアとタヒチと西サモアにも支部事務所があります。

統治体のライマン・スウィングルが,支部そのものに集まった434人の出席者と,近くの競技場に来て電話回線でその日のプログラムを聞いた3,489人に献堂式の話をしました。フィジーの伝道者が1,600人に満たないことを考えれば,これはすばらしい出席者数です。その晩,フィジーの兄弟たちは,2時間にわたって歌と踊りを繰り広げ,楽しい催しで多くの代表者たちをもてなしました。

ギリシャ

1991年4月13日は,ギリシャに住むエホバの証人の334の会衆にとって歴史的な一日になりました。その日は,首都アテネの北方70㌔ほどのところにあるエレオナという農村にできた新しい支部施設の献堂式が予定されていました。

献堂式の日は明け方から雲に覆われ,今にも雨が降りだしそうでした。しかし垂れ込める雲も,22㌶の敷地の周りに広がる大麦畑の緑のじゅうたんに,深紅のケシと黄色いヒナギクの見え隠れするしっとりとした美しさを損なうことはありませんでした。すべての会衆から代表者たちがやって来ると,雨も降りだしました。しかしこの雨は,3,815人の出席者たちの喜びにあふれた精神に水を差したわけではありません。献堂式のプログラムは,アテネとテサロニケの近くにある屋外の大会場やクレタ島にも電話回線で中継されました。合計1万3,484人がこの回線によって結ばれました。

ギリシャで最初に大会が開かれたのは66年前,1925年のことです。しかしギリシャ正教会は,まるでエホバの証人が新興宗教でもあるかのように,今でも執ように証人たちに反対しています。僧職者たちは,支部の建設が行なわれていた間,エレオナの敷地の外でデモ行進を指揮することさえしたため,秩序を守り,財産を保護するために機動隊が出動しました。反対は裏目に出ました。工事は予定よりも半年早く終わりました。

献堂式には,統治体の二人の成員,ミルトン・ヘンシェルとアルバート・シュローダーが出席しました。献堂式の日の終わりに,ベテル奉仕者と建設奉仕者,それにこの式典のためにギリシャを訪れた代表者たちが一緒に会食しました。訪問客は,兄弟姉妹によるギリシャの伝統舞踊を楽しみました。

香港

1980年1月1日,支部事務所はほんの小さな施設から,九龍塘<カオルントン>の郊外にあるケント通り4番のもっと広く静かな施設に移りました。この施設は8年間,支部としての機能を非常によく果たしましたが,その時点でさらに拡大が必要になりました。折よく,ケント通り12番にあった,小さな支部事務所とベテル・ホームに打ってつけの美しい建物が売りに出され,それが購入されました。しかしそのわずか3年後には,別の施設が間もなく必要になるということが明らかになりました。そしてまたもやエホバが備えてくださったのです。

ある日の午後,ケント通り16番に住むカトリック司祭が支部委員会の調整者に,「わたしたちの友人が行ってしまった」と言いました。その司祭の言う友人とは,ケント通り14番の持ち主だった中国人家族のことです。この家族はその週末に引っ越しをすませたばかりで,家は売りに出されました。条件は理想的でした。ケント通り14番は,4番と12番の施設に続くすばらしい施設になりました。これは2階建てで,鉄筋コンクリートの白い建物です。ベテル家族は現在19人ですが,宿舎は30人分あります。

1991年1月15日の晩に,この追加した施設の献堂式が行なわれました。統治体の成員ロイド・バリーは,「エホバがそれをずっと成長させてくださる」という主題で献堂式の話をしました。バリーは香港<ホンコン>のことをよく知っています。最初にそこを訪れたのは1956年のことで,当時のものみの塔協会の会長ネイサン・H・ノアも一緒でした。バリー兄弟はその後もたびたび香港支部を訪問し,地帯監督として奉仕しました。兄弟の話は,初期のころから今日に至るまでの活動の歴史をたどるものでした。今では香港の23の会衆に2,320人の伝道者がいます。

