内容へ

サブ・メニューへ

目次へ

エホバの証人

日本語

「ものみの塔」(研究用)  |  2017年8月

 ライフ​・​ストーリー

試練を耐え忍び,豊かな祝福を受ける

試練を耐え忍び,豊かな祝福を受ける

「血​も​涙​も​ない​父親​だ​な」。KGB​の​職員​は​わたし​に​そう​言い放ち​まし​た。 * 「お前​は​身重​の​妻​と​赤子​を​見捨て​た​ん​だ。この​先​だれ​が​面倒​を​見る​ん​だ。さっさ​と​信仰​を​捨て​て​家​に​帰れ!」 わたし​は​言い​まし​た。「家族​を​見捨て​て​など​い​ませ​ん。皆さん​に​逮捕​さ​れ​た​ん​です。どうして​です​か」。職員​は​語気​を​強め​て,「エホバ​の​証人​で​ある​こと​は,一番​たち​が​悪い​犯罪​な​ん​だ」と​言い​まし​た。

その​時​わたし​は​ロシア​の​イルクーツク​の​刑務​所​に​い​まし​た。1959​年​の​こと​です。わたし​と​妻​の​マリア​は「義​の​ため​に​苦しみ​を​受ける」覚悟​が​でき​て​い​まし​た。なぜ​でしょ​う​か。神​に​忠実​で​あり​続ける​こと​に​よっ​て,どんな​祝福​を​受け​た​でしょ​う​か。(ペテ​一 3:13,14)お話し​さ​せ​て​ください。

わたし​は​1933​年,ウクライナ​の​ゾロトゥニキー​と​いう​村​で​生ま​れ​まし​た。1937​年,フランス​に​住ん​で​い​た​エホバ​の​証人​の​叔母​夫婦​が​うち​に​来​て,ものみの塔​協会​の「政府」と「神​の​救い」と​いう​本​を​置い​て​いき​まし​た。父​は​その​本​を​読ん​で,神​へ​の​信仰​が​呼び覚まさ​れ​まし​た。残念​ながら​父​は​1939​年​に​重い​病気​に​なり​まし​た。亡くなる​前,母​に「これ​は​真理​だ。子ども​たち​に​も​教え​なさい」と​言い残し​まし​た。

シベリア 新しい​伝道​区域

1951​年​4​月,当局​は​エホバ​の​証人​を​ソ連​西部​から​シベリア​に​送り​始め​まし​た。わたし​は​母​と​弟​の​グリゴリー​と​共​に​ウクライナ​西部​から​追放​さ​れ,列車​で​6000​㌔​余り​移動​し​て,シベリア​の​トゥルン​市​に​行き​まし​た。2​週​間​後,兄​の​ボグダン​が​近く​の​アンガルスク​市​の​収容​所​に​来​まし​た。25​年​の​重​労働​の​刑​を​科さ​れ​た​の​です。

母​と​弟​と​一緒​に,トゥルン​周辺​の​集落​で​伝道​し​まし​た。上手​に​会話​を​切り出す​必要​が​あり​まし​た。例えば,「この​辺​で​牛​を​売り​たがっ​て​いる​人​は​い​ます​か」と​尋ね​まし​た。その​よう​な​人​が​見つかる​と,牛​の​体​の​素晴らしい​造り​に​つい​て​話し,それ​から​創造​者​に​つい​て​話し合い​まし​た。当時​の​新聞​は,エホバ​の​証人​は​牛​の​こと​を​尋ねる,と​書き​まし​た。でも​わたしたち​が​探し​て​い​た​の​は​羊​でし​た。実際​に​羊​の​よう​な​人​たち​を​見つける​こと​が​でき​まし​た。その​未​割り当て​区域​で,親切​で​純粋​な​人​たち​と​聖書​を​学ぶ​の​は​楽しい​こと​でし​た。今,トゥルン​の​会衆​に​は​100​人​以上​の​伝道​者​が​い​ます。

 マリア​の​信仰​が​試み​られる

妻​の​マリア​は​第​二​次​世界​大戦​中,ウクライナ​で​真理​を​学び​まし​た。18​歳​の​時,KGB​の​職員​から​嫌がらせ​を​受ける​よう​に​なり,何​度​も​性​関係​を​迫ら​れ​まし​た。でも​きっぱり​と​断わり​まし​た。ある​日​家​に​帰る​と,その​職員​が​マリア​の​ベッド​に​横たわっ​て​い​まし​た。マリア​は​すぐ​に​逃げ​まし​た。怒っ​た​職員​は​マリア​を​脅し,エホバ​の​証人​を​刑務​所​に​入れる​の​は​簡単​な​ん​だ​ぞ,と​言い​まし​た。1952​年,実際​に​10​年​の​刑​を​宣告​さ​れ​まし​た。マリア​は,忠誠​を​保っ​て​投獄​さ​れ​た​ヨセフ​の​よう​な​気持ち​に​なり​まし​た。(創 39:12,20)裁判​所​から​刑務​所​まで​車​で​連れ​て​行か​れる​時,ドライバー​は​マリア​に​こう​言い​まし​た。「心配​し​なく​て​も​大丈夫。刑務​所​に​行っ​て​も,信念​を​曲げ​ず​に​戻っ​て​くる​人​たち​は​たくさん​いる​ん​だ​から」。この​言葉​に​マリア​は​とても​強め​られ​まし​た。

