使徒​の​活動 2:1-47

2  さて,ペンテコステのまつりの+たちはみないっしょおなしょにいた。 2  とつぜんはげしいかぜけるようなおとてんからして,かれらがすわっていたいえぜんたいひびわたった+ 3  そして,ほのおのようなしたいくつもあらわれ,っていって一人ひとり一人ひとりうえに1つずつとどまり, 4  みなせいなるちからたされ+,さまざまなげんはなはじめた。せいなるちからが,はなせるようにしたのである+ 5  このとき,エルサレムには,かみおそれるユダヤじんかいのあらゆるくにからていた+ 6  このおとがしたときおおぜいひとあつまってきて,あっけにられた。だれもがぶんげんたちがはなすのをいたからである。 7  ひとびとはすっかりおどろいて,こうった。「なさい,はなしているこのひとたちはみなガリラヤじん+ではないか。 8  では,わたしたちがそれぞれぶんみみにしているのはどうしてか。 9  ここには,パルチアじん,メディアじん+,エラムじん+,メソポタミアのじゅうみんや,ユダヤとカパドキア,ポントスとアジアしゅう+ 10  フリギアとパンフリア,エジプト,リビアのなかでキレネにちかほうじゅうみん,ローマからたいざいしているひとがいる。ユダヤじんかいしゅうしゃ+だ。 11  クレタじん,アラビアじんもいる。そのわたしたちが,かみだいはたらきについてかれらがわたしたちのげんはなすのをいているのだ」。 12  ひとびとみなじょうおどろき,またとうわくして,「これはどういうことなのか」とたがいにった。 13  いっぽうたちをあざけって,「あまいぶどうしゅっているのだ」とひともいた。 14  しかしペテロが11にんいっしょがり+おおごえでこうはなした。「ユダヤのひとたち,そしてエルサレムのじゅうみんみなさん,っていただきたいことがあります。わたしうことをよくいてください。 15  このひとたちは,あなたがたおもうようにっているのではありません。いまあさの9なのです。 16  それどころか,これはげんしゃヨエルをとおしてわれたことです。 17  『かみう。「わりのだいに,わたしせいなるちからをあらゆるひとそそぐ。あなたたちの息子むすこむすめげんし,わかものまぼろしろうじんゆめ+ 18  そのだいに,わたしせいなるちからわたしおとこれいおんなれいにもそそぎ,かれらはげんする+ 19  わたしは,うえてんなことを,したにしるしをあたえる。けむりである。 20  たいようやみに,つきわる。エホバのおおいなるかがやかしいまえに。 21  エホバのひとみなすくわれる+」』。 22  イスラエルのみなさん,このこといてください。かみは,あなたがたっているとおり,ナザレじんイエスをとおしてあなたがたのただなかきょうりょくおこないとなこととせき*おこない,イエスをあなたがたにはっきりしめしました+ 23  あなたがたは,かみとおりにわたされたこのかた+ほうひとたちによってくいけてころしました+ 24  しかしかみは,このかたくるしみからかいほうしてふっかつさせました+。このかたらえられていることなどありなかったからです+ 25  ダビデはこのかたについてこうっています。『わたしはエホバをえずぶんまえ*く。かみわたしみぎにいてくださるので,けっしてどうようすることはない。 26  そのため,わたしこころたのしくなり,わたしよろこびにたされてかたった。そしてぼうってきる。 27  あなたはわたしはかほうっておかず,あなたにくす*ひとからだはいすることもゆるさないからだ+ 28  あなたはいのちみちらせてくださった。そして,あなたのまえわたしよろこびでたしてくださる+』。 29  みなさん,きょうだいたち,ダビデについては,かれんでほうむられ+,そのはか今日きょうまでこのにあることをしんってかたることができます。 30  ダビデはげんしゃで,そん1人ひとりかれおうにつかせることをかみちかってやくそくしてくださったので+ 31  キリストのふっかつけんし,キリストがはかてられず,そのからだはいしないとかたりました+ 32  かみはこのイエスをふっかつさせました。わたしたちはみなそのことのしょうにんです+ 33  それで,このかたてんのぼってかみみぎすわ*+やくそくせいなるちからてんちちからけたので+,それをそそぎました。そのせいなるちからはたらきをあなたがたきしているのです。 34  ダビデはてんのぼりませんでしたが,こうっています。『エホバはわたししゅった。「わたしみぎすわっていなさい。 35  わたしがあなたのてきたちをあなたのあしだいとしてくまで+」』。 36  ですから,イスラエルこくみんみなかみがそのかたしゅともキリストともしたことをはっきりとってください+。そのイエスをあなたがたくいけてしょけいしたのです+」。 37  ひとびとはこれをくと,こころされ,ペテロやほかの使たちにった。「みなさん,きょうだいたち,わたしたちはどうしたらよいのですか」。 38  ペテロはった。「あらためなさい+。そして一人ひとり一人ひとりつみゆるしのためにイエス・キリストのによって+バプテスマをけなさい+。そうすれば,しょうおくものであるせいなるちからけます。 39  このやくそく+はあなたがたとあなたがたどもたち,またとおくにいるすべてのひと,エホバかみまねすべてのひとたいするものです+」。 40  ペテロはさらにおおくをかたっててっていてきおしえ,「このがっただい+からすくわれなさい」とすすつづけた。 41  それで,ペテロのことよろこんでれたひとはバプテスマを+,そのやく3000にんくわわった+ 42  たちはひたすら使たちからまなび,こうゆうふかめ,しょく+いのった+ 43  すべてのひとおそれをかんじるようになった。おおくのなことやせき使たちをとおしてこりはじめた+ 44  しんじゃとなったひとみないっしょにいてすべてのものきょうゆうし, 45  しょゆうぶつざいさんっては+しゅうえきすべてのひとにそれぞれのひつようおうじてぶんぱいした+ 46  そして,おもいをひとつにしてまいにちしん殿でんき,たがいのいえしょくをし,よろこびにあふれてこころからしょくもつい, 47  かみさんし,たみすべてからこうた。どうにエホバは,すくわれるひとまいにちくわえていった+