ニューカレドニア

南太平洋の西部にひっそりと浮かぶ島,それが“光の島”ニューカレドニアです。息をのむような自然の景観を残すこの島は,いつの時代も芸術家たちの愛好する楽園として,その創作意欲をかきたててきました。最近,とこしえの命をもたらす光を探し求める人々が増えています。―ヨハネ第一 1:5

1977年以来,支部事務所は宣教者の家の中にありました。それまで寝室になっていた二つの部屋を日中は事務所として使い,翻訳,組版,印刷のほかに,出版物の梱包や発送などをすべて,わずか100平方㍍のスペースで行なっていたのです。そのため統治体は,合計1,200平方㍍余りの床面積を持つ新しいベテルの建設を承認しました。寝室が六つあるこの建物はニューカレドニアの首都ヌメアにあります。本格的な掘削工事が始まったのは1989年1月のことでした。

1956年には9人の伝道者だったのが,今では1,265人になっています。支部事務所は現在,ニューカレドニア,バヌアツ,ウォリス・フトゥーナ諸島の証人たちを含め,1,400人余りの伝道者の必要を顧みています。1990年12月15日,約2,700人の聴衆は,協会の世界本部から地帯監督として訪問していたデービッド・マーカントによる献堂式の話を聞いて喜びました。式の後には,いろいろな島の兄弟たちが,王国の歌と島の踊りを含めた音楽のプログラムを披露しました。

フィリピン

前回支部が拡張された1972年には,フィリピンに5万4,212人の伝道者がいました。新しい支部の建設が行なわれるようになった1988年5月には,伝道者の数は9万7,000人以上に増えていました。

霊的な収穫が始まったのは,良いたよりの音信がマニラ・グランドオペラハウスで初めて伝えられた1912年1月14日のことでした。協会の初代会長チャールズ・T・ラッセルは,約1,000人の聴衆に向かって,「死者はどこにいるか」という話を行ないました。初期のころにまかれたこのような真理の種は徐々に実を結び,1930年には出席者約10人の聖書クラスが毎週開かれていました。最初のフィリピン・ベテルは貸しアパートの一室で,1934年6月から使い始めました。1947年12月には,ケソンシティにある現在の支部事務所の敷地の最初の一区画を購入し,1948年2月からその土地にある建物を支部事務所として使い始めました。最初のその1㌶の土地に,1953年,1962年,1972年と建物を追加してゆきました。

1970年代に伝道者が増えたため,『天幕布を張り伸ばす』ことがどうしても必要になりました。(イザヤ 54:2)まず近所の人たちに土地を売る気があるかどうか打診しました。その時はだれも乗り気ではありませんでした。実際,「中国人は土地を売らない。買うだけだ」という人もいたほどです。ところが驚いたことに,土地を買いたいという協会の打診に最初は乗り気でなかった人々が,一人また一人と,土地や家を売りたいと言うようになりました。6年間で10の区画を購入し,協会所有の土地は3倍になりました。

2階建ての工場と11階建てのベテル・ホームの建設が1988年5月に始まりました。インターナショナル・サーバントと地元の自発奉仕者たちは,新しい支部の建設チームに喜んで加わりました。日本支部は,設計部門から設計図を送ると共に,フィリピンの兄弟たちの寄付を補うために金銭面でも援助しました。

エホバの導きは,たびたび感じられました。例えば兄弟たちは,ルーフシートとフロアデッキを調達しようとした時に,必要なデザインの物を扱っている会社がフィリピンに1社しかないことを知りました。しかし支部の工事は,その会社の順番待ちのリストで301番目になっていました。そこで副社長と直接話をする約束を取りつけ,わたしたちの仕事が自発的な性質のものであることを説明しました。会社の重役会はわたしたちの要請を受け入れ,支部の注文を生産リストのトップに持ってきました。これはまさに神慮によるものでした。というのは,材料を納品した直後,その会社の従業員はストライキをしたからです。