1952​年​から​1956​年​まで,マリア​は​ロシア​の​ゴーリキー​市(現在​の​ニジニノブゴロド)の​近く​の​労働​収容​所​に​入れ​られ​まし​た。凍える​よう​な​寒い​日​に​も​木​を​根こそぎ​に​する​仕事​を​し​なけれ​ば​なら​ず,マリア​は​健康​を​害し​て​しまい​まし​た。1956​年​に​釈放​さ​れ,トゥルン​に​向かい​まし​た。

妻​や​子ども​たち​から​引き離さ​れる

わたし​は​同じ​トゥルン​に​住ん​で​い​た​兄弟​から,1​人​の​姉妹​が​来る​と​いう​こと​を​聞き,荷物​を​運ぶ​の​を​手伝う​ため,自転​車​で​バス停​に​行き​まし​た。その​姉妹​が​マリア​でし​た。一目​で​好き​に​なり​まし​た。何​と​か​気​を​引こ​う​と​頑張り,結婚​まで​こぎつけ​まし​た。1957​年​に​結婚​し,1​年​後​に​娘​の​イリーナ​が​生ま​れ​ます。しかし​喜び​も​つかの間,家族​から​引き離さ​れ​て​しまい​ます。1959​年,聖書​文書​を​印刷​し​て​い​た​と​いう​理由​で​逮捕​さ​れ​た​の​です。独房​で​半年​過ごし​まし​た。平穏​な​思い​を​保つ​ため,いつも​祈り,王国​の​歌​を​歌い,釈放​さ​れ​たら​どんな​ふう​に​伝道​する​か​を​考え​まし​た。

労働​収容​所​に​い​た​ころ(1962​年)

ある​日,刑務​所​で​わたし​を​尋問​し​た​KGB​の​職員​は「今​に​お前​たち​を​ネズミ​の​よう​に​踏みつぶし​て​やる!」と​怒鳴り​まし​た。わたし​は​こう​言い​まし​た。「イエス​は​王国​の​良い​たより​が​全地​で​必ず​宣べ伝え​られる​と​言い​まし​た。だれ​も​その​活動​を​阻止​でき​ませ​ん」。すると​職員​は​やり方​を​変え,冒頭​で​述べ​た​よう​な​こと​を​言っ​て​信仰​を​捨て​させ​よう​と​し​まし​た。しかし,脅し​て​も​揺さぶり​を​かけ​て​も​効果​が​ない​こと​に​気づい​た​よう​です。わたし​は​サランスク​市​の​近く​の​収容​所​で​7​年​の​重​労働​を​行なう​よう​命じ​られ​まし​た。収容​所​へ​の​道中,2​人​目​の​娘​オルガ​が​生ま​れ​た​こと​を​知り​まし​た。家族​から​引き離さ​れ​て​い​まし​た​が,妻​も​わたし​も​エホバ​へ​の​忠節​を​保っ​て​いる,と​いう​こと​が​励み​に​なり​まし​た。

マリア​と​娘​の​オルガ​と​イリーナ(1965​年)

年​に​1​度,妻​は​わたし​に​面会​に​来​て​くれ​まし​た。トゥルン​から​サランスク​へ​の​旅​は​列車​で​往復​12​日​かかり​まし​た。妻​は​毎年,新しい​ブーツ​を​持っ​て​き​て​くれ​まし​た。ブーツ​の​かかと​に​は​最近​の「ものみの塔」が​隠さ​れ​て​い​まし​た。ある​年​の​こと​は​忘れ​られ​ませ​ん。幼い​娘​たち​を​連れ​て​き​て​くれ​た​の​です。娘​たち​に​会え​て​本当​に​うれしかっ​た​です。

 新た​な​場所​で​新た​な​問題​に​ぶつかる

1966​年,労働​収容​所​から​釈放​さ​れ,家族​4​人​で​黒海​近く​の​アルマビル​市​で​暮らし​始め​まし​た。そこで​息子​の​ヤロスラフ​と​パベル​が​生ま​れ​ます。

やがて,KGB​の​職員​が​我​が​家​を​捜索​する​よう​に​なり​まし​た。聖書​文書​を​見つける​ため​です。あり​と​あらゆる​場所​を​探し​まし​た。牛​の​えさ​の​中​まで​です。ある​暑い​日,職員​たち​は​汗だく​で​捜索​を​行なっ​て​い​まし​た。服​も​ほこり​まみれ​でし​た。それ​を​見​て​マリア​は​かわいそう​に​思い​まし​た。彼ら​は​命令​に​従っ​て​い​た​だけ​だっ​た​から​です。マリア​は​みんな​に​ジュース​を​出し,服​の​ブラシ​と​タオル​と​水​の​入っ​た​ボウル​を​持っ​て​き​まし​た。その​後,上官​が​到着​する​と,職員​たち​は​マリア​の​親切​に​つい​て​話​し​まし​た。上官​は​家​を​去る​時,笑顔​で​手​を​振っ​て​くれ​まし​た。「善​を​もっ​て​悪​を​征服​し​て​ゆき​なさい」と​いう​アドバイス​に​従う​時,良い​結果​に​なる​の​を​見​て,うれしく​なり​まし​た。(ロマ 12:21

捜索​は​何​度​も​あり​まし​た​が,わたしたち​は​アルマビル​で​の​伝道​を​続け​まし​た。近く​の​クルガニンスク​と​いう​町​の​小さな​群れ​に​も​時々​行っ​て,奉仕​者​たち​を​励まし​まし​た。うれしい​こと​に​現在,アルマビル​に​は​6​つ​の​会衆,クルガニンスク​に​は​4​つ​の​会衆​が​あり​ます。

時​に​は​奉仕​の​手​を​緩め​て​しまっ​た​こと​も​あり​ます。でも,エホバ​は​忠実​な​兄弟​たち​を​通し​て​わたしたち​を​正し,強め​て​ください​まし​た。(詩 130:3)KGB​の​スパイ​たち​が​会衆​に​忍び込ん​だ​時​も​大変​でし​た。熱心​な​奉仕​者​を​装っ​て​い​た​の​です。中​に​は​会衆​内​の​責任​を​与え​られ​て​い​た​人​たち​も​い​まし​た。しかし,やがて​彼ら​の​正体​は​明らか​に​なり​まし​た。

1978​年,妻​は​45​歳​の​時​に​再び​妊娠​し​まし​た。妻​に​は​慢性​的​な​心臓​の​問題​が​あっ​た​ため,医師​たち​は​妻​の​命​が​危ぶま​れる​と​考え,中絶​を​勧め​まし​た。マリア​は​拒否​し​まし​た。すると​何​人​か​の​医師​たち​は​注射​器​を​持っ​て​妻​を​追いかけ,中絶​を​誘発​し​よう​と​し​まし​た。妻​は​胎児​を​守る​ため​に​病院​から​逃げ​まし​た。

KGB​の​命令​で​アルマビル​市​から​出る​こと​に​なり,エストニア​の​タリン​市​の​近く​の​村​に​引っ越し​まし​た。当時,エストニア​は​ソ連​の​一部​でし​た。医師​たち​の​予想​に​反し​て,妻​は​元気​な​男​の​子​を​産み​まし​た。ビタリー​と​名づけ​まし​た。

その​後,エストニア​から​ロシア​南部​の​ネズロブナヤ​に​引っ越し​まし​た。近く​の​リゾート​地​で​用心深く​伝道​し​まし​た。世界​各地​から​旅行​者​が​訪れ​て​い​た​場所​です。保養​の​ため​に​来​て​い​た​多く​の​人​たち​が,永遠​の​命​の​希望​を​抱い​て​帰途​に​就き​まし​た。

エホバ​を​愛する​よう​子ども​を​教える

子ども​たち​が​エホバ​を​愛し,エホバ​に​仕え​たい​と​いう​願い​を​持てる​よう​助け​まし​た。良い​交友​を​持てる​よう,多く​の​兄弟​姉妹​を​家​に​招き​まし​た。弟​の​グリゴリー​も​その​一​人​です。グリゴリー​は,1970​年​から​1995​年​まで​旅行​する​監督​と​し​て​奉仕​し​まし​た。グリゴリー​が​来る​と​家族​は​みんな​喜び​まし​た。明るく​て​ユーモア​の​センス​ が​あっ​た​から​です。お客さん​と​一緒​に​よく​聖書​ゲーム​を​し​まし​た。おかげ​で​子ども​たち​は​聖書​の​歴史​が​大好き​に​なり​まし​た。

息子​たち​夫婦

後列​左​から ヤロスラフ,パベル,ビタリー

前列​左​から アリョーナ,ラヤ,スベトラナ

1987​年,息子​の​ヤロスラフ​は​ラトビア​の​リガ​市​に​引っ越し​まし​た。伝道​を​もっと​自由​に​行なえる​場所​でし​た。しかし,兵役​を​拒否​し​た​ため​に​1​年​半​投獄​され,合計​9​か所​の​刑務​所​で​服役​し​まし​た。わたし​の​投獄​の​経験​を​聞い​て​い​た​こと​が​忍耐​する​助け​に​なっ​た​よう​です。ヤロスラフ​は​後​に​開拓​奉仕​を​始め​まし​た。1990​年,19​歳​だっ​た​息子​の​パベル​は,日本​の​北​の​サハリン​島​で​開拓​奉仕​を​し​たい​と​言い​まし​た。最初,わたしたち​は​行っ​て​ほしく​ない​と​思い​まし​た。9000​㌔​も​離れ​て​い​ます​し,伝道​者​は​島​全体​で​20​人​だけ​でし​た。でも​結局,同意​し​まし​た。そう​し​て​良かっ​た​と​思い​ます。大勢​の​人​たち​が​良い​たより​に​関心​を​示し,数​年​の​うち​に​8​つ​の​会衆​が​でき​まし​た。パベル​は​1995​年​まで​サハリン​で​奉仕​し​まし​た。当時,家​に​残っ​て​い​た​末​息子​の​ビタリー​は​幼い​ころ​から​聖書​を​読む​の​が​大好き​で,14​歳​の​時​に​開拓​奉仕​を​始め​まし​た。わたし​も​2​年​ほど​一緒​に​開拓​奉仕​を​し​まし​た。楽しい​思い出​です。ビタリー​は​19​歳​の​時​に​特別​開拓​者​に​なり,家​を​出​まし​た。

1952​年​当時,マリア​は​KGB​の​職員​から​こう​言わ​れ​まし​た。「信仰​を​捨て​ない​と​10​年​投獄​さ​れる​ぞ。出​て​くる​ころ​に​は​年​を​取っ​て​独りぼっち​だ」。でも​そう​は​なり​ませ​ん​でし​た。わたしたち​は​忠節​な​エホバ​神,子ども​たち,真理​を​知る​よう​助ける​こと​の​でき​た​大勢​の​人​たち​から​愛さ​れ​て​いる​と​感じ​ます。子ども​たち​が​奉仕​し​て​いる​様々​な​場所​を​夫婦​で​訪ねる​こと​が​でき​た​の​も​喜び​です。子ども​たち​が​エホバ​に​つい​て​知る​よう​助け​た​人​たち​から​も​感謝​さ​れ​まし​た。

エホバ​の​善良​さ​に​感謝​する

1991​年,エホバ​の​証人​の​活動​に​法的​認可​が​与え​られ​まし​た。伝道​活動​に​弾み​が​つき​まし​た。わたしたち​の​会衆​で​は​バス​を​購入​し,毎週​末,近く​の​町​や​村​へ​伝道​に​行き​まし​た。

妻​と​共​に(2011​年)

現在,ヤロスラフ​と​妻​の​アリョーナ,パベル​と​妻​の​ラヤ​は​ベテル​で​奉仕​し​て​おり,ビタリー​と​妻​の​スベトラナ​は​巡回​奉仕​を​し​て​い​ます。長女​の​イリーナ​は​家族​で​ドイツ​に​住ん​で​おり,夫​の​ウラジーミル​と​3​人​の​息子​たち​は​長老​と​し​て​奉仕​し​て​い​ます。次女​の​オルガ​は​エストニア​に​住ん​で​おり,定期​的​に​電話​を​くれ​ます。残念​な​こと​に,愛する​妻​マリア​は​2014​年​に​亡くなり​まし​た。復活​し​て​くる​妻​に​会える​時​を​心待ち​に​し​て​い​ます。わたし​は​今​ベルゴロド​市​に​住ん​で​おり,会衆​の​兄弟​たち​が​とても​よく​支え​て​くれ​て​い​ます。

エホバ​に​奉仕​し​て​き​た​日々​を​振り返る​と,忠誠​を​保つ​こと​に​は​犠牲​が​伴う​もの​の,エホバ​が​与え​て​くださる​平穏​な​思い​に​は​はるか​に​優れ​た​価値​が​ある,と​感じ​ます。夫婦​で​信仰​を​保ち,想像​以上​の​祝福​を​受け​まし​た。1991​年​に​ソ連​が​崩壊​する​前,伝道​者​の​数​は​4万​人​ほど​でし​た。今​で​は​旧​ソ連​の​国々​に​40万​人​以上​の​伝道​者​が​い​ます。わたし​は​83​歳​の​今​も​長老​と​し​て​奉仕​し​て​い​ます。いつも​エホバ​の​支え​に​よっ​て​耐え忍ぶ​こと​が​でき​まし​た。エホバ​は​本当​に​豊か​に​報い​て​ください​まし​た。(詩 13:5,6

^ 4節 KGB​は,国家​保安​委員​会​の​ロシア​語​の​略称​です。