内容へ

目次へ

「親切の律法」に従いましょう

「親切の律法」に従いましょう

しんせられたゆうについて,リサまいはこうっています。 *なんといっても,きょうだいまいしんせつかんどうしました」。アンまいも,「おしえではなく,しんせつかれました」とっています。2人ふたりは,いまではせいしょんだりじっくりかんがえたりしていますが,そのきっかけとなったのはしんせつでした。

どうすれば,ひとこころうごかすようなしんせつしめせるでしょうか。ことこうどうという2つのめんかんがえてみましょう。そして,だれたいしてしんせつしめすことができるかもげます。

しんせつりっぽう」にしたがってはな

かくげん 31しょうてくるゆうのうつまは,「しんせつりっぽう」にしたがってはなします。(かく 31:26)つまり,調ちょうはなないようをその「りっぽう」に沿ったものにする,ということです。おっとちちおやも,この「りっぽう」にしたがってはなすのはいことです。おおくのおやっているように,どもたいしてきびしくつめたいはなかたをするなら,どもわるえいきょうおよびますし,どもおやうことをかないでしょう。いっぽうおやしんせつはなかたをするなら,どもおやしたがいやすくかんじるはずです。

おやであるかどうかにかかわりなく,どうすればしんせつはなかたができるでしょうか。かくげん 31しょう26せつぜんはんにヒントがあります。そこには,「くちひらときにはかしこかた[る]」とかれています。これはつまり,ことかしこえらび,調ちょうけるひつようがある,ということです。つぎのようにかんがえてみましょう。「ぶんはなそうとしていることは,いかりをあおるだろうか。それとも,めたくうやわらげるだろうか」。(かく 15:1はなまえかんがえるのはかしこいことです。

かくげんしょ」には,「こころないはつげんつるぎのように[す]」ということもあります。(かく 12:18ぶんこと調ちょうがほかのひとにどんなえいきょうあたえるかをよくかんがえるなら,ぶんことをコントロールしたいというちになるでしょう。「しんせつりっぽう」にしたがうなら,きずつけるようなことったりきびしい調ちょうはなしたりすることをけられます。(エフェ 4:31,32しょうきょくてきかんがかたはなかたをするのではなく,しんせつことあたたかい調ちょうはなすことができます。このてんで,エホバはわたしたちのほんです。エホバは,おそれていたエリヤをちからづけようとしたときてん使とおして「おだやかでしずかなこえ」でかたけました。(おういち 19:12)もちろん,しんせつひとになるためには,ことだけでなく,こうどうめんでもしんせつしめひつようがあります。どんなことができるでしょうか。

しんせつこうどうひとこころうごかす

ことこうどうりょうめんしんせつしめすなら,エホバにならうことができます。(エフェ 4:32; 5:1,2さきほどのリサまいは,エホバのしょうにんからしめしてもらったしんせつについて,こうかたっています。「わたしたちぞくきゅうさなければいけなくなったとき,エホバのしょうにんの2くみふうが,ごとやすみをってづくりをつだいにてくれました。そのときわたしはまだせいしょレッスンをはじめてすらいなかったのにです」。こうしたしんせつこうどうがきっかけとなって,リサまいしんけんせいしょまなぶようになりました。

さきほどのアンまいも,エホバのしょうにんからしめしてもらったしんせつかんしゃしています。こうべています。「わたしは,なかひとびとうたがぶかくなっていたので,なかなかひとしんじることができませんでした。エホバのしょうにんったときも,そのひとたちのどううたがって,『どうしてかんしんしめしてくるんだろう』とおもっていました。でも,わたしせいしょおしえてくれたひとこころからのしんせつしめしてくれたので,そのひとしんらいできるようになりました」。どんなけっになったでしょうか。「わたしは,まなんでいることにもっとしゅうちゅうできるようになりました」。

リサまいもアンまいも,エホバのしょうにんきょうだいまいしんせつこうどうこころうごかされ,それがきっかけでせいしょまなびたいというちになりました。こうしたしんせつのおかげで,2人ふたりこころひらいたのです。

かみならってしんせつしめ

そだったかんきょうなどのおかげで,しんせつはなかたをしたりがおせっしたりすることをぜんにできるひともいるかもしれません。そのようにれいただしいこうどうができるのはいことです。でも,それだけでは,かみならってしんせつしめしているとはえないでしょう。(使 28:2かく。)

ほんものしんせつは,せいなるちからすもののいちめんです。(ガラ 5:22,23)それで,ほんものしんせつしめせるようになるには,せいなるちからみちびかれたかんがかたこうどうをするひつようがあります。そうすれば,エホバやイエスにならうことができます。また,クリスチャンであるわたしたちは,ひとびとたいしてこころからのかんしんいだいています。それで,わたしたちはエホバとひとびとへのあいうごかされてこうどうします。そうするときわたしたちのしんせつこころからのものとなり,エホバによろこばれ,おおきなちからはっします。

だれたいしてしんせつしめすか

しんせつしめしてくれたひとぶんっているひとたいしてしんせつしめすのは,むずかしくないでしょう。(サム 2:6かんしゃすることによって,そうできます。(コロ 3:15)では,あるひとたいして,「このひとにはしんせつしめひつようはない」とかんじるあいはどうでしょうか。

エホバは,しみないしんせつしめてんさいこうほんです。せいしょには,このしんせつしめめんでのたいせつおしえがおさめられています。ギリシャせいしょには,「しみないしんせつ」というひょうげんがたくさんてきます。では,エホバはどのようにしんせつしめしているでしょうか。

エホバは,すべてのひときていくのにひつようものあたえることによって,しんせつしめしてきました。(マタ 5:45)ごぶんのことをらないひとたちにたいしてもしんせつしめしているのです。(エフェ 2:4,5,8たとえばエホバは,すべてのひとのためにひとイエスというさいこうおくものあたえました。パウロは,エホバが「ゆたかなしみないしんせつ」によってあがないをあたえた,といています。(エフェ 1:7わたしたちがつみおかしたりエホバをかなしませたりするとしても,エホバはわたしたちにみちびきやおしえをあたえることをやめたりしません。エホバのおしえやことは,「やさしいあめ」のようです。(しん 32:2わたしたちは,エホバのこうしたしんせつじゅうぶんにおかえしすることはできません。エホバのしんせつがなければ,わたしたちはしょうらいぼうつこともできないのです。(ペテロだいいち 1:13かく。)

エホバのしんせつは,わたしたちのこころあたため,こうどうへとうながします。それで,わたしたちはいちひとにだけしんせつしめすのではなく,エホバにならってまいにちどんなひとにもしんせつしめすよううごかされるはずです。(テサいち 5:15しんせつしめつづけるなら,わたしたちはさむのたきのようになれます。ぞくなかきょうだいまいしょくどうりょうがっこうともだちきんじょひとにとって,ここよいそんざいとなれるのです。

ぞくかいしゅうひとたちは,あなたのしんせつことこうどうによって,きっとげんづけられることでしょう。いえにわれをしたり,ものなどのようをしてあげたりするなら,よろこんでくれるきょうだいまいがいるでしょうか。また,でんどうったひとなにこまっているなら,たすけてあげることができますか。

では,エホバにならって,わたしたちのことこうどうがいつも「しんせつりっぽう」に沿ったものとなるようにしましょう。

^ まええてあります。