脚注

直訳,「しるし」。
または,「目の前」。
または,「を揺るぎなく支持する」,「から離れない」。
もしかすると,「神の右手によって天に昇り」。

注釈

ペンテコステ: ギリシャ語ペンテーコステー(「50番目(50日目)」を意味する)は,ヘブライ語聖書の「収穫の祭り」(出 23:16),また「七週の祭り」(出 34:22)を指して,ギリシャ語聖書で使われている。この祭りは,大麦の収穫とその後の小麦の収穫を含む7週間の収穫期の終わりに行われた。ペンテコステの祭りは,大麦の収穫の初穂の束が捧げられたニサン16日から数えて50日目に行われた。(レビ 23:15,16)ヘブライ人の暦で,ペンテコステはシワン6日に当たる。(付録B15参照。)この祭りに関する指示は,レビ 23:15-21,民 28:26-31,申 16:9-12に書かれている。ペンテコステの祭りの時,大勢のユダヤ人と改宗者が遠い土地からエルサレムに集まった。この祭りは,自由民,奴隷,貧しい人,父親のいない子供,やもめ,レビ族,外国人居住者など,さまざまな立場や背景の人たちをもてなし,親切にするよう促すものだった。(申 16:10,11)それで西暦33年のエルサレムでのペンテコステは,「神の偉大な働きについて」全ての人々に伝えるという使命を持ったクリスチャン会衆が誕生するのに理想的な時だった。(使徒 1:8; 2:11)ペンテコステは,ユダヤ人の伝統では,シナイ山で律法が与えられ,イスラエルが神に選ばれた国民として取り分けられた時に当たると考えられている。イスラエル人がシナイ山に集まって律法を与えられたのは,第3の月(シワン)の初めだった。(出 19:1)モーセが仲介者となってイスラエルが律法契約を結んだように,「神のイスラエル」という新しい国民もこの時イエス・キリストを仲介者として新しい契約を結んだ。(ガラ 6:16

言語: または,「舌」。聖書で,ギリシャ語グローッサは話すための器官である「舌」を指すことがある。(マル 7:33。ルカ 1:64; 16:24)しかしこの語は,言語,またはある言語を話す人たちを指して比喩的に使われることもある。(啓 5:9; 7:9; 13:7)このギリシャ語は,使徒 2:3にも出ていて,「炎のような舌」が現れたと書かれている。弟子たち一人一人の上に「舌」がとどまったこと,また弟子たちがさまざまな言語で話したことは,聖なる力が注がれたことを示すものだった。

自分の母語: 直訳,「私たちが生まれた所の自分の言語」。ここで「言語」と訳されるギリシャ語はディアレクトス。(使徒 2:4の注釈を参照。)弟子たちの話を聞いた多くの人は,国際語おそらくギリシャ語を話しただろう。また「神を畏れるユダヤ人」だったので,エルサレムの神殿の崇拝で使われていたヘブライ語も理解できただろう。(使徒 2:5)でもその人たちは,子供の頃から知っていた言語で良い知らせが話されるのを聞いて注意を引き付けられた。

アジア州: 用語集の「アジア」参照。

改宗者: マタ 23:15の注釈を参照。

甘いぶどう酒: または,「新しいぶどう酒」。ギリシャ語グレウコスはギリシャ語聖書でここだけに出ていて,発酵途中の新しくて甘いぶどう酒を指している。

朝の9時: 直訳,「昼の第3時」。1世紀のユダヤ人は,日中を午前6時ごろの日の出から始まる12時間とする数え方をした。(ヨハ 11:9)それで,第3時は午前9時ごろ,第6時は正午ごろ,第9時は午後3時ごろになる。人々は正確な時計を持っていなかったので,たいてい出来事のおおよその時刻しか書かれていない。(ヨハ 1:39; 4:6; 19:14。使徒 10:3,9

終わりの時代に: ヨエルの預言を引用した時,ペテロは聖なる力に導かれて,もともとのヘブライ語とセプトゥアギンタ訳で使われている「その後」という表現ではなく,「終わりの時代に」という表現を使っている。(ヨエ 2:28 [3:1,LXX])ヨエルの預言は,ペンテコステの日に聖なる力が注がれた時に実現した。そしてここで「終わりの時代」という語をペテロが使っていることは,その特別な期間が始まっていたこと,またそれが「エホバの大いなる輝かしい日」に先立つものであることを示していた。この「エホバの……日」によって「終わりの時代」が終わったと思われる。(使徒 2:20)ペテロは生来のユダヤ人とユダヤ教への改宗者に話していたので,ペテロが聖なる力に導かれて語った言葉は,まずその人たちに関してその通りになったに違いない。その言葉は,エルサレムが崇拝の中心だった体制の「終わりの時代」にユダヤ人が生きていたことを示していたと思われる。イエスも以前,エルサレムと神殿の滅びについて予告した。(ルカ 19:41-44; 21:5,6)その滅びは西暦70年に起きた。

聖なる力: ここのギリシャ語プネウマは神の聖なる力を指す。ここで引用されているヨエ 2:28では,対応するヘブライ語ルーアハが使われている。ヘブライ語とギリシャ語のどちらの語も,人間の目には見えない何らかの力が働いていることを示すものという基本的な考えを伝えている。用語集の「プネウマ」参照。

あらゆる人: または,「全ての種類の人々」。直訳,「全ての肉」。ギリシャ語サルクス(「肉」とよく訳される)は,ここで生きている人を指して使われている。「全ての肉」は大抵,全人類を指す。(ヨハ 17:2の注釈を参照。)しかしこの文脈では,「全ての肉」に当たるギリシャ語は,より限定的な意味で使われている。神は聖なる力を地上の全ての人に注いだのでも,イスラエルの全ての人に注いだのでもない。それでいつも全ての人を指すわけではない。この表現はここで,区別なく全ての種類の人々を指す。神は,「息子や娘」,「若者」,「老人」,「男奴隷と女奴隷」,つまり全ての種類の人々に聖なる力を注いだ。(使徒 2:17,18)「全ての」に当たるギリシャ語(パース)は,テモ一 2:3,4でも同じように使われている。そこでは,神は「あらゆる人が救われ」ることを望んでいると書かれている。ヨハ 12:32の注釈を参照。

預言し: ギリシャ語プロフェーテウオーは,字義的には「はっきり話す」という意味。聖書では,神からのメッセージを知らせることに関して使われている。将来を予告するという考えを含むことも多いが,この語の基本的な意味は予言するということではない。このギリシャ語は,神の啓示によってある事柄を明らかにするということも指せる。(マタ 26:68,マル 14:65,ルカ 22:64の注釈を参照。)この文脈では,人々は聖なる力に動かされて預言した。その人々は至高者の代弁者として,エホバがすでに行い,その後行う「偉大な働き」について広く知らせた。(使徒 2:11)「預言する」に当たるヘブライ語も似た考えを伝えている。例えば,出 7:1ではアロンがモーセの「預言者」と言われているが,それは将来を予告したという意味ではなく,モーセの代弁者になったという意味。

老人: または,「年長者」,「長老」。ここでギリシャ語プレスビュテロスは,この節で先に出てくる「若者」と対比して,年を取った人を指していると思われる。ほかの文脈では,同じ語が国や共同体で権威や責任のある立場に就いている人を指して使われている。(使徒 4:5; 11:30; 14:23; 15:2; 20:17マタ 16:21の注釈を参照。

不思議なこと: または,「前兆」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語テラスはいつもセーメイオン(「しるし」)と一緒に使われていて,どちらも複数形が使われている。(マタ 24:24。ヨハ 4:48。使徒 7:36; 14:3; 15:12。コ二 12:12)基本的にテラスは,畏れの気持ちを抱かせたり,驚嘆させたりするものを指す。この語が将来起きることの前兆となるものを指すことが明らかな場合,注釈に「前兆」という別の訳を挙げている。

エホバ: ここでの引用はヨエ 2:31から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。

エホバ: ここでの引用はヨエ 2:32から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。

ナザレ人: マル 10:47の注釈を参照。

不思議なこと: または,「前兆」。神がイエスに行わせた奇跡は,イエスが神から遣わされたことを証明するものだった。またこうした奇跡的な癒やしと復活は,イエスが将来大規模に行う事を前もって示すものだった。使徒 2:19の注釈を参照。

意志: または,「意向」。ギリシャ語ブーレーは,ルカ 7:30では「意向[または,「指示」,「導き」,脚注]」,ヘブ 6:17では「目的」と訳されている。使徒 20:27の注釈を参照。

死の苦しみ: 聖書は,死ぬと意識も痛みを感じることもなくなるとはっきり述べているが(詩 146:4。伝 9:5,10),ここでは,「死」が「苦しみ」や「痛み」を引き起こすと言っている。それは死がひどくてつらいこととして描かれているためと思われる。(サ一 15:32,脚注。詩 55:4。伝 7:26)実際,人は死ぬ前に大抵痛みを感じ(詩 73:4,5),さらに,死ぬと全く動けない束縛されたような状態になり,自由を奪われてしまう。(詩 6:5; 88:10)イエスは復活した時,恐らくこのような意味での「死の苦しみ」から解放され,死にとらわれたつらい状態から自由になった。ここで「苦しみ」と訳されているギリシャ語(オーディン)は,ほかの場所では陣痛を意味して使われているが(テサ一 5:3),一般的な痛み,苦しみ,苦難も指せる。(マタ 24:8)「死の苦しみ」という表現はセプトゥアギンタ訳サ二 22:6詩 18:4(17:5,LXX)に出てくるが,ヘブライ語のマソラ本文では「墓の綱」と「死の綱」となっている。興味深いことに,母音なしで書かれた古代のヘブライ語写本では,「綱」に当たる語(ヘベル)と「苦しみ」に当たるヘブライ語は同じ子音でつづられている。それで,セプトゥアギンタ訳で「苦しみ」という訳語が使われているのだろう。いずれにしても,「死の苦しみ」と「死の綱」という表現は,死がひどくてつらいことであるという,広く言えば同じような考えを伝えている。

エホバ: ここでの引用は詩 16:8から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。

そして: 直訳,「そして私の肉体は」。ペテロは,「ダビデはこの方についてこう言っています」と述べて,詩 16からの引用を始めた。「この方」とは,メシアつまりイエスのこと。(使徒 2:25)この節(使徒 2:26)と詩 16:9では,ギリシャ語でもヘブライ語でも「肉」に当たる語が使われていて,それは人の体やその人自身を指すことがある。イエスは贖いの犠牲として殺されることが分かっていたが,希望を持って生きた。イエスは,父が復活させてくれること,自分の犠牲が人類のための贖いとなること,自分の肉体が腐敗しないことを知っていた。(使徒 2:27,31

私: 詩 16:10からの引用であるこの部分で,ヘブライ語ネフェシュの訳としてギリシャ語プシュケーが使われている。詩編作者は,自分自身を指してネフェシュという語を使った。ペテロは,ペンテコステの日にキリストの復活についてユダヤ人に話した時,ダビデが書いたこの詩をイエスに当てはめた。(使徒 2:24,25)用語集の「プシュケー」と付録A2参照。

墓: または,「ハデス」。ギリシャ語ハーイデースは,恐らく「見えない場所」という意味で,ギリシャ語聖書に10回出ている。(マタ 11:23; 16:18,ルカ 10:15; 16:23,使徒 2:27,31,啓 1:18; 6:8; 20:13,14を参照。)この節で引用されている詩 16:10では対応するヘブライ語「シェオル」が使われていて,それも「墓」と訳されている。セプトゥアギンタ訳では,たいていヘブライ語「シェオル」に相当する語としてギリシャ語「ハデス」が使われている。聖書では,どちらの語も死んだ人たちが眠っている比喩的な場所を指す。個々の墓を指す原語の言葉はほかにある。ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の中には,ここで「シェオル」という語を使っているものがある。(付録C4のJ7,8,11,12,14-18,22付録A2参照。

あなたの前で: 直訳,「あなたの顔と共に」。詩 16:11を引用したギリシャ語本文は,ヘブライ語を字義通りに訳している。「……の顔と共に」というヘブライ語表現は,「……の前で」という意味の慣用句

子孫の1人: ダビデは,自分の子孫の1人が創 3:15で約束されていた「子孫」つまりメシアになる,という約束をされた。(サ二 7:12,13。詩 89:3,4; 132:11)その約束はイエスに当てはまった。イエスの母も養父もダビデ王の子孫だった。「子孫」と訳されているギリシャ語の表現は,ヘブライ語の慣用句をそのまま取り入れたもので,その慣用句は直訳すると「腰の実」となる。人体にある腰という部分は生殖器を含む。(創 35:11,脚注。王一 8:19,脚注)「胎の実」も子孫を指す。ほかにも人間の生殖によって生み出されるものを「実」と表現した同様の言い回しがある。(創 30:2。申 7:13,脚注。詩 127:3。哀 2:20。ルカ 1:42

神: 入手できるギリシャ語写本は,ここで「神」に当たるテオスという語を使っている。注目できる点として,ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の中には,ここでテトラグラマトンを使っているものがある。(付録C4のJ7,8,10

墓: または,「ハデス」。死んだ人たちが眠っている比喩的な場所のこと。使徒 2:27の注釈用語集を参照。

その体も腐敗しない: エホバは,イエスを予示していたモーセとダビデとは違って,イエスの体が朽ちて土になるようにはされなかった。(申 34:5,6。使徒 2:27; 13:35,36)イエスが「最後のアダム」(コ一 15:45),また全人類のための「対応する贖い」となるため(テモ一 2:5,6。マタ 20:28),イエスの体は本当の人間の肉体でなければならなかった。アダムが失ったものを買い戻す代価としてエホバ神に差し出すため,イエスの体は完全なものでなければならなかった。(ヘブ 9:14。ペ一 1:18,19)アダムの子孫である不完全な人たちは誰も,買い戻すのに必要な代価を払うことができなかった。(詩 49:7-9)それでイエスの母親は普通の仕方で妊娠したわけではなかった。実のところイエスは,恐らくバプテスマの際に自分を差し出した時,父に「あなた[エホバ]は……私に体を与えてくださいました」と言った。これは,犠牲として差し出すイエスの完全な体のこと。(ヘブ 10:5)弟子たちが墓に行った時,イエスの体はなくなっていたが,体を包んでいた亜麻布が残っていた。エホバは,愛する子の肉体を朽ち始める前に処分したと思われる。(ルカ 24:3-6。ヨハ 20:2-9

エホバ: ここで引用されている詩 110:1の元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。しかし,付録A5で説明されているように,ほとんどの聖書翻訳は,一般に新約聖書と呼ばれる部分で,ヘブライ語聖書からの引用の中でさえ,神の名前を使っていない。とはいえ,注目できる点として,「ジェームズ王欽定訳」(英語)の17世紀の幾つかの版は,ここと,ギリシャ語聖書詩 110:1が引用されている他の3カ所で,大文字と小型の大文字でつづったLORDという訳語を使っている。(マタ 22:44。マル 12:36。ルカ 20:42)その後の版もその形を引き継いだ。欽定訳のヘブライ語聖書では,元のヘブライ語本文で神の名前が使われている箇所でLORDが使われているので,翻訳者たちがギリシャ語聖書でLORDと書いたのは,そこでエホバのことが言われていると考えていたということだろう。さらに注目できる点として,1979年に初版が出た「新ジェームズ王欽定訳」はこの用法を推し進め,ヘブライ語聖書からの引用で神の名前を指す語がある全ての箇所でLORDを使っている。付録C参照。

杭に掛けて処刑した: または,「杭(棒)に留めた」。マタ 20:19の注釈と,用語集の「」,「苦しみの杭」を参照。

悔い改めなさい: ここで使われているギリシャ語メタノエオーは「考えを変える」と直訳することもでき,考え・態度・目的の変化を意味する。バプテストのヨハネは以前,「罪の許しのための悔い改めを象徴するバプテスマについて伝道した」。(マル 1:4の注釈を参照。)このバプテスマには,モーセの律法の教えに従わず,大きくそれていたことへの悔い改めが必要だった。その悔い改めによって,神の民はその後のことに備えることができた。(マル 1:2-4)しかしペテロはここで,マタ 28:19のイエスの命令に沿って,神の民は悔い改めて罪の許しのためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受ける必要があると指摘した。ユダヤ人はメシアであるイエスを退けたため,悔い改めてイエスに信仰を抱くことが,神に許しを求め,許していただく上でどうしても必要になった。その人たちは,イエス・キリストの名によって水に浸されることにより,そのような信仰を人々の前ではっきり示した。それはキリストを通して神に献身したことを象徴するものとなった。マタ 3:8,11の注釈用語集を参照。

エホバ: 入手できるギリシャ語写本はここで「主」という語(ギリシャ語キュリオス)を使っている。しかし,付録Cで説明されているように,もともとこの節で神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられた,と考えられる幾つもの理由がある。そのため,ここの本文でエホバという名前を使っている。使徒 2:33-38から分かるように,この節でペテロが述べた約束とは,聖なる力が注がれることについてヨエ 2:28-32で書かれている約束のこと。それで,エホバ神が招く全ての人にという表現は,ヨエ 2:32の最後の言葉に基づいているようだ。ヨエ 2:32のヘブライ語本文では,神の名前が3回使われていて,エホバが呼び寄せるということがはっきり述べられている。付録C3の序文使徒 2:39を参照。

人: ギリシャ語プシュケーは,ここで生きている人を指す。用語集の「プシュケー」参照。

交友を深め: または,「互いに分け合い」。ギリシャ語コイノーニアの基本的な意味は,「分け合うこと」,「交友」。パウロはこの語を何度か手紙の中で使った。(コ一 1:9; 10:16。コ二 6:14; 13:14)文脈から,この交友が単なる知り合いではなく,親しい友人の間のものであることが分かる。

食事を取り: 直訳,「パンを割り」。使徒 20:7の注釈を参照。

人: ギリシャ語プシュケーは,ここで生きている人を指す。用語集の「プシュケー」参照。

不思議なこと: または,「前兆」。使徒 2:19の注釈を参照。

互いの家で: または,「家から家へと」。ここでカト オイコン(直訳,「家ごとに」)というギリシャ語表現で使われている前置詞カタは,配分的な意味で理解できる。助け合う必要が生じたこの時,弟子たちはエルサレムやその周りに住んでいる仲間の信者たちの家々で会い,食べ物を分け合ったと思われる。使徒 5:42,20:20の注釈を参照。

エホバ: 入手できるギリシャ語写本はここで「主」という語(ギリシャ語,ホ キュリオス)を使っている。しかし,付録Cで説明されているように,もともとこの節で神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられた,と考えられる幾つかの理由がある。そのため,ここの本文でエホバという名前を使っている。付録C3の序文使徒 2:47を参照。

メディア

ギリシャ語を話すユダヤ人に向けたテオドトス碑文
ギリシャ語を話すユダヤ人に向けたテオドトス碑文

縦42センチ,横72センチの石灰岩の板に刻まれたこの写真の文章は,テオドトス碑文として知られている。20世紀初め,エルサレムのオフェルの丘で発見された。「律法の朗読のため,またおきてを教えるための会堂……を建て」た祭司テオドトスについてギリシャ語で書かれている。この碑文は西暦70年のエルサレムの滅びより前のものとされている。西暦1世紀,ギリシャ語を話すユダヤ人がエルサレムにいたことを裏付けている。(使徒 6:1)この会堂を「いわゆる『自由民の会堂』」と考える人もいる。(使徒 6:9)この碑文によれば,テオドトスとその父親と祖父はアルキシュナゴーゴス(「会堂の役員」)と呼ばれていた。この称号はギリシャ語聖書で何度も使われている。(マル 5:35。ルカ 8:49。使徒 13:15; 18:8,17)この碑文は,テオドトスが外国から来る人のための宿舎を建てたことも述べている。その宿は,エルサレムを訪れるユダヤ人,特に毎年の祭りの時期に来る人たちが使っただろう。(使徒 2:5

西暦33年のペンテコステ 良い知らせが広がる
西暦33年のペンテコステ 良い知らせが広がる

西暦33年のペンテコステの日,「エルサレムには……ユダヤ人が世界のあらゆる国から来ていた」。(使徒 2:5)キリストの弟子たちは聖なる力を注がれた後,奇跡によって,エルサレムに来ていたユダヤ人のさまざまな言語で話すことができた。(使徒 2:4,8)人々は良い知らせを自分たちの母語で聞いて驚いた。使徒 2:9-11から分かるように,その人たちは15の地域から来ていた。信者になった多くの人たちは,良い知らせを地元に持ち帰ったに違いない。それらの地域はこの地図で,使徒 2:9-11に挙げられている順に番号が振られている。(使徒 2:41,44,47