1991年4月13日は明け方から快晴でした。1,718人の聴衆は,献堂式の話をする統治体のジョン・E・バーを喜んで迎えました。その主題は何だったでしょうか。「増し加わる神権支配の歌」です。この支部だけでなく,他のあらゆる支部の献堂式にもぴったりのテーマです。

[22ページの図表]

ソ連とエストニアで開かれた大会

日付 都市 出席者数 バプテスマ

7月13日と14日 エストニアのタリン 4,808 447

7月19日と20日 シベリアのウソリエシビルスコエ 4,205 543

8月2日と3日 ウクライナのキエフ 14,654 1,843

8月3日と4日 ウクライナのリボフ 17,531 1,316

8月24日と25日 ウクライナのオデッサ 12,115 1,943

8月31日と9月1日 ウクライナのチェルノフツイ 14,137 1,126

9月7日と8日 カザフのアルマアタ 6,802 602

総合計: 74,252 7,820

(バプテスマを受けた人の合計は,驚くべきことに,最高出席者合計の10.5%に当たります。)

[18ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

同時出版の進展

「ものみの塔」

年 出版言語数 同時出版言語数

1980 106 0

1985 103 24

1991 110 65

言語数

140 120 100 80 60 40 20 0

「目ざめよ!」

年 出版言語数 同時出版言語数

1980 34 0

1985 54 14

1991 64 30

言語数

70 60 50 40 30 20 10 0

エホバの証人の95%は同時出版から益を得ている

[5ページの図版]

毎年行なわれる主の晩さんの祝いに,昨年全世界で1,065万158人が出席した

[12ページの図版]

今年開かれた八つのクラスの卒業生の大半は,学校が開かれた六つの国で現在奉仕しており,残りの卒業生は以下の国々への任命を受けた。オーストリア,ベニン,カナダ,チェコスロバキア,チャド,コートジボワール,ホンジュラス,ハンガリー,アイルランド,オランダ,ニューカレドニア,ポルトガル,ルーマニア。上の写真はフランスとドイツでの最初のクラス

[13ページの図版]

今年この学校を卒業した奉仕の僕と長老は全員,様々な奉仕の特権に割り当てられた。それまでの経験と現在の資格に応じて,特別開拓者の割り当て,宣教者奉仕,巡回奉仕,支部での奉仕などの割り当てがある。上の写真はイタリアとスペインでの最初のクラス

[20ページの図版]

この小さなポーランド人の出席者は,チェコスロバキアのプラハ大会に出席した7万4,587人の一人

[21ページの図版]

A・D・シュローダーが新世界訳聖書のチェコ語版とスロバキア語版を発表した時,プラハ大会の出席者たちは感動の涙を流した

ブダペストとプラハとザグレブでは国際大会が開かれた。ユーゴスラビアのザグレブ大会に出席した人々は昼休みに王国の歌を歌って楽しんだ

[22ページの図版]

現在独立国になっているエストニアのタリンでは,ソ連最初の大会が開かれた

「これまでに生存した最も偉大な人」という本のロシア語版と他の東ヨーロッパの諸言語の版が発表された

[27ページの図版]

フィジー

首都スバにあるフィジー支部は1990年12月25日に献堂された。受付ロビーにはセンスのよい装飾が施されている

[27ページの図版]

ギリシャ

エレオナにある新しいギリシャ支部の施設は1991年4月13日に献堂された

[28ページの図版]

新しいギリシャ支部の入口にある庭

[28ページの図版]

見学者を迎える用意の整ったギリシャ支部の受付ロビー

[28ページの図版]

香港

香港支部に新しく追加された施設は1991年1月15日に献堂された

[29ページの図版]

ニューカレドニア

ニューカレドニアの首都ヌメアにあるニューカレドニア支部の建物は1990年12月15日に献堂された

[29ページの図版]

フィリピン

マニラにある新しいフィリピン支部の建物の献堂式は1991年4月13日に行なわれた。事務棟と11階建ての宿舎棟。右端にあるのは印刷工場

[30ページの図版]

フィリピンの支部事務所にある500人収容の王国会館

[30ページの図版]

フィリピンのベテル・ホームにある400人収容の食堂