日本語
許すとはどういうことですか
https://cms-imgp.jw-cdn.org/img/p/502015232/univ/art/502015232_univ_sqr_xl.jpg
イ聖 記事95

許すとはどういうことですか

許すとはどういうことですか

聖せい書しょの答こたえ

 許ゆるしとは,違い反はんを容よう赦しゃする行こう為いです。聖せい書しょで「許ゆるす」と訳やくされているギリシャ語ごにはもともと,返へん済さいを請せい求きゅうせずに債さい権けんを「手て放ばなす」という意い味みがあります。イエスはこの点てんを用もちい,ご自じ分ぶんの追つい随ずい者しゃたちにこう祈いのるよう教おしえました。「わたしたちの罪つみをお許ゆるしください。わたしたち自じ身しんも,わたしたちに負おい目めのある者ものすべてを許ゆるしますから」。(ルカ 11:4)さらに,憐あわれみに欠かけた奴ど隷れいのたとえ話ばなしをしたときも,許ゆるすことと負ふ債さいを帳ちょう消けしにすることを同どう等とうの行こう為いとみなされました。―マタイ 18:23-35。

 わたしたちが憤ふん慨がいするのをやめ,傷きずつけられた,あるいは何なにかを失うしなったということに対たいして返へん報ぽうする権けん利りを一いっ切さい放ほう棄きするなら,人ひとを許ゆるしたことになります。聖せい書しょは,真しんの許ゆるしは利り己こ心しんのない愛あいに基もとづいている,と教おしえています。愛あいは「傷きずつけられてもそれを根ねに持もた[ない]」からです。―コリント第だい一いち 13:4,5。

許ゆるすとはこのような意い味みではない

  •    違い反はんを大おお目めに見みる。聖せい書しょは実じっ際さい,悪わるい行こう為いを無む害がいで容よう認にんできると主しゅ張ちょうする人ひとたちを非ひとしています。―イザヤ 5:20。

  •    違い反はんがなかったかのように振ふる舞まう。神かみはダビデ王おうが犯おかした重じゅう大だいな罪つみを許ゆるしましたが,その行こう為いの結けっ果かからダビデを守まもることはしませんでした。ダビデの罪つみを記き録ろくに残のこし,後こう世せいに伝つたえることさえしたのです。―サムエル第だい二に 12:9-13。

  •    付つけ入いれられるままにする。例たとえば,だれかにお金かねを貸かしたとしましょう。その人ひとはそのお金かねを浪ろう費ひしてしまい,約やく束そくしたとおりには借しゃっ金きんの返へん済さいができなくなります。そして深ふかく反はん省せいし,謝しゃ罪ざいしてくれます。あなたはその人ひとを許ゆるすため,恨うらみを抱いだかないこと,その件けんを蒸むし返かえさないこと,さらには借しゃっ金きんを帳ちょう消けしにすることさえできます。でも,その人ひとにはこれ以い上じょうお金かねを貸かさないようにするかもしれません。―詩し編へん 37:21。箴しん言げん 14:15; 22:3。ガラテア 6:7。

  •    正せい当とうな根こん拠きょもなく容よう赦しゃする。神かみは,意い図と的てきに悪あく意いのある罪つみを犯おかす人ひと,自じ分ぶんの間ま違ちがいを認みとめない人ひと,行こう動どうを改あらためない人ひと,自じ分ぶんが傷きずつけた人ひとに謝しゃ罪ざいしない人ひとをお許ゆるしになりません。(箴しん言げん 28:13。使し徒と 26:20。ヘブライ 10:26)そうした悔くい改あらためない人ひとたちは神かみの敵てきになります。神かみはわたしたちに,ご自じ分ぶんが許ゆるさないそうした人ひとたちを許ゆるすよう求もとめてはおられません。―詩し編へん 139:21,22。

     では,あなたがむごい仕し打うちの被ひ害がい者しゃになり,加か害がい者しゃは謝あやまることはおろか,自じ分ぶんが危き害がいを加くわえたことを認みとめることさえしない場ば合あいはどうですか。聖せい書しょのアドバイスにはこうあります。「怒いかりをやめ,激げき怒どを捨すてよ」。(詩し編へん 37:8)相あい手ての悪あっ行こうに目めをつぶらないものの,怒いかりの気き持もちにのみ込こまれてしまうのを避さけられます。神かみは必かならず当とう人にんに責せき任にんを問とわれることを確かく信しんしてください。(ヘブライ 10:30,31)そして神かみが,現げん在ざいわたしたちを苦くるしめている深ふかい悲かなしみや心しん痛つうのなくなる時じ代だいをもたらしてくださる,ということを知しるなら,さらに慰なぐさめられるでしょう。―イザヤ 65:17。啓けい示じ 21:4。

  •    気きが付ついた無ぶ礼れいな行こう為いをいちいち“許ゆるす”。時ときには,“無ぶ礼れいな人ひと”を許ゆるすというよりも,そもそも自じ分ぶんには腹はらを立たてる正せい当とうな理り由ゆうなどないのだということを認みとめる必ひつ要ようがあるでしょう。聖せい書しょはこう述のべています。「自じ分ぶんの霊れいにせき立たてられて腹はらを立たててはならない。腹はら立だちは愚ぐ鈍どんな者ものたちの胸むねに宿やどるからである」。―伝でん道どうの書しょ 7:9。

人ひとを許ゆるすには

  1.   許ゆるすことには何なにが関かん係けいするかを思おもい出だす。悪あっ行こうを大おお目めに見みるとか,そんなことはなかったかのように振ふる舞まうことではありません。ただ,その件けんから手てを引ひくだけのことです。

  2.   許ゆるすならどんな良よいことがあるかを覚おぼえておく。怒いかりや恨うらみを捨すてるなら,いつも穏おだやかな気き持もちでいることができ,健けん康こうも増ぞう進しんされ,幸こう福ふく感かんが増まします。(箴しん言げん 14:30。マタイ 5:9)さらに重じゅう要ようなのは,人ひとを許ゆるすことは,自じ分ぶん自じ身しんの罪つみを神かみに許ゆるしていただくための鍵かぎだということです。―マタイ 6:14,15。

  3.   相あい手ての身みになって考かんがえる。わたしたちは皆みな,不ふ完かん全ぜんです。(ヤコブ 3:2)自じ分ぶんが許ゆるされるとありがたく思おもうのであれば,同おなじように他たの人ひとの間ま違ちがいを許ゆるすべきです。―マタイ 7:12。

  4.   理り性せい的てきになる。不ふ満まんの原げん因いんが小ちいさなことであれば,「引ひき続つづき互たがいに忍しのび……なさい」という聖せい書しょのアドバイスを適てき用ようすることができます。―コロサイ 3:13。

  5.   すぐに行こう動どうする。怒いかりを募つのらせるのではなく,できるだけ早はやく許ゆるすよう努ど力りょくしましょう。―エフェソス 4:26,27。