ローマ​の​クリスチャン​へ​の​手紙 1:1-32

1  キリスト・イエスのれいであり,まねかれて使となり,かみらせのためにえらされたパウロから+  (そのらせは,かみげんしゃたちをとおしてせいしょなかこくしていたもので+  かみかんするものです。そのかたは,ダビデのそんからにんげんとして+まれました+  そしてふっかつさせられたとき+かみであることがせいなるちからによってしめされました+。このかたわたしたちのしゅイエス・キリストです。  わたしたちはキリストをとおしてしみないしんせつけ,使とされました+すべてのくにひとびとしんこうによってじゅうじゅんになり+,そのかたをたたえるようになるためです。  すべてのくになかから,みなさんもまねかれ,イエス・キリストのものとなりました。)  まねかれてせいなるひととなり+かみあいされている,ローマのみなさんへ。 わたしたちのちちであるかみと,しゅイエス・キリストから,みなさんにしみないしんせつしめされ,へいあたえられますように。  はじめに,みなさんについて,イエス・キリストをとおしてかみかんしゃします。みなさんのしんこうのことがかいじゅうかたられているからです。  わたしかみについてのらせをひろめ,こころめてかみしんせいほうをしています。そのかみしょうにんとなってくださることですが,わたしはいつもみなさんについていのっています+ 10  こんこそみなさんのところかせてくださるよう,かみこんがんしています。 11  みなさんにうことをこころからねがっています。かみからのおくものあたえて,みなさんをちからづけるためです。 12  いえ,むしろ,みなさんのしんこうわたししんこうによってはげましうためです+ 13  きょうだいたち,わたしなんもそちらにこうとしたことをらずにいてほしくありません。ほかのくにひとびとところだけでなく,みなさんのところでもせいたいとおもったのですが,いままでさまたげられてきました。 14  わたしには,ギリシャじんにもがいこくじんにも,かしこひとにもがくひとにも,たすべきせきにんがあります+ 15  それで,ローマにいるみなさんにも,ぜひらせをつたえたいのです+ 16  わたしらせをじてはいません+。そのらせは,しんこうすべてのひとにとって+,ユダヤじんをはじめ+ギリシャじんにとっても+すくいのためのかみちからなのです+ 17  しんこうがあるなら,そのらせによってかみただしさ*あきらかにされているのがかり+しんこうがいっそうつよめられます。「ただしいひとしんこうのゆえにきる+」とかれているとおりです。 18  しんせいおおかくしているひとびと+の,かみへのけいとあらゆるせいたいして,かみてんからいきどお+あらわしています。 19  かみについてことがらは,かれらにもはっきりしめされているからです。それをしめしたのはかみです+ 20  かみえないせいしつは,かいそうぞうらいあきらかです。つくられたものれば+かみえいえんちからっていて+たしかにかみであるということがかります+。ですから,かれらはわけができません+ 21  かれらはかみりながら,そのかたかみとしてたたえることもかんしゃすることもしませんでした。ろんてきかんがえようとせず,かんかくこころくらくなりました+ 22  ぶんかしこいとしゅちょうしていましたが,おろかなひととなり, 23  ちないかみわりにぞうをたたえました。ちるにんげんとりあしものちゅうるい*ぞうをです+ 24  そのため,かみかれらがこころよくぼうしたがうままにしました。かれらは,たがいにけがれたことをおこなってぶんからだはずかしめました。 25  かみしんわりにいつわりをしんじ,そうぞうしたかたではなくそうぞうされたものすうはい*してそれにしんせいほうをしました。えいえんさんされるべきなのはそうぞうしたかたです。アーメン。 26  それで,かみかれらがずべきせいよくおぼれるままにしました+じょせいぜんはんしてじょせいどうかんけい+ 27  だんせいじょせいぜんかんけいわりにだんせいどうよくじょうはげしくやし+,みだらなことをおこなってじゅうぶんばつけました。あやまちにたいしてとうぜんばつです+ 28  かれらがかみみとめようとしなかった*ため,かみかれらがらくした*かんがかたをしててきせつことがらおこなうにまかせました+ 29  かれらは,あらゆるせい+じゃあくどんよく+あくち,ねたみ+さつ+あらそい,あざむ+あく+にあふれ,うわさばなしをし, 30  かげぐちをたたき+かみにくみ,おうへいで,ごうまんで,まんばかりし,あくをたくらみ,おやじゅうじゅん+ 31  かいりょくがなく+ごうしたことをまもらず,ぜんあいじょうたず,あわれみがありませんでした。 32  かれらは,こうしたことがらしゅうかんにするひとあたいする+という,かみただしいていじゅうぶんっているにもかかわらず,そのようなことをおこなつづけます。それだけでなく,それをしゅうかんにしているひとたちをこうていしています。

脚注

または,「神から見て正しいこと」。
または,「地面を動く生き物」。
または,「崇敬」。
または,「神に認められない」。
または,「神を正確に知ることに価値があると考えなかった」。直訳,「正確な知識によって神を持つことを良いと認めなかった」。

注釈

ローマのクリスチャンへの手紙: このような書名は原文にはなかったと思われる。後に書名が付け加えられたのは,各書をはっきり識別するためだっただろう。「ローマ人へ」という書名が載せられた現存する写本としては,西暦4世紀のバチカン写本とシナイ写本,5世紀のアレクサンドリア写本とシリア・エフラエム重記写本などがある。パウロの手紙9通を収めた最初期のものとして知られるパピルス写本(P46)にはローマの手紙の最初の部分が含まれていない。しかし,他の8通の手紙には書名があるので,ローマの手紙にも書名があったと思われる。このパピルス写本はたいてい西暦200年ごろのものとされていて,写本家たちが早い時期から聖書の各書を書名で呼んでいた証拠となっている。

キリスト・イエスの奴隷: 「奴隷」と訳されるギリシャ語ドゥーロスは一般的に,他の人に所有される人を指す。買われて奴隷になることがよくあった。(マタ 8:9; 10:24,25; 13:27)この語は,神とイエス・キリストに献身的に仕える者を指して比喩的にも使われる。(使徒 2:18; 4:29。ガラ 1:10。啓 19:10)イエスは贖いの犠牲として自分の命を差し出し,クリスチャン全ての命を買った。それで,クリスチャンは自分自身のものではなく,自分を「キリストの奴隷」と考える。(エフ 6:6。コ一 6:19,20; 7:23。ガラ 3:13)会衆に助言を与えたギリシャ語聖書の手紙の筆者は皆,主であり主人であるキリストに従うしるしとして,自分について「キリストの奴隷」といった表現を少なくとも1度使っている。(ロマ 1:1。ガラ 1:10。ヤコ 1:1。ペ二 1:1。ユダ 1。啓 1:1

使徒: ギリシャ語名詞アポストロスは,「遣わす」という意味の動詞アポステッローに由来。(マタ 10:5。ルカ 11:49; 14:32)その基本的な意味をはっきり示しているのはヨハ 13:16のイエスの言葉で,そこでは「遣わされた人」と訳されている。パウロは復活したイエス・キリストに直接選ばれ,招かれて異国の人々つまりユダヤ人でない人たちへの使徒となった。使徒 9:1-22; 22:6-21; 26:12-23)パウロは,復活した主イエス・キリストを見たこと(コ一 9:1,2)や奇跡を行ったこと(コ二 12:12)を挙げて,自分が使徒であることをはっきり述べた。バプテスマを受けた信者に聖なる力を与える経路となったことも,パウロが本当の使徒である証拠となっている。(使徒 19:5,6)パウロは自分が使徒であることを何度も述べたが,自分を「12人」に含めたことはない。(コ一 15:5,8-10。ロマ 11:13。ガラ 2:6-9。テモ二 1:1,11

選び出された: 「分ける」という意味のギリシャ語アフォリゾーはここで,誰かを特定の目的のために選び出すあるいは任命するという意味で使われている。パウロはここで神の良い知らせを広める割り当てについて述べている。これは神の王国とイエス・キリストに対する信仰による救いについてのメッセージ。(ルカ 4:18,43。使徒 5:42。啓 14:6)パウロはローマの手紙の中で,「神の子についての良い知らせ」(ロマ 1:9),「神の良い知らせ」(ロマ 15:16),「キリストについての良い知らせ」(ロマ 15:19)といった表現を使っている。

パウロから: 7節まで続くパウロの書き出しは,古代の手紙の一般的な形式に沿っている。たいてい差出人と受取人の名前の後にあいさつが続いた。(ロマ 1:7)自分が神に招かれていることや伝えているメッセージについて述べたパウロの書き出しは,いつになく長い(ギリシャ語では1節から7節に及ぶ長い1文)。これについては,ローマの多くのクリスチャンはパウロを知っていたが,パウロはそこの会衆を訪れたことがなかったからだという見方もある。(使徒 15:23; 23:26の注釈と比較。)パウロは聖書に最初に出てくる時,ヘブライ語名でサウロと呼ばれているが,使徒 13:9以降はローマ名(パウロス,よくあるラテン語名パウルスのギリシャ語形)で呼ばれている。パウロは,そもそも名前の出てこないヘブライ人の手紙を除いて,どの手紙でも自分のことをパウロと言っている。その方がユダヤ人でない人にとって受け入れやすいと思ったのかもしれない。パウロはその人たちに「異国の人々への使徒」として良い知らせを広める任務を与えられていた。(ロマ 11:13。使徒 9:15。ガラ 2:7,8使徒 7:58; 13:9の注釈を参照。

パウロ: ギリシャ語聖書の原文で,「小さい」,「小さな」を意味するラテン語パウルスに由来するパウロスという名前が,使徒パウロについて157回,キプロスの執政官代理セルギオ・パウロについて1回使われている。(使徒 13:7

サウロ: 「[神に]求めた」,「[神に]伺った」という意味。パウロというローマ名でも知られたサウロは,「ベニヤミン族の者,ヘブライ人から生まれたヘブライ人」だった。(フィリ 3:5)サウロは生まれながらのローマ市民だったので(使徒 22:28),ユダヤ人の両親はパウルスつまりパウロ(「小さい」,「小さな」という意味)というローマ名を付けたのだろう。子供の頃から両方の名前を持っていたと思われる。両親がサウロと名付けたことには,幾つかの理由が考えられる。イスラエル全体の最初の王はベニヤミン族のサウルという人だったので,サウロという名前はベニヤミン族の間で由緒ある名前だった。(サ一 9:2; 10:1。使徒 13:21)または,両親は名前の意味を考えてそう名付けたのかもしれない。別の可能性として,父親の名前がサウロで,慣習に従って父親の名前を息子に付けたのかもしれない。(ルカ 1:59と比較。)いずれにしても,ユダヤ人といる間,特にパリサイ派の教育を受けてパリサイ派として活動していた時は,サウロというヘブライ語名を使っただろう。(使徒 22:3)クリスチャンになってから10年以上,おもにヘブライ語名で知られていたようだ。(使徒 11:25,30; 12:25; 13:1,2,9

あいさつを送ります: ギリシャ語カイローは,字義的には「喜ぶ」という意味で,ここであいさつとして使われていて,「あなたにとって物事が良い状態でありますように」という考えを伝えている。会衆に送られた割礼に関するこの手紙の書き出しは,古代の一般的な手紙の書き方に沿っている。まず差出人,次に受取人,そして一般的なあいさつが続いた。(使徒 23:26の注釈を参照。)ギリシャ語聖書の全ての手紙のうち,ヤコブの手紙だけが1世紀の統治体からのこの手紙と同じ仕方でギリシャ語カイローをあいさつとして使っている。(ヤコ 1:1)弟子ヤコブはこの手紙の作成に関わった。これは,ヤコブの手紙を書いたヤコブと使徒 15章に記録されている集まりで重要な役割を果たした人が同じ人であることの裏付けとなっている。

クラウディウス・ルシアスから,総督フェリクス閣下へ。ごあいさつ申し上げます: これは古代の手紙の一般的な書き出し。まず差出人,次に受取人,そして一般的なあいさつが続いた。そこで使われているギリシャ語カイローは,字義的には「喜ぶ」という意味で,「あなたにとって物事が良い状態でありますように」という考えを伝えた。聖書以外のパピルスの手紙に普通に出てくる。この文脈でこのギリシャ語を「ごあいさつ申し上げます」と訳すのは適切。似たような手紙の書き出しが使徒 15:23ヤコ 1:1に見られる。使徒 15:23の注釈を参照。

パウロとも呼ばれるサウロ: この時以降,サウロはパウロと呼ばれている。この使徒はローマ市民権を持つヘブライ人として生まれた。(使徒 22:27,28。フィリ 3:5)それで子供の時から,サウロというヘブライ語名とパウロというローマ名を持っていたと思われる。当時のユダヤ人,とりわけイスラエルの外に住んでいた人たちが2つの名前を持つのは珍しいことではなかった。(使徒 12:12; 13:1)パウロの同族の中にも,ローマ名やギリシャ語名を持つ人たちがいた。(ロマ 16:7,21)パウロは「異国の人々への使徒」として,ユダヤ人でない人に良い知らせを広める任務を与えられていた。(ロマ 11:13)パウロはローマ名を使うことにしたようだが,それはローマ名の方が受け入れられやすいと感じたからかもしれない。(使徒 9:15。ガラ 2:7,8)セルギオ・パウロに敬意を表してローマ名を使ったという意見もあるが,キプロスを離れた後もローマ名を使っているので,そうとは考えにくい。また,ヘブライ語名サウロをギリシャ語式に発音すると,ふんぞり返って歩く人(または動物)を指すギリシャ語に似ているので,ヘブライ語名を使わなかったという意見もある。使徒 7:58の注釈を参照。

律法の中に: ここでは,モーセの律法だけでなくヘブライ語聖書全体を指している。続く引用は詩 82:6から取られている。ヨハ 12:34; 15:25でも,「律法」は同じ意味で使われている。

聖書: ここではヘブライ語聖書のことを指す。聖書のこの部分は,ギリシャ語聖書で「聖なる書物」とも言われている。(テモ二 3:15,16)「律法」(ヨハ 10:34; 12:34; 15:25。コ一 14:21)や「律法と預言者」(マタ 7:12。ルカ 16:16)という語も,広い意味でヘブライ語聖書全体を指して使われることがある。(マタ 22:40マタ 5:17,ヨハ 10:34の注釈を参照。

律法……預言者: 「律法」は聖書の創世記から申命記までの書,「預言者」はヘブライ語聖書の預言書を指す。とはいえ,これらの語が一緒に使われる時,それはヘブライ語聖書全体を意味する場合がある。(マタ 7:12; 22:40。ルカ 16:16

子孫: または,「子孫たち」。直訳,「種」。付録A2参照。

人間として: 直訳,「肉によって」。「肉」に当たるギリシャ語(サルクス)はここで,地上での親族関係や家系,つまりイエスの人間としての家系を指している。マリアはユダ族で,ダビデの子孫だった。それでマリアの息子イエスについて,ダビデの子孫から人間として生まれましたと言えた。マリアが母親だったので,イエスは「ダビデの根また子孫」として「父ダビデの王座」につく生来の権利を持っていた。(啓 22:16。ルカ 1:32)やはりダビデの子孫であるヨセフが養父だったので,イエスはダビデの王座につく法的権利を持っていた。(マタ 1:1-16。使徒 13:22,23。テモ二 2:8。啓 5:5

これは私の……子: イエスは天にいた時,神の子だった。(ヨハ 3:16)また,人間として生まれた時から,完全なアダムと同じように「神の子」だった。(ルカ 1:35; 3:38)とはいえ,ここの神の言葉は単にイエスが誰であるかを述べているのではないと考えられる。神は,聖なる力を注ぐことに伴うこの宣言によって,人間イエスが新しい意味でご自分の子となったことを示したようだ。イエスは天での命に戻る見込みを持つ者として「再び生まれ」,神の任命された王また大祭司となるよう聖なる力によって選ばれたのである。(ヨハ 3:3-6; 6:51。ルカ 1:31-33,ヘブ 2:17; 5:1,4-10; 7:1-3と比較。)

聖なる力: または,「神聖さの力」。「聖なる力」と訳されているギリシャ語の表現は,詩 51:11イザ 63:10,11で「聖なる力」(または,「神聖さの力」)と訳されているヘブライ語の表現と似た構造になっている。エホバの聖なる力つまり送り出す力は,エホバによって統御され,常にエホバの目的を成し遂げる。それは清く,純粋で,神聖であり,神が使うために取り分けられている。

示されました: または,「宣言されました」,「確立されました」。パウロはここで,復活によってイエスが神の子であることが示されたと述べている。使徒 13:33では,詩 2:7に書かれていることがイエスの復活によって実現したと説明している。詩編の聖句は,イエスがバプテスマを受け,天の父が「これは私の……子」と宣言した時にも実現した。マタ 3:17の注釈を参照。

私たち: または,「私」。パウロはここで,古代の著述家がそうしたように,自分一人のことを指して「私たち」と述べているようだ。パウロは使徒とされたと述べ,異国の人々への使徒という特殊な割り当てについて論じている。また手紙の差出人として自分のことしか述べておらず(ロマ 1:1),ロマ 1:8-16では一人称単数(「私」)を使っている。それで,文法的に「私たち」は他の人を含むことがあるが,パウロは自分のことを述べていて他の人については述べていないと結論できると思われる。

聖なる人: ギリシャ語聖書ではしばしば,会衆にいるキリストの兄弟たちが「聖なる人たち」と呼ばれている。(使徒 9:13; 26:10。ロマ 12:13。コ二 1:1; 13:13)この語は,「永遠の契約の血」つまりイエスの流した血により新しい契約によって神との関係に入った人々に当てはまる。(ヘブ 10:29; 13:20)そのようにして,神聖にされ,清められ,神によって「聖なる人」とされる。神は,その人たちが地上で神聖な歩みを始めた時から,この聖なる状態にあると見ている。その人たちが死んだ後ではない。それで,個人や組織が人々を「聖なる人」または「聖人」(そう訳している聖書翻訳もある)と宣言する根拠は聖書にない。ペテロは,神は聖なる方なので,その人たちも「聖なる人でなければならない」と述べている。(ペ一 1:15,16。レビ 20:7,26)「聖なる人」という語は,キリストと結ばれ,その共同相続人になった人全てに当てはまる。キリストの弟子たちがこう呼ばれる500年以上前に,神は「至上者の聖なる者たち」と呼ばれる人たちがキリストと共に王国を治めることを明らかにした。(ダニ 7:13,14,18,27

ローマの皆さん: ローマの町にいるクリスチャンのこと。西暦33年のペンテコステの日には,「ローマから来て滞在している……ユダヤ人や改宗者」がいて,聖なる力が注がれた結果を目撃した。その時にバプテスマを受けた3000人の中に,ローマから来た人もいたに違いない。(使徒 2:1,10,41)その人たちがローマに戻って,熱心なクリスチャン会衆を形成したと思われる。その信仰のことが「世界中で語られている」と使徒パウロは言った。(ロマ 1:8)1世紀に生まれたローマの歴史家のタキトゥス(「年代記」,XV,XLIV)とスエトニウス(「皇帝列伝」,ネロ,XVI,2)も,ローマのクリスチャンに言及している。

皆さんに惜しみない親切が示され,平和が与えられますように: パウロは11通の手紙でこのあいさつを使った。(コ一 1:3。コ二 1:2。ガラ 1:3。エフ 1:2。フィリ 1:2。コロ 1:2。テサ一 1:1。テサ二 1:2。テト 1:4。フィレ 3)テモテへの手紙でもよく似たあいさつを使っているが,「憐れみ」という性質を加えている。(テモ一 1:2。テモ二 1:2)学者たちが注目しているように,パウロは「あいさつを送ります」に当たる一般的な語(カイレイン)の代わりに,似た音のギリシャ語(カリス)をしばしば使い,会衆が「惜しみない親切」を十分に受けてほしいという願いを言い表した。(使徒 15:23の注釈を参照。)「平和」について述べているのは,ヘブライ語の一般的なあいさつシャーロームの影響。(マル 5:34の注釈を参照。)パウロは「惜しみない親切」と「平和」という語を使い,クリスチャンが贖いによって再び持てるようになったエホバ神との関係を強調していると思われる。パウロは,惜しみない親切と平和がどこから来ているかについて,主イエス・キリストと別に私たちの父である神を挙げた。

惜しみない親切: パウロは14通の手紙の中で,「惜しみない親切」(ギリシャ語カリス)について90回ほど述べている。これは他のどの聖書筆者よりもはるかに多い。例えば,ヘブライ人の手紙を除くどの手紙の冒頭のあいさつの中でも,神もしくはイエスの惜しみない親切について述べていて,全ての手紙の結びの言葉の中でその表現を使っている。他の聖書筆者たちも冒頭や結びで同じように「惜しみない親切」について述べている。(ペ一 1:2。ペ二 1:2; 3:18。ヨ二 3。啓 1:4; 22:21使徒 13:43の注釈用語集を参照。

神の惜しみない親切: パウロはイエスと弟子たちに抵抗した過去があったので(使徒 9:3-5),エホバの惜しみない親切を強調したのももっともなことだった。(用語集の「惜しみない親切」参照。)パウロは,自分が宣教を行えるのは,ひとえに神の惜しみない親切のおかげであることを理解していた。(コ一 15:10。テモ一 1:13,14)エフェソスの長老たちと会った時,この親切のことを2回述べている。(使徒 20:24,32)パウロは14通の手紙の中で,「惜しみない親切」について90回ほど述べている。これは他のどの聖書筆者よりもはるかに多い。例えば,「ヘブライ人のクリスチャンへの手紙」を除くどの手紙の冒頭のあいさつの中でも,神もしくはイエスの惜しみない親切について述べていて,全ての手紙の結びの言葉の中でその表現を使っている。

あいさつを送ります: ギリシャ語カイローは,字義的には「喜ぶ」という意味で,ここであいさつとして使われていて,「あなたにとって物事が良い状態でありますように」という考えを伝えている。会衆に送られた割礼に関するこの手紙の書き出しは,古代の一般的な手紙の書き方に沿っている。まず差出人,次に受取人,そして一般的なあいさつが続いた。(使徒 23:26の注釈を参照。)ギリシャ語聖書の全ての手紙のうち,ヤコブの手紙だけが1世紀の統治体からのこの手紙と同じ仕方でギリシャ語カイローをあいさつとして使っている。(ヤコ 1:1)弟子ヤコブはこの手紙の作成に関わった。これは,ヤコブの手紙を書いたヤコブと使徒 15章に記録されている集まりで重要な役割を果たした人が同じ人であることの裏付けとなっている。

安心して暮らしなさい: 直訳,「平和のうちに行きなさい」。この慣用表現はギリシャ語聖書でもヘブライ語聖書でも,「あなたにとって事がうまく運びますように」という意味でよく使われている。(ルカ 7:50; 8:48。ヤコ 2:16。サ一 1:17; 20:42; 25:35; 29:7,サ二 15:9,王二 5:19と比較。)しばしば「平和」と訳されるヘブライ語(シャーローム)は広い意味を持つ語で,戦争や騒乱がないことを指し(裁 4:17。サ一 7:14。伝 3:8),健康や安全(サ一 25:6,脚注。代二 15:5,脚注。ヨブ 5:24,脚注),福祉(エス 10:3),友情(詩 41:9)という考えを伝えることもある。ギリシャ語聖書で,「平和」に当たるギリシャ語(エイレーネー)もヘブライ語の場合と同じく広い意味合いで使われていて,争いがない状況だけでなく,健康,救い,調和という考えを表現している。

心を込めて: ここでギリシャ語プネウマが使われている。その語はこの文脈で,心から生じて人を駆り立て,ある特定の仕方で語らせたり行動させたりする力を指していると思われる。(用語集の「プネウマ」参照。)パウロはここで自分の全てを尽くして仕えるという考えを伝えている。

に神聖な奉仕をしています: または,「に仕えています(を崇拝しています)」。ギリシャ語動詞ラトレウオーは基本的に,仕える行為を表現している。聖書中の用法では,神に仕えることや神への崇拝に関連して行動することを指す。(マタ 4:10。ルカ 2:37; 4:8。使徒 7:7。フィリ 3:3。テモ二 1:3。ヘブ 9:14; 12:28。啓 7:15; 22:3)パウロはここで神聖な奉仕を神の子についての良い知らせと結び付けている。それでイエスの弟子たちがこの良い知らせを伝えることは,神聖な奉仕,つまりエホバ神への崇拝行為となる。

神からの贈り物: ここの「贈り物」に当たるギリシャ語はカリスマで,「惜しみない親切」とよく訳されるカリスと関連がある。ギリシャ語聖書でカリスマは17回出ていて,神の惜しみない親切によって労せずに与えられる過分の贈り物,恵み,祝福という考えを伝えている。カリスマは聖なる力による超自然的な能力について使われることもあるが(コ一 12:4,9,28-31),文脈からするとパウロは兄弟姉妹を励ますことについて述べていたと思われる。パウロは,兄弟姉妹が信仰を強め,神との関係を深めるよう助けることによって力づけたいと思っていた。それで,励まし合うことによって互いの信仰を強める能力は神からの贈り物と見ることができる。(ペ一 4:10,11と比較。)

励まし合う: 直訳,「共に(互いに)励まされる(慰められる)」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語動詞シュンパラカレオマイはここにしか出ていない。しかし,パウロは関連する動詞パラカレオー(字義的には「自分のそばに呼び寄せる」)を「励ます」,「慰める」という意味でよく使っている。(ロマ 12:8。コ二 1:4; 2:7; 7:6。テサ一 3:2,7; 4:18; 5:11。ヘブ 3:13; 10:25)パウロはここで,皆さんの信仰と私の信仰によってと述べ,ローマのクリスチャンが自分の訪問によって力づけられるだけでなく,自分と会衆が励まし合えることを強調している。

兄弟たち: 文脈によっては,クリスチャンの男性が「兄弟」,女性が「姉妹」と呼ばれる。(コ一 7:14,15)しかし,ここや他の文脈では,男性と女性の両方を指して「兄弟たち」という語が使われている。「兄弟たち」は男性と女性をまとめて呼び掛ける語として受け入れられていた。(使徒 1:15,16。テサ一 1:4)「兄弟たち」という語は,聖書中のクリスチャンの手紙のほとんどでその意味で使われている。パウロはローマの手紙で,仲間のクリスチャン皆に呼び掛ける時,「兄弟たち」という語を何度か使っている。(ロマ 7:1,4; 8:12; 10:1; 11:25; 12:1; 15:14,30; 16:17

皆さんの所でも成果を得たいと思った: パウロはここで「実」という意味のギリシャ語の農業用語カルポスを使っている。その語は聖書に何度も出ている。比喩的に使われる場合,クリスチャンとしての成長や成功を指す。(マタ 3:8; 13:8。ヨハ 15:8,16。フィリ 1:11,22)パウロは,仲間の信者が「聖なる力が生み出すもの」を一層示すのを見たいと願っていたのかもしれないが,別のことも考えていたと思われる。(ガラ 5:22,23。ロマ 1:11,12ほかの国の人々の所だけでなくという表現からすると,パウロは,ローマで,もしかするとその先の場所でも,イエス・キリストの弟子を増やしたいと願っていたようだ。(ロマ 15:23,24

べきです: または,「義務があります」。ここで使われているギリシャ語動詞はしばしば金銭的な意味で使われ,基本的に「誰かに負債がある」,「誰かに借りがある」という意味。(マタ 18:28,30,34。ルカ 16:5,7)ここや他の文脈では,何かをする義務がある,何かをしなければならないというもっと広い意味で使われている。(ヨ一 3:16; 4:11。ヨ三 8

私には……果たすべき責任があります: または,「私は……負債を負っています」,「私には……義務があります」。聖書で「負債」に当たるギリシャ語やそれに関連する語は,金銭的な負債だけでなく,一般的な義務や責務についても使われている。ヨハ 13:14注釈を参照)で,「負債がある」,「義務がある」という意味のギリシャ語動詞が「べきです」と訳されている。パウロはここで,自分が会う一人一人に対して,良い知らせを伝えることによってしか返せない負債を負っていたことを示している。(ロマ 1:15)パウロは,自分が受けた憐れみに深く感謝していたので,他の人も神の惜しみない親切の恩恵を受けられるよう助けずにはいられないと感じていた。(テモ一 1:12-16)パウロはいわば,「神が人類と私自身に対してしてくださったことを考えると,私には全ての人に良い知らせを熱心に伝える義務がある」と言っていた。

ギリシャ人: この文脈で「ギリシャ人」という語は「外国人」と対比して使われていて,必ずしもギリシャ生まれの人やギリシャ系の人を指すわけではない。仮に別の国籍だったとしても,ギリシャ語を話しギリシャ文化の影響を受けた人を指す。パウロは,「ギリシャ人にも外国人にも」というフレーズをあらゆる人を含む表現として使っていたと思われる。この節の外国人に関する注釈を参照。

外国人: または,「ギリシャ人でない人」。ギリシャ語バルバロス(複数形はバルバロイ)を「未開の人」と訳している聖書翻訳もある。このギリシャ語の「バル バル」という繰り返しは,口ごもること,片言,理解できない話し方をイメージさせたので,ギリシャ人はもともと,この語を別の言語を話す外国人を指して使った。当時この語は,教養や上品さや礼儀に欠けることを示すものではなく,侮辱的なものでもなかった。バルバロスはギリシャ人でない人をギリシャ人と区別する語にすぎなかった。ヨセフスをはじめユダヤ人の著述家は,自分たちがこの語で呼ばれることを認めていた。ローマ人もギリシャ文化を取り入れるまでは自分たちのことをバルバロイと呼んでいた。それで,パウロはこの中立的な意味でギリシャ語バルバロスを使い,全ての人を指して「ギリシャ人にも外国人にも」と述べた。

ギリシャ人: 西暦1世紀,ギリシャ語ヘッレーン(「ギリシャ人」という意味)は必ずしもギリシャ生まれの人やギリシャ系の人を指したわけではなかった。パウロはここで信仰を持つ全ての人について話し,「ギリシャ人」と「ユダヤ人」を並べて述べたので,「ギリシャ人」という語をユダヤ人ではない民族全てを指して,より広い意味で使っていたと思われる。(ロマ 2:9,10; 3:9; 10:12。コ一 10:32; 12:13)これはギリシャの言語や文化がローマ帝国全土で優勢で際立っていたからに違いない。

正しい人は信仰のゆえに生きる: ロマ 1:16,17は,神が公平な方で「信仰を持つ全ての人」に救われる機会を与えている,というローマの手紙の中心的な考えを伝えているので,この書のテーマ聖句と呼ばれることもある。(ロマ 1:16)パウロは,この書全体で信仰の重要性を強調し,「信仰」に関係があるギリシャ語を60回ほど使っている。(例えば,ロマ 3:30; 4:5,11,16; 5:1; 9:30; 10:17; 11:20; 12:3; 16:26。)パウロはここロマ 1:17で,ハバ 2:4から引用している。別の2通の手紙でも,信仰を示すようクリスチャンを励ます文脈でハバ 2:4から引用している。(ガラ 3:11。ヘブ 10:38)この節の信仰のゆえにに関する注釈を参照。

信仰のゆえに: パウロはここで「しっかりした信仰[もしかすると,「忠実さ」]によって生きる」というハバ 2:4(脚注を参照)の言葉を引用している。多くの言語で,忠実であることと信仰があることは密接に関係している。「忠実さ」と訳されるヘブライ語(エムーナー)は,ヘブライ語アーマン(忠実である,信頼できる)と関係していて,その語は信仰があるという考えも伝えている。(創 15:6。出 14:31。イザ 28:16)パウロはセプトゥアギンタ訳のハバ 2:4から引用しているのかもしれない。そこではギリシャ語ピスティスが使われている。このギリシャ語は主に,確信,信頼,固い信念という考えを伝えている。たいてい「信仰」と訳されているが(マタ 8:10; 17:20。ロマ 1:8; 4:5),文脈によって「忠実」,「信頼性」という意味にも理解できる。(マタ 23:23,脚注。ロマ 3:3ヘブ 11:1で,パウロは神の聖なる力に導かれて「信仰」という語(ギリシャ語ピスティス)を定義している。この節の正しい人は信仰のゆえに生きるに関する注釈を参照。

書かれている通りです: パウロはヘブライ語聖書から引用する際,よくこのフレーズ(ギリシャ語,カトース ゲグラプタイ,「書く」に当たるグラフォーの変化形)を使っている。(ロマ 2:24; 3:10; 4:17; 8:36; 9:13,33; 10:15; 11:26; 15:3,9,21。コ一 1:31; 2:9。コ二 8:15)パウロはローマの手紙の中で,ヘブライ語聖書から50以上の章句を引用し,ほかにも多数,直接的また間接的な言及をしている。

神への不敬: または,「不信心」。聖書でギリシャ語アセベイアとその関連語は,神への敬意の欠如,さらには神への反抗を指して使われている。(ユダ 14,15)「神への専心」,「信心深さ」と訳されるエウセベイアの対義語。神への敬意は,神に仕えて専心し,崇拝することに表れる。(使徒 3:12。テモ一 2:2; 4:7,8。テモ二 3:5,12

世界の創造: ギリシャ語聖書で,ギリシャ語コスモス(「世界」)はたいてい,人類という世界あるいはその一部を指す。この文脈でパウロは,人間の創造のことを述べていると思われる。というのも,人間が現れるまでは,見える創造物を観察することによって,見えない性質が分かる知性は,地上に存在しなかったから。このギリシャ語は世俗の文書で宇宙や創造物全般を指しても使われ,パウロはギリシャ人に話している使徒 17:24で,この語をその意味で使ったのかもしれない。使徒 17:24の注釈を参照。

確かに神である: または,「神性を備えている」。ギリシャ語テイオテースは,ギリシャ語テオス(神)と関連がある。文脈から分かるように,パウロは神の存在をはっきり示す物質界の創造物のうちに認められる事柄について述べている。神の目的,名前,神の性格のいろいろな面を理解するには聖書が必要。しかし創造物は,神が宇宙を創造して維持するのに使っている永遠[の]を含め,見えない性質(直訳,「見えない事柄」)の証拠となっている。物質界の創造物は,創造者が「確かに神である」こと,つまり本当に神であって私たちの崇拝を受けるのにふさわしい方であることの証拠となっている。(啓 4:11

言い訳ができません: または,「弁解の余地がありません」。直訳,「無防備です」。ギリシャ語アナポロゲートスは,自分を弁護する納得のいく証拠を提出できない人について使われる法律用語。ここでは神を認めない人について使われている。神の存在をはっきり示す証言は「世界の創造以来」ずっとなされてきた。神の性質は明らかなので,神に関する真実を否定する人は,その立場を弁護したり論証したりすることができない。さらにパウロは,神の性質は造られた物を見れば……分かりますと述べた。「分かる」と訳されるギリシャ語は「知力」に当たる語(ギリシャ語ヌース)と関連があり,その語には知力を使って把握するという意味が含まれている。ある翻訳は,神の性質は「理性の目には……見えています」としている。人は創造物を見てじっくり考えることで,創造者の性質の多くを悟ることができる。その理解に加えて,聖書から学べる創造者の考えや目的に関する詳細な知識によって強い信仰を持てる。

世界: このギリシャ語コスモスは,一般のギリシャ文学で人類と密接に関連付けられていて,聖書では特にそうなっている。(ヨハ 1:10の注釈を参照。)しかし,この語は世俗の文書で宇宙や創造物全般を指しても使われた。ギリシャ人との共通点を土台にして話そうとしていたパウロは,この語をその意味で使った可能性がある。

神は彼らが……汚れたことを行[うままにし]ました: パウロは,背教したイスラエル人について述べていたのかもしれない。その人たちは神や正しい規定についての真理を知りながら長い間それに従わなかった。「神の真理の代わりに偽りを信じ」た。(ロマ 1:16,21,25,28,32)イスラエル人は偶像崇拝や性的不道徳について神からはっきり警告されていたが(レビ 18:5-23; 19:29。申 4:15-19; 5:8,9; 31:16-18),動物や人をかたどった異教の男神や女神を繰り返しあがめた。(民 25:1-3。王一 11:5,33; 12:26-28。王二 10:28,29。啓 2:14と比較。)それで神は「彼らが……汚れたことを行」うままにした。またパウロの言い回しからすると,異国の人々も,動物さらには人間を崇拝するのは全く理にかなわないことで神の憤りを招くということを理解すべきだった。(ロマ 1:22

偽り: 偶像崇拝という偽りを指す。偶像は偽り。(エレ 10:14)神が創造したものは神の存在を裏付けているが,「神を知り」ながら神についての真理を覆い隠す人がいた。(ロマ 1:18,21,25)その人たちは,神が永遠に力を持っていて確かに神であるという真理に沿って神に仕えるのではなく,偶像を作って崇拝した。偶像崇拝という偽りに心を向けたため,あらゆる種類の堕落した行いをするようになった。(ロマ 1:18-31

アーメン: または,「そうなりますように」。ギリシャ語アメーンはヘブライ語の翻字で,そのヘブライ語は,「忠実である」,「信頼できる」という意味の語根語アーマンに由来する。(用語集参照。)誓いや祈りや発言への同意を表すために「アーメン」と言う習慣があった。ギリシャ語聖書の筆者は,ここのパウロと同じように,何らかの形で神を賛美してその確信を表すためにこの語をよく使った。(ロマ 16:27。エフ 3:21。ペ一 4:11)また,この語は,手紙を受け取る人たちに神の恵みが示されるようにという願いを強調するために使われた。(ロマ 15:33。ヘブ 13:20,21)さらに,言い表された事柄に筆者が心から同意していることを示すためにも使われた。(啓 1:7; 22:20

恥ずべき性欲: ギリシャ語パトスは,強い欲望,奔放な情欲を指す。文脈から明らかなように,性的な性質の欲望を指す。こうした欲望は恥や不名誉をもたらすので,ここで「恥ずべき」こと(ギリシャ語アティミア,「不名誉」,「恥」)と表現されている。

自然: 自然な性交のこと。ここで使われているギリシャ語フュシコスは,自然界の確立された基本的な秩序や機能に沿ったことを指す。パウロは,ロマ 1:26,27の論議を展開するに当たって,創造に関する創 1:27の言葉を念頭に置いていたのかもしれない。パウロは,「男性」,「女性」に当たる普通のギリシャ語ではなく,性別の違いをよりはっきり示す語を使っている。それらの語は,セプトゥアギンタ訳の創 1:27や,その聖句を引用したマタ 19:4,マル 10:6でも使われている。創世記の記述によると,神は最初の人間夫婦を祝福し,増えて「地上全体に広が」るようにと言った。(創 1:28)同性愛行為は自然に反している。そうした性的な行動は,創造者が当初人間のために作った取り決めから外れていて,子供を生み出すことにはつながらないから。聖書の中で同性愛行為は,反逆した天使が行った性行為と同等に扱われている。邪悪な天使として知られるようになったその天使たちは,ノアの時代の大洪水の前に女性と性関係を持った。(創 6:4; 19:4,5。ユダ 6,7)神はそうした行為を不自然なものと見ている。ロマ 1:27の注釈を参照。

自然な関係: または,「自然な性関係」。「自然な」と訳されるギリシャ語(フュシコス)は,自然界の確立された基本的な秩序や機能に沿ったことを指す。この節と前の節から分かるように,男性同士であれ女性同士であれ,同性愛行為は人間に対する神の目的から外れている。(創 1:27ロマ 1:26の注釈を参照。)同性愛行為に対する神の見方は,ヘブライ語聖書のレビ 18:22ではっきり示されている。この禁止命令はイスラエル国民に与えられた多くの道徳律の1つ。一方,イスラエルの周りの国々ではモーセの律法が禁じていた同性愛,近親姦,獣姦などの行為が平気で行われていた。(レビ 18:23-25)神はギリシャ語聖書でも同性愛行為を罪としているので,それはユダヤ人にもユダヤ人でない人にも当てはまる。(コ一 6:9,10

自然な関係: または,「自然な性関係」。「自然な」と訳されるギリシャ語(フュシコス)は,自然界の確立された基本的な秩序や機能に沿ったことを指す。この節と前の節から分かるように,男性同士であれ女性同士であれ,同性愛行為は人間に対する神の目的から外れている。(創 1:27ロマ 1:26の注釈を参照。)同性愛行為に対する神の見方は,ヘブライ語聖書のレビ 18:22ではっきり示されている。この禁止命令はイスラエル国民に与えられた多くの道徳律の1つ。一方,イスラエルの周りの国々ではモーセの律法が禁じていた同性愛,近親姦,獣姦などの行為が平気で行われていた。(レビ 18:23-25)神はギリシャ語聖書でも同性愛行為を罪としているので,それはユダヤ人にもユダヤ人でない人にも当てはまる。(コ一 6:9,10

みだらなことを行って: または,「下品な(恥知らずな)行いをして」。このギリシャ語は恥ずべき振る舞いを指す。

十分な罰: または,「十分な報い」。このギリシャ語は見合った報いという意味。ここでは,妥当な罰,処罰,望ましくない結果という否定的な意味で使われている。コ二 6:13では,適切に応じることを指している。

自然: 自然な性交のこと。ここで使われているギリシャ語フュシコスは,自然界の確立された基本的な秩序や機能に沿ったことを指す。パウロは,ロマ 1:26,27の論議を展開するに当たって,創造に関する創 1:27の言葉を念頭に置いていたのかもしれない。パウロは,「男性」,「女性」に当たる普通のギリシャ語ではなく,性別の違いをよりはっきり示す語を使っている。それらの語は,セプトゥアギンタ訳の創 1:27や,その聖句を引用したマタ 19:4,マル 10:6でも使われている。創世記の記述によると,神は最初の人間夫婦を祝福し,増えて「地上全体に広が」るようにと言った。(創 1:28)同性愛行為は自然に反している。そうした性的な行動は,創造者が当初人間のために作った取り決めから外れていて,子供を生み出すことにはつながらないから。聖書の中で同性愛行為は,反逆した天使が行った性行為と同等に扱われている。邪悪な天使として知られるようになったその天使たちは,ノアの時代の大洪水の前に女性と性関係を持った。(創 6:4; 19:4,5。ユダ 6,7)神はそうした行為を不自然なものと見ている。ロマ 1:27の注釈を参照。

貪欲: または,「強欲」。ここのギリシャ語プレオネクシアは字義的には「より多く持つこと」という意味で,より多く持ちたいという飽くなき欲望を表す。このギリシャ語はエフ 4:19; 5:3でも使われている。コロ 3:5で,パウロは「貪欲」について述べ,「つまり偶像崇拝」と付け加えている。

うわさ話をし: このギリシャ語は,いつも有害なうわさ話をしていて,もしかすると悪意のあるうわさを広めている人を意味すると思われる。

合意したことを守らず: または,「どんな合意にも反対し」。ここで使われているギリシャ語は,合意を順守しないという考えに加え,信頼できない人や約束を守らない人という考えを含んでいるかもしれない。ある参考文献によると,この語は「相手がいる問題の解決策を協議しようとしない人」も指すのかもしれない。

自然な愛情を持たず: このフレーズを「無情」と訳している聖書翻訳もある。これは「ない」という意味の接頭辞アと「自然な愛情」という意味のストルゲーから成るギリシャ語アストルゴスを訳したもの。この語は,家族の中で,特に親が子供また子供が親に対して持つ,自然な愛情が欠けていることを指して使われている。家族への自然な愛情が欠けている人が,他の人と良い関係を持つのはなかなか難しいだろう。パウロが述べているだけでなく,古代のギリシャ・ローマ世界の歴史家たちも,父親が家族を捨てた,子供が年老いた親の世話をしなかった,病弱な子供や体の不自由な子供を含め,望まれない子供が親に殺されたという事例を記録している。パウロはこの語を,ここロマ 1:31で,人間が本来の完全な状態からどれほど懸け離れているかを表現するのに使った。テモ二 3:3では,危機的な終わりの時代に人々がどのように行動するかを示すのに使った。

メディア

ローマのクリスチャンへの手紙の紹介動画
ローマのクリスチャンへの手紙の紹介動画
ローマの町
ローマの町

ローマ帝国の首都ローマは,テベレ川沿いに位置し,7つの丘のある地域に建てられた。国が繁栄するにつれて拡大していった。西暦1世紀の中ごろには,ローマの人口は恐らく100万人に達していて,かなり大きなユダヤ人共同体もあった。ローマの最初のクリスチャンは,西暦33年のペンテコステの時にエルサレムにいて使徒ペテロや他の弟子たちから良い知らせを聞いたユダヤ人と改宗者たちだったと思われる。この新しい弟子たちはローマに戻って良い知らせを広めただろう。(使徒 2:10)使徒パウロは,西暦56年ごろに書いた「ローマのクリスチャンへの手紙」の中で,ローマの弟子たちの信仰が「世界中で語られている」と述べている。(ロマ 1:7,8)動画は,ローマの主な場所がパウロの時代にどんな様子だったかを想像して描いたもの。

1. アッピア街道

2. キルクス・マクシムス

3. パラティヌスの丘とカエサルの宮殿

4. カエサルの神殿

5. 劇場

6. パンテオン

7. テベレ川

オスティアの町の会堂
オスティアの町の会堂

写真に写っているのは,ローマの港町オスティアの会堂の遺跡。改装や改築がなされたが,もともと西暦1世紀の後半に会堂として建てられたと考えられている。会堂があったことから,ローマの近辺にユダヤ人が長い間住んでいたことが分かる。皇帝クラウディウスは西暦49年か50年ごろローマの町からユダヤ人を追放したが,その地域にユダヤ人の共同体が残っていた可能性がある。(使徒 18:1,2)西暦54年にクラウディウスが死んだ後,多くのユダヤ人がローマの町に戻った。パウロが西暦56年ごろにローマのクリスチャンに手紙を書いた時,会衆にはユダヤ人も異国人もいた。それで,パウロは両方の人たちに関係する事柄に注意を向け,どうすれば一致して暮らせるかを教えた。(ロマ 1:15,16

1. ローマ

2. オスティア