ルカ​に​よる​福音​書 8:1-56

8  そのあとすぐ,イエスはまちからまちへ,むらからむらへとたびをし,かみおうこくらせをひろめた+。12にんいっしょにいた。  じゃあくてん使からかいほうされびょうやされたじょせいたちもいた。じゃあくてん使7にんしてもらった,マグダレネとばれるマリア+  また,ヘロデかんにんクーザのつまヨハンナ+,スザンナ,そのおおくのじょせいたちである。このじょせいたちは,ぶんもの使つかってイエスと使たちにつかえていた+  さて,あちこちのまちからひとたちをふくおおぜいひとあつまったとき,イエスはたとえを使つかってはなした+  「ひとたねをまきにけました。まいていると,いくらかはみちばたちてみつけられ,とりべてしまいました+  いくらかはいわうえち,えたあとみずがないのでからびてしまいました+  いくらかはいばらのあいだち,いっしょせいちょうするいばらにふさがれてしまいました+  しかし,いくらかはつちち,えたあと,100ばいしました+」。イエスはそうべたあとおおごえった。「みみのあるひときなさい+」。  たちは,このたとえがどういうかをたずねた+ 10  イエスはった。「あなたたちは,かみおうこくしんせいみつかいすることをゆるされていますが,ひとたちにはたとえのままです+。それで,そのひとたちはていてもいていてもさとりません+ 11  さて,たとえのはこうです。たねかみことです+ 12  みちばたのものとはいたひとのことですが,そのしんじてすくわれることがないよう,あくがやってて,そのこころからかみことります+ 13  いわうえのものとは,かみことくとよろこんでれるひとのことですが,がありません。しばらくはしんじますが,れんはなってしまいます+ 14  いばらのあいだちたもの,これはかみこといたひとですが,せいかつじょうしんぱいごととみ+かいらくによってらされて+せいちょうがすっかりまり,なにみのらせることができません+ 15  つちうえのもの,これはじょうこころかみこといたあと+,それをしっかりたもち,しのんでむすひとです+ 16  ランプをともしたあと,それをうつわおおったりベッドのしたいたりするひとはいません。だいうえいて,はいってくるひとにそのひかりえるようにします+ 17  かくされているものはすべあきらかになり,ちゅうぶかめられているものはすべかならられておおやけになります+ 18  ですから,どのようにくかにちゅうはらいなさい。っているひとにはさらにあたえられますが+っていないひとっているとおもうものまでげられるのです+」。 19  さて,イエスのははおやおとうとたち+がやってたが,ひとだかりでそばにけなかった+ 20  それでイエスに,「おかあさんときょうだいたちがそとにいて,いたがっています」とつたえられた。 21  それにたいしてイエスはった。「わたしははまたきょうだいたちとは,かみこといてじっこうするこのひとたちのことです+」。 22  あるのこと,イエスはたちとふねり,「みずうみこうがわわたりましょう」とった。それでしゅっぱんした+ 23  しかし,はんそうしているあいだにイエスはねむんだ。はげしいぼうふうみずうみろし,ふねみずをいっぱいかぶってけんじょうたいになってきた+ 24  たちはイエスのところってこし,「せんせいせんせいわたしたちはんでしまいそうです!」とった。そこでイエスはがり,かぜくるなみしかりつけた。するとぼうふうおさまり,めんおだやかになった+ 25  イエスはった。「あなたたちのしんこうはどこにあるのですか」。たちはおそれをいだき,たいへんおどろいて,「いったいどういうかたなのだろう。かぜなみにさえめいじ,それらはしたがうのだ」とたがいにった+ 26  いっこうはゲラサのひとたちのいききしいた+。ガリラヤほうかいがわである。 27  イエスがりくがると,そこのまちひとで,じゃあくてん使りつかれたおとこがイエスにった。おとこはかなりながいことふくたことがなく,いえではなくはか*いていた+ 28  イエスをるとさけび,そのまえでひれして,おおごえった。「こうかみイエス,なにをしにたのですか。おねがいします。わたしばっしないでください+」。 29  (というのは,イエスがそのじゃあくてん使おとこからるようにとめいじていたからである。じゃあくてん使がそのおとこなんりついた*ので+おとこかえあしかせとくさりしばられ,かんされていた。しかし,それらをり,じゃあくてん使によってへんぴなしょいやられるのだった。) 30  イエスは,「あなたのまえなんですか」とたずねた。おとこは,「レギオンです」とった。おおくのじゃあくてん使かれはいんでいたのである。 31  じゃあくてん使たちは,そこれぬふかみにっていけとはめいじないでください+,とたんがんつづけた。 32  ところで,そこのやまぶた+たいぐんくさべていた。じゃあくてん使たちが,ぶたなかはいることをゆるしてくださいとたんがんすると,イエスはそれをゆるした+ 33  じゃあくてん使たちはおとこからