使徒​の​活動 2:1-47

2  さて,ペンテコステの祭りの日+,弟子たちは皆一緒に同じ場所にいた。  突然,激しい風が吹き付けるような音が天からして,彼らが座っていた家全体に響き渡った+  そして,炎のような舌が幾つも現れ,散っていって一人一人の上に1つずつとどまり,  皆が聖なる力に満たされ+,さまざまな言語で話し始めた。聖なる力が,話せるようにしたのである+  この時,エルサレムには,神を畏れるユダヤ人が世界のあらゆる国から来ていた+  この音がした時,大勢の人が集まってきて,あっけに取られた。誰もが自分の言語で弟子たちが話すのを聞いたからである。  人々はすっかり驚いて,こう言った。「見なさい,話しているこの人たちは皆ガリラヤ人+ではないか。  では,私たちがそれぞれ自分の母語を耳にしているのはどうしてか。  ここには,パルチア人,メディア人+,エラム人+,メソポタミアの住民や,ユダヤとカパドキア,ポントスとアジア州+ 10  フリギアとパンフリア,エジプト,リビアの中でキレネに近い地方の住民,ローマから来て滞在している人がいる。ユダヤ人や改宗者+だ。 11  クレタ人,アラビア人もいる。その私たちが,神の偉大な働きについて彼らが私たちの言語で話すのを聞いているのだ」。 12  人々は皆,非常に驚き,また当惑して,「これはどういうことなのか」と互いに言った。 13  一方,弟子たちをあざけって,「甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言う人もいた。 14  しかしペテロが11人と一緒に立ち上がり+,大声でこう話した。「ユダヤの人たち,そしてエルサレムの住民の皆さん,知っていただきたいことがあります。私が言うことをよく聞いてください。 15  この人たちは,あなた方が思うように酔っているのではありません。今は朝の9時なのです。 16  それどころか,これは預言者ヨエルを通して言われたことです。 17  『神は言う。「終わりの時代に,私は聖なる力をあらゆる人に注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し,若者は幻を見,老人は夢を見る+ 18  その時代に,私は聖なる力を私の男奴隷と女奴隷にも注ぎ,彼らは預言する+ 19  私は,上は天に不思議なことを,下は地にしるしを与える。血と火と濃い煙である。 20  太陽は闇に,月は血に変わる。エホバの大いなる輝かしい日が来る前に。 21  エホバの名を呼ぶ人は皆救われる+」』。 22  イスラエルの皆さん,この言葉を聞いてください。神は,あなた方が知っている通り,ナザレ人イエスを通してあなた方のただ中で強力な行いと不思議なことと奇跡*を行い,イエスをあなた方にはっきり示しました+ 23  あなた方は,神の意志と予知の通りに引き渡されたこの方を+,不法な人たちによって杭に打ち付けて殺しました+ 24  しかし神は,この方を死の苦しみから解放して復活させました+。この方が死に捕らえられていることなどあり得なかったからです+ 25  ダビデはこの方についてこう言っています。『私はエホバを絶えず自分の前*に置く。神が私の右にいてくださるので,決して動揺することはない。 26  そのため,私の心は楽しくなり,私は喜びに満たされて語った。そして希望を持って生きる。 27  あなたは私を墓に放っておかず,あなたに尽くす*人の体が腐敗することも許さないからだ+ 28  あなたは命の道を知らせてくださった。そして,あなたの前で私を喜びで満たしてくださる+』。 29  皆さん,兄弟たち,父祖ダビデについては,彼が死んで葬られ+,その墓が今日までこの都市にあることを自信を持って語ることができます。 30  ダビデは預言者で,子孫の1人を彼の王座につかせることを神が誓って約束してくださったので+ 31  キリストの復活を予見し,キリストが墓に見捨てられず,その体も腐敗しないと語りました+ 32  神はこのイエスを復活させました。私たちは皆そのことの証人です+ 33  それで,この方は天に昇って神の右に座り*+,約束の聖なる力を天の父から受けたので+,それを注ぎました。その聖なる力の働きをあなた方は見聞きしているのです。 34  ダビデは天に昇りませんでしたが,こう言っています。『エホバは私の主に言った。「私の右に座っていなさい。 35  私があなたの敵たちをあなたの足台として置くまで+」』。 36  ですから,イスラエル国民は皆,神がその方を主ともキリストともしたことをはっきりと知ってください+。そのイエスをあなた方は杭に掛けて処刑したのです+」。 37  人々はこれを聞くと,心を刺され,ペテロやほかの使徒たちに言った。「皆さん,兄弟たち,私たちはどうしたらよいのですか」。 38  ペテロは言った。「悔い改めなさい+。そして一人一人,罪の許しのためにイエス・キリストの名によって+バプテスマを受けなさい+。そうすれば,無償の贈り物である聖なる力を受けます。 39  この約束+はあなた方とあなた方の子供たち,また遠くにいる全ての人,エホバ神が招く全ての人に対するものです+」。 40  ペテロはさらに多くを語って徹底的に教え,「この曲がった世代+から救われなさい」と勧め続けた。 41  それで,ペテロの言葉を喜んで受け入れた人はバプテスマを受け+,その日に約3000人が加わった+ 42  弟子たちはひたすら使徒たちから学び,交友を深め,食事を取り+,祈った+ 43  全ての人が畏れを感じるようになった。多くの不思議なことや奇跡が使徒たちを通して起こり始めた+ 44  信者となった人は皆一緒にいて全ての物を共有し, 45  所有物や財産を売っては+,収益を全ての人にそれぞれの必要に応じて分配した+ 46  そして,思いを一つにして毎日神殿に行き,互いの家で食事をし,喜びにあふれて心から食物を分け合い, 47  神を賛美し,民の全てから好意を得た。同時にエホバは,救われる人を毎日加えていった+

脚注

直訳,「しるし」。
または,「目の前」。
または,「を揺るぎなく支持する」,「から離れない」。
もしかすると,「神の右手によって天に昇り」。

注釈

ペンテコステ: ギリシャ語ペンテーコステー(「50番目(50日目)」を意味する)は,ヘブライ語聖書の「収穫の祭り」(出 23:16),また「七週の祭り」(出 34:22)を指して,ギリシャ語聖書で使われている。この祭りは,大麦の収穫とその後の小麦の収穫を含む7週間の収穫期の終わりに行われた。ペンテコステの祭りは,大麦の収穫の初穂の束が捧げられたニサン16日から数えて50日目に行われた。(レビ 23:15,16)ヘブライ人の暦で,ペンテコステはシワン6日に当たる。(付録B15参照。)この祭りに関する指示は,レビ 23:15-21,民 28:26-31,申 16:9-12に書かれている。ペンテコステの祭りの時,大勢のユダヤ人と改宗者が遠い土地からエルサレムに集まった。この祭りは,自由民,奴隷,貧しい人,父親のいない子供,やもめ,レビ族,外国人居住者など,さまざまな立場や背景の人たちをもてなし,親切にするよう促すものだった。(申 16:10,11)それで西暦33年のエルサレムでのペンテコステは,「神の偉大な働きについて」全ての人々に伝えるという使命を持ったクリスチャン会衆が誕生するのに理想的な時だった。(使徒 1:8; 2:11)ペンテコステは,ユダヤ人の伝統では,シナイ山で律法が与えられ,イスラエルが神に選ばれた国民として取り分けられた時に当たると考えられている。イスラエル人がシナイ山に集まって律法を与えられたのは,第3の月(シワン)の初めだった。(出 19:1)モーセが仲介者となってイスラエルが律法契約を結んだように,「神のイスラエル」という新しい国民もこの時イエス・キリストを仲介者として新しい契約を結んだ。(ガラ 6:16

言語: または,「舌」。聖書で,ギリシャ語グローッサは話すための器官である「舌」を指すことがある。(マル 7:33。ルカ 1:64; 16:24)しかしこの語は,言語,またはある言語を話す人たちを指して比喩的に使われることもある。(啓 5:9; 7:9; 13:7)このギリシャ語は,使徒 2:3にも出ていて,「炎のような舌」が現れたと書かれている。弟子たち一人一人の上に「舌」がとどまったこと,また弟子たちがさまざまな言語で話したことは,聖なる力が注がれたことを示すものだった。

言語: または,「舌」。聖書で,ギリシャ語グローッサは話すための器官である「舌」を指すことがある。(マル 7:33。ルカ 1:64; 16:24)しかしこの語は,言語,またはある言語を話す人たちを指して比喩的に使われることもある。(啓 5:9; 7:9; 13:7)このギリシャ語は,使徒 2:3にも出ていて,「炎のような舌」が現れたと書かれている。弟子たち一人一人の上に「舌」がとどまったこと,また弟子たちがさまざまな言語で話したことは,聖なる力が注がれたことを示すものだった。

自分の母語: 直訳,「私たちが生まれた所の自分の言語」。ここで「言語」と訳されるギリシャ語はディアレクトス。(使徒 2:4の注釈を参照。)弟子たちの話を聞いた多くの人は,国際語おそらくギリシャ語を話しただろう。また「神を畏れるユダヤ人」だったので,エルサレムの神殿の崇拝で使われていたヘブライ語も理解できただろう。(使徒 2:5)でもその人たちは,子供の頃から知っていた言語で良い知らせが話されるのを聞いて注意を引き付けられた。

アジア州: 用語集の「アジア」参照。

改宗: または,「転向」。ギリシャ語プロセーリュトスは,異国人でユダヤ教に転向した人を指し,男性の改宗者であれば割礼を受けていた。

改宗者: マタ 23:15の注釈を参照。

甘いぶどう酒: または,「新しいぶどう酒」。ギリシャ語グレウコスはギリシャ語聖書でここだけに出ていて,発酵途中の新しくて甘いぶどう酒を指している。

朝の9時: 直訳,「昼の第3時」。1世紀のユダヤ人は,日中を午前6時ごろの日の出から始まる12時間とする数え方をした。(ヨハ 11:9)それで,第3時は午前9時ごろ,第6時は正午ごろ,第9時は午後3時ごろになる。人々は正確な時計を持っていなかったので,たいてい出来事のおおよその時刻しか書かれていない。(ヨハ 1:39; 4:6; 19:14。使徒 10:3,9

全人類: 直訳,「全ての肉」。または,「全ての人」。ギリシャ語で,この表現はルカ 3:6にもあり,それはイザ 40:5からの引用。そこでは同じ意味のヘブライ語が使われている。ヨハ 1:14の注釈と比較。

あらゆる人: イエスは,国籍,人種,経済状態に関わりなく,あらゆる背景の人を自分に引き寄せると述べている。(使徒 10:34,35。啓 7:9,10ヨハ 6:44の注釈を参照。)この時,神殿で崇拝していた「ギリシャ人たち」がイエスに会いたがったことは注目に値する。(ヨハ 12:20の注釈を参照。)多くの翻訳者は,ギリシャ語パース(「皆」,「全ての[人]」)を,最終的に全ての人間がイエスに引き寄せられることを指すように訳している。しかし,この見方は聖書の他の部分と一致しない。(詩 145:20。マタ 7:13。ルカ 2:34。テサ二 1:9)ギリシャ語は字義的には「全て」,「皆」を意味するが(ロマ 5:12),マタ 5:11使徒 10:12は,その語には「全ての種類の」や「あらゆる」という意味もあることをはっきり示している。多くの翻訳は,これらの聖句で「あらゆる」,「あらゆる種類の」といった訳を使っている。(ヨハ 1:7。テモ一 2:4

預言者なら……言ってみろ。おまえを打ったのは誰か: 予言してみろではなく,誰が打ったのかを神の啓示によって当ててみろということ。並行記述のマル 14:65ルカ 22:64によれば,迫害者たちはイエスの顔を覆っていた。誰が打ったのかを当ててみろというのがあざけりだったことが分かる。

預言者なら言ってみろ!: 予言してみろではなく,神の啓示によって当ててみろということ。文脈によれば,迫害者たちはイエスの顔を覆っていた。そして,目隠しされたイエスに,誰が打ったのかを当ててみろと挑んでいた。マタ 26:68の注釈を参照。

長老: 直訳,「年長者」。聖書で,ギリシャ語プレスビュテロスは主に,国や共同体で権威や責任のある立場に就いている人を指す。年上の人を表すこともあるが(ルカ 15:25,使徒 2:17がその例),年配者に限られてはいない。ここでは,祭司長や律法学者とよく一緒に出てくる,ユダヤ国民の指導者を指す。サンヘドリンはこれら3つのグループの男性で構成されていた。(マタ 21:23; 26:3,47,57; 27:1,41; 28:12用語集参照。

終わりの時代に: ヨエルの預言を引用した時,ペテロは聖なる力に導かれて,もともとのヘブライ語とセプトゥアギンタ訳で使われている「その後」という表現ではなく,「終わりの時代に」という表現を使っている。(ヨエ 2:28 [3:1,LXX])ヨエルの預言は,ペンテコステの日に聖なる力が注がれた時に実現した。そしてここで「終わりの時代」という語をペテロが使っていることは,その特別な期間が始まっていたこと,またそれが「エホバの大いなる輝かしい日」に先立つものであることを示していた。この「エホバの……日」によって「終わりの時代」が終わったと思われる。(使徒 2:20)ペテロは生来のユダヤ人とユダヤ教への改宗者に話していたので,ペテロが聖なる力に導かれて語った言葉は,まずその人たちに関してその通りになったに違いない。その言葉は,エルサレムが崇拝の中心だった体制の「終わりの時代」にユダヤ人が生きていたことを示していたと思われる。イエスも以前,エルサレムと神殿の滅びについて予告した。(ルカ 19:41-44; 21:5,6)その滅びは西暦70年に起きた。

聖なる力: ここのギリシャ語プネウマは神の聖なる力を指す。ここで引用されているヨエ 2:28では,対応するヘブライ語ルーアハが使われている。ヘブライ語とギリシャ語のどちらの語も,人間の目には見えない何らかの力が働いていることを示すものという基本的な考えを伝えている。用語集の「プネウマ」参照。

あらゆる人: または,「全ての種類の人々」。直訳,「全ての肉」。ギリシャ語サルクス(「肉」とよく訳される)は,ここで生きている人を指して使われている。「全ての肉」は大抵,全人類を指す。(ヨハ 17:2の注釈を参照。)しかしこの文脈では,「全ての肉」に当たるギリシャ語は,より限定的な意味で使われている。神は聖なる力を地上の全ての人に注いだのでも,イスラエルの全ての人に注いだのでもない。それでいつも全ての人を指すわけではない。この表現はここで,区別なく全ての種類の人々を指す。神は,「息子や娘」,「若者」,「老人」,「男奴隷と女奴隷」,つまり全ての種類の人々に聖なる力を注いだ。(使徒 2:17,18)「全ての」に当たるギリシャ語(パース)は,テモ一 2:3,4でも同じように使われている。そこでは,神は「あらゆる人が救われ」ることを望んでいると書かれている。ヨハ 12:32の注釈を参照。

預言し: ギリシャ語プロフェーテウオーは,字義的には「はっきり話す」という意味。聖書では,神からのメッセージを知らせることに関して使われている。将来を予告するという考えを含むことも多いが,この語の基本的な意味は予言するということではない。このギリシャ語は,神の啓示によってある事柄を明らかにするということも指せる。(マタ 26:68,ルカ 22:64の注釈を参照。)この文脈では,人々は聖なる力に動かされて預言した。その人々は至高者の代弁者として,エホバがすでに行い,その後行う「偉大な働き」について広く知らせた。(使徒 2:11)「預言する」に当たるヘブライ語も似た考えを伝えている。例えば,出 7:1ではアロンがモーセの「預言者」と言われているが,それは将来を予告したという意味ではなく,モーセの代弁者になったという意味。

老人: または,「年長者」,「長老」。ここでギリシャ語プレスビュテロスは,この節で先に出てくる「若者」と対比して,年を取った人を指していると思われる。ほかの文脈では,同じ語が国や共同体で権威や責任のある立場に就いている人を指して使われている。(使徒 4:5; 11:30; 14:23; 15:2; 20:17マタ 16:21の注釈を参照。

不思議なこと: または,「前兆」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語テラスはいつもセーメイオン(「しるし」)と一緒に使われていて,どちらも複数形が使われている。(マタ 24:24。ヨハ 4:48。使徒 7:36; 14:3; 15:12。コ二 12:12)基本的にテラスは,畏れの気持ちを抱かせたり,驚嘆させたりするものを指す。この語が将来起きることの前兆となるものを指すことが明らかな場合,注釈に「前兆」という別の訳を挙げている。

エホバ: ここでの引用はヨエ 2:31から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。

エホバ: ここでの引用はヨエ 2:32から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。

ナザレ人: イエスを指す呼び名で,後には弟子たちもそのように呼ばれた。(使徒 24:5)イエスという名前のユダヤ人は大勢いたので,それぞれを識別する言葉を付けて呼ぶことがよくあった。人々を出身地と結び付けるのは聖書時代の習慣だった。(サ二 3:2,3; 17:27; 23:25-39。ナホ 1:1。使徒 13:1; 21:29)イエスは若い時代の大半をガリラヤのナザレの町で過ごしたので,イエスに関してこの語を使うのは自然なことだった。イエスは,さまざまな機会にいろいろな人から「ナザレ人」と呼ばれている。(マル 1:23,24; 10:46,47; 14:66-69; 16:5,6。ルカ 24:13-19。ヨハ 18:1-7)イエス自身もその呼び名を受け入れ,使った。(ヨハ 18:5-8。使徒 22:6-8)ピラトが苦しみの杭に掲げた板には,ヘブライ語,ラテン語,ギリシャ語で「ナザレ人イエス,ユダヤ人の王」と書かれていた。(ヨハ 19:19,20)西暦33年のペンテコステ以降,使徒や他の人たちはしばしばイエスのことをナザレ人またはナザレの人と言った。(使徒 2:22; 3:6; 4:10; 6:14; 10:38; 26:9マタ 2:23の注釈を参照。

不思議なこと: または,「前兆」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語テラスはいつもセーメイオン(「しるし」)と一緒に使われていて,どちらも複数形が使われている。(マタ 24:24。ヨハ 4:48。使徒 7:36; 14:3; 15:12。コ二 12:12)基本的にテラスは,畏れの気持ちを抱かせたり,驚嘆させたりするものを指す。この語が将来起きることの前兆となるものを指すことが明らかな場合,注釈に「前兆」という別の訳を挙げている。

ナザレ人: マル 10:47の注釈を参照。

不思議なこと: または,「前兆」。神がイエスに行わせた奇跡は,イエスが神から遣わされたことを証明するものだった。またこうした奇跡的な癒やしと復活は,イエスが将来大規模に行う事を前もって示すものだった。使徒 2:19の注釈を参照。

神の意志を全て: または,「神の目的(意向)全体を」。ここでは神が王国によって行おうとしていること全てを指している。それには救いに不可欠だと神が決めた全てのことが含まれる。(使徒 20:25)ギリシャ語ブーレーは,ルカ 7:30では「意向[または,「指示」,「導き」,脚注]」,ヘブ 6:17では「目的」と訳されている。

意志: または,「意向」。ギリシャ語ブーレーは,ルカ 7:30では「意向[または,「指示」,「導き」,脚注]」,ヘブ 6:17では「目的」と訳されている。使徒 20:27の注釈を参照。

死の苦しみ: 聖書は,死ぬと意識も痛みを感じることもなくなるとはっきり述べているが(詩 146:4。伝 9:5,10),ここでは,「死」が「苦しみ」や「痛み」を引き起こすと言っている。それは死がひどくてつらいこととして描かれているためと思われる。(サ一 15:32,脚注。詩 55:4。伝 7:26)実際,人は死ぬ前に大抵痛みを感じ(詩 73:4,5),さらに,死ぬと全く動けない束縛されたような状態になり,自由を奪われてしまう。(詩 6:5; 88:10)イエスは復活した時,恐らくこのような意味での「死の苦しみ」から解放され,死にとらわれたつらい状態から自由になった。ここで「苦しみ」と訳されているギリシャ語(オーディン)は,ほかの場所では陣痛を意味して使われているが(テサ一 5:3),一般的な痛み,苦しみ,苦難も指せる。(マタ 24:8)「死の苦しみ」という表現はセプトゥアギンタ訳サ二 22:6詩 18:4(17:5,LXX)に出てくるが,ヘブライ語のマソラ本文では「墓の綱」と「死の綱」となっている。興味深いことに,母音なしで書かれた古代のヘブライ語写本では,「綱」に当たる語(ヘベル)と「苦しみ」に当たるヘブライ語は同じ子音でつづられている。それで,セプトゥアギンタ訳で「苦しみ」という訳語が使われているのだろう。いずれにしても,「死の苦しみ」と「死の綱」という表現は,死がひどくてつらいことであるという,広く言えば同じような考えを伝えている。

エホバ: ここでの引用は詩 16:8から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。

そして: 直訳,「そして私の肉体は」。ペテロは,「ダビデはこの方についてこう言っています」と述べて,詩 16からの引用を始めた。「この方」とは,メシアつまりイエスのこと。(使徒 2:25)この節(使徒 2:26)と詩 16:9では,ギリシャ語でもヘブライ語でも「肉」に当たる語が使われていて,それは人の体やその人自身を指すことがある。イエスは贖いの犠牲として殺されることが分かっていたが,希望を持って生きた。イエスは,父が復活させてくれること,自分の犠牲が人類のための贖いとなること,自分の肉体が腐敗しないことを知っていた。(使徒 2:27,31

私: 詩 16:10からの引用であるこの部分で,ヘブライ語ネフェシュの訳としてギリシャ語プシュケーが使われている。詩編作者は,自分自身を指してネフェシュという語を使った。ペテロは,ペンテコステの日にキリストの復活についてユダヤ人に話した時,ダビデが書いたこの詩をイエスに当てはめた。(使徒 2:24,25)用語集の「プシュケー」と付録A2参照。

墓: または,「ハデス」。ギリシャ語ハーイデースは,恐らく「見えない場所」という意味で,ギリシャ語聖書に10回出ている。(マタ 11:23; 16:18,ルカ 10:15; 16:23,使徒 2:27,31,啓 1:18; 6:8; 20:13,14を参照。)この節で引用されている詩 16:10では対応するヘブライ語「シェオル」が使われていて,それも「墓」と訳されている。セプトゥアギンタ訳では,たいていヘブライ語「シェオル」に相当する語としてギリシャ語「ハデス」が使われている。聖書では,どちらの語も死んだ人たちが眠っている比喩的な場所を指す。個々の墓を指す原語の言葉はほかにある。ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の中には,ここで「シェオル」という語を使っているものがある。(付録C4のJ7,8,11,12,14-18,22付録A2参照。

あなたの前で: 直訳,「あなたの顔と共に」。詩 16:11を引用したギリシャ語本文は,ヘブライ語を字義通りに訳している。「……の顔と共に」というヘブライ語表現は,「……の前で」という意味の慣用句。

子孫の1人: ダビデは,自分の子孫の1人が創 3:15で約束されていた「子孫」つまりメシアになる,という約束をされた。(サ二 7:12,13。詩 89:3,4; 132:11)その約束はイエスに当てはまった。イエスの母も養父もダビデ王の子孫だった。「子孫」と訳されているギリシャ語の表現は,ヘブライ語の慣用句をそのまま取り入れたもので,その慣用句は直訳すると「腰の実」となる。人体にある腰という部分は生殖器を含む。(創 35:11,脚注。王一 8:19,脚注)「胎の実」も子孫を指す。ほかにも人間の生殖によって生み出されるものを「実」と表現した同様の言い回しがある。(創 30:2。申 7:13,脚注。詩 127:3。哀 2:20。ルカ 1:42

神: 入手できるギリシャ語写本は,ここで「神」に当たるテオスという語を使っている。注目できる点として,ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の中には,ここでテトラグラマトンを使っているものがある。(付録C4のJ7,8,10

墓: または,「ハデス」。ギリシャ語ハーイデースは,恐らく「見えない場所」という意味で,ギリシャ語聖書に10回出ている。(マタ 11:23; 16:18,ルカ 10:15; 16:23,使徒 2:27,31,啓 1:18; 6:8; 20:13,14を参照。)この節で引用されている詩 16:10では対応するヘブライ語「シェオル」が使われていて,それも「墓」と訳されている。セプトゥアギンタ訳では,たいていヘブライ語「シェオル」に相当する語としてギリシャ語「ハデス」が使われている。聖書では,どちらの語も死んだ人たちが眠っている比喩的な場所を指す。個々の墓を指す原語の言葉はほかにある。ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の中には,ここで「シェオル」という語を使っているものがある。(付録C4のJ7,8,11,12,14-18,22付録A2参照。

墓: または,「ハデス」。死んだ人たちが眠っている比喩的な場所のこと。使徒 2:27の注釈用語集を参照。

その体も腐敗しない: エホバは,イエスを予示していたモーセとダビデとは違って,イエスの体が朽ちて土になるようにはされなかった。(申 34:5,6。使徒 2:27; 13:35,36)イエスが「最後のアダム」(コ一 15:45),また全人類のための「対応する贖い」となるため(テモ一 2:5,6。マタ 20:28),イエスの体は本当の人間の肉体でなければならなかった。アダムが失ったものを買い戻す代価としてエホバ神に差し出すため,イエスの体は完全なものでなければならなかった。(ヘブ 9:14。ペ一 1:18,19)アダムの子孫である不完全な人たちは誰も,買い戻すのに必要な代価を払うことができなかった。(詩 49:7-9)それでイエスの母親は普通の仕方で妊娠したわけではなかった。実のところイエスは,恐らくバプテスマの際に自分を差し出した時,父に「あなた[エホバ]は……私に体を与えてくださいました」と言った。これは,犠牲として差し出すイエスの完全な体のこと。(ヘブ 10:5)弟子たちが墓に行った時,イエスの体はなくなっていたが,体を包んでいた亜麻布が残っていた。エホバは,愛する子の肉体を朽ち始める前に処分したと思われる。(ルカ 24:3-6。ヨハ 20:2-9

エホバ: ここで引用されている詩 110:1の元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。しかし,付録A5で説明されているように,ほとんどの聖書翻訳は,一般に新約聖書と呼ばれる部分で,ヘブライ語聖書からの引用の中でさえ,神の名前を使っていない。とはいえ,注目できる点として,「ジェームズ王欽定訳」(英語)の17世紀の幾つかの版は,ここと,ギリシャ語聖書で詩 110:1が引用されている他の3カ所で,大文字と小型の大文字でつづったLORDという訳語を使っている。(マタ 22:44。マル 12:36。ルカ 20:42)その後の版もその形を引き継いだ。欽定訳のヘブライ語聖書では,元のヘブライ語本文で神の名前が使われている箇所でLORDが使われているので,翻訳者たちがギリシャ語聖書でLORDと書いたのは,そこでエホバのことが言われていると考えていたということだろう。さらに注目できる点として,1979年に初版が出た「新ジェームズ王欽定訳」はこの用法を推し進め,ヘブライ語聖書からの引用で神の名前を指す語がある全ての箇所でLORDを使っている。付録C参照。

杭に掛けられて: ギリシャ語聖書にギリシャ語動詞スタウロオーは40回以上出てくるが,ここはその最初の箇所。「苦しみの杭」と訳されるギリシャ語名詞スタウロスの動詞形。(マタ 10:38; 16:24; 27:32の注釈と,用語集の「」,「苦しみの杭」を参照。)この動詞は,セプトゥアギンタ訳のエス 7:9で,ハマンを高さ20メートルの杭に掛けるようにとの命令で使われている。古典ギリシャ語で,この動詞は「杭で柵を巡らす」,「とがった杭で防御柵を作る」を意味した。

杭に掛けて処刑した: または,「杭(棒)に留めた」。マタ 20:19の注釈と,用語集の「」,「苦しみの杭」を参照。

悔い改めを象徴するバプテスマ: 直訳,「悔い改めのバプテスマ」。バプテスマは罪を洗い去るものではなかった。ヨハネによるバプテスマを受ける人は律法に対する罪を人の前で悔い改め,行いを改める決意を示した。そのような悔い改めによってキリストに導かれることになった。(ガラ 3:24)こうしてヨハネは,人々が神の用意した「救い」を見られるよう整えていた。(ルカ 3:3-6マタ 3:2,8,11の注釈と,用語集の「バプテスマ」,「悔い改め」を参照。

悔い改めていることを示す行動: ヨハネの言葉を聞く人たちが考えや態度を変えたことを示す証拠や行動を指す。(ルカ 3:8。使徒 26:20マタ 3:2,11の注釈と用語集の「悔い改め」を参照。

悔い改めた: または,「考えを変えた」。マタ 3:2,8の注釈用語集を参照。

悔い改めなさい: ここで使われているギリシャ語メタノエオーは「考えを変える」と直訳することもでき,考え・態度・目的の変化を意味する。バプテストのヨハネは以前,「罪の許しのための悔い改めを象徴するバプテスマについて伝道した」。(マル 1:4の注釈を参照。)このバプテスマには,モーセの律法の教えに従わず,大きくそれていたことへの悔い改めが必要だった。その悔い改めによって,神の民はその後のことに備えることができた。(マル 1:2-4)しかしペテロはここで,マタ 28:19のイエスの命令に沿って,神の民は悔い改めて罪の許しのためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受ける必要があると指摘した。ユダヤ人はメシアであるイエスを退けたため,悔い改めてイエスに信仰を抱くことが,神に許しを求め,許していただく上でどうしても必要になった。その人たちは,イエス・キリストの名によって水に浸されることにより,そのような信仰を人々の前ではっきり示した。それはキリストを通して神に献身したことを象徴するものとなった。マタ 3:8,11の注釈用語集を参照。

エホバ: 入手できるギリシャ語写本はここで「主」という語(ギリシャ語キュリオス)を使っている。しかし,付録Cで説明されているように,もともとこの節で神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられた,と考えられる幾つもの理由がある。そのため,ここの本文でエホバという名前を使っている。使徒 2:33-38から分かるように,この節でペテロが述べた約束とは,聖なる力が注がれることについてヨエ 2:28-32で書かれている約束のこと。それで,エホバ神が招く全ての人にという表現は,ヨエ 2:32の最後の言葉に基づいているようだ。ヨエ 2:32のヘブライ語本文では,神の名前が3回使われていて,エホバが呼び寄せることがはっきり述べられている。付録C3の序文と使徒 2:39を参照。

人: ギリシャ語プシュケーは,ここで生きている人を指す。用語集の「プシュケー」参照。

食事をする: 直訳,「パンを割る」。パンは古代中東で主要な食物だったので,この表現はどんな食事も指すようになった。パンは普通,平たい形で固く焼かれたので,ナイフで切るより割ることの方が多かった。それで,パンは割って食べるのが習慣だった。イエスもよくそうした。(マタ 14:19の注釈を参照。マタ 15:36,ルカ 24:30も参照。)イエスは主の晩餐を制定した時,パンを取って割った。それがパンを分ける普通の方法だったので,イエスがパンを割ったことに深い意味はない。(マタ 26:26の注釈を参照。)この表現が「使徒の活動」に出てくる幾つかの箇所では主の晩餐が行われていたと主張する人がいる。(使徒 2:42,46; 20:7,11)しかし,主の晩餐のことが述べられるときにはいつも,パンを割ることが杯からぶどう酒を飲むことと結び付けられている。(マタ 26:26-28。マル 14:22-25。ルカ 22:19,20。コ一 10:16-21; 11:23-26)その2つとも同じくらい重要だった。それで,杯から飲むことが言及されずにパンを割ることが述べられている場合,それは主の晩餐ではなく普通の食事のことを言っている。さらに,年に1度だけ行われた過ぎ越しの祭りに取って代わったイエスの死の記念式がもっと頻繁に行われるべきだとイエスが考えていたことを示す証拠はない。

交友を深め: または,「互いに分け合い」。ギリシャ語コイノーニアの基本的な意味は,「分け合うこと」,「交友」。パウロはこの語を何度か手紙の中で使った。(コ一 1:9; 10:16。コ二 6:14; 13:14)文脈から,この交友が単なる知り合いではなく,親しい友人の間のものであることが分かる。

食事を取り: 直訳,「パンを割り」。使徒 20:7の注釈を参照。

不思議なこと: または,「前兆」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語テラスはいつもセーメイオン(「しるし」)と一緒に使われていて,どちらも複数形が使われている。(マタ 24:24。ヨハ 4:48。使徒 7:36; 14:3; 15:12。コ二 12:12)基本的にテラスは,畏れの気持ちを抱かせたり,驚嘆させたりするものを指す。この語が将来起きることの前兆となるものを指すことが明らかな場合,注釈に「前兆」という別の訳を挙げている。

人: ギリシャ語プシュケーは,ここで生きている人を指す。用語集の「プシュケー」参照。

不思議なこと: または,「前兆」。使徒 2:19の注釈を参照。

家から家へと: この表現は,ギリシャ語カト オイコンを訳したもので,字義通りには「家ごとに」となる。幾つかの辞典と注釈者によると,ギリシャ語の前置詞カタは配分的な意味で理解できる。例えば,ある辞典には,この表現について「連続的に見られる場所,配分的な用法,……家から家へ」を指すと述べられている。(「新約聖書・初期キリスト教文献希英辞典」,第3版)別の参考文献には,前置詞カタは「配分的(使徒 2:46; 5:42……家から家/[各]家……)」と述べられている。(「新約聖書釈義辞典」[英語],ホルスト・バルツ,ゲルハルト・シュナイダー共編)聖書学者のR・C・H・レンスキは次のように述べている。「使徒たちは一瞬といえ,その祝福された業をやめることはなかった。彼らは『毎日』それを行ない,しかもそれを,サンヘドリンや神殿警察が見聞きできる『神殿で』公然と,そして言うまでもなく,κατ' οἴκον[カト オイコン]にも行なった。これは配分的な,『家から家へ』の意味であって,単に副詞的な,『家で』の意味ではない」。(「使徒行伝の注釈」[英語],1961年)これらの資料は,弟子たちの伝道が,ある家から別の家に配分的に行われたという考えを支持している。カタはルカ 8:1でも同じように使われていて,イエスが「町から町へ,村から村へ」伝道したと述べられている。人々の家に直接行って会うというこの方法は,素晴らしい結果をもたらした。(使徒 6:7。使徒 4:16,17; 5:28と比較。)

家から家へと: または,「家々で」。文脈から,パウロが「神に対する悔い改めと私たちの主イエスへの信仰について」教えるために,この人たちの家を訪ねたことが分かる。(使徒 20:21)それで,信者になった仲間のクリスチャンを励ます社交的な訪問のことだけを述べていたのではない。仲間の信者はすでに悔い改めてイエスへの信仰を抱いていた。「新約聖書の絵画的描写」(英語)という本の中で,A・T・ロバートソン博士は使徒 20:20についてこう述べている。「伝道者の中で最も偉大なこの人が,家から家に伝道し,自分の訪問を単なる社交的なものにしなかったことは注目に値する」。(1930年,第3巻349-350ページ)また,「使徒行伝 注釈付き」(英語,1844年)という本の中で,アビエル・アボット・リバーモアは使徒 20:20のパウロの言葉についてこう述べている。「彼は,公の集会で話をするだけ……には満足せず,個人的に,家から家で,自分の大きな業を熱心に追い求め,天の真理を文字通り家庭に携えて行き,それをエフェソス人の炉端と心へ伝えた」。(270ページ)カト オイクース(直訳,「家ごとに」)というギリシャ語表現については,使徒 5:42の注釈を参照。

互いの家で: または,「家から家へと」。ここでカト オイコン(直訳,「家ごとに」)というギリシャ語表現で使われている前置詞カタは,配分的な意味で理解できる。助け合う必要が生じたこの時,弟子たちはエルサレムやその周りに住んでいる仲間の信者たちの家々で会い,食べ物を分け合ったと思われる。使徒 5:42,20:20の注釈を参照。

エホバ: 入手できるギリシャ語写本はここで「主」という語(ギリシャ語,ホ キュリオス)を使っている。しかし,付録Cで説明されているように,もともとこの節で神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられた,と考えられる幾つかの理由がある。そのため,ここの本文でエホバという名前を使っている。付録C3の序文と使徒 2:47を参照。

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ギリシャ語を話すユダヤ人に向けたテオドトス碑文
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縦42センチ,横72センチの石灰岩の板に刻まれたこの写真の文章は,テオドトス碑文として知られている。20世紀初め,エルサレムのオフェルの丘で発見された。「律法の朗読のため,またおきてを教えるための会堂……を建て」た祭司テオドトスについてギリシャ語で書かれている。この碑文は西暦70年のエルサレムの滅びより前のものとされている。西暦1世紀,ギリシャ語を話すユダヤ人がエルサレムにいたことを裏付けている。(使徒 6:1)この会堂を「いわゆる『自由民の会堂』」と考える人もいる。(使徒 6:9)この碑文によれば,テオドトスとその父親と祖父はアルキシュナゴーゴス(「会堂の役員」)と呼ばれていた。この称号はギリシャ語聖書で何度も使われている。(マル 5:35。ルカ 8:49。使徒 13:15; 18:8,17)この碑文は,テオドトスが外国から来る人のための宿舎を建てたことも述べている。その宿は,エルサレムを訪れるユダヤ人,特に毎年の祭りの時期に来る人たちが使っただろう。(使徒 2:5

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西暦33年のペンテコステの日,「エルサレムには……ユダヤ人が世界のあらゆる国から来ていた」。(使徒 2:5)キリストの弟子たちは聖なる力を注がれた後,奇跡によって,エルサレムに来ていたユダヤ人のさまざまな言語で話すことができた。(使徒 2:4,8)人々は良い知らせを自分たちの母語で聞いて驚いた。使徒 2:9-11から分かるように,その人たちは15の地域から来ていた。信者になった多くの人たちは,良い知らせを地元に持ち帰ったに違いない。それらの地域はこの地図で,使徒 2:9-11に挙げられている順に番号が振られている。(使徒 2:41,44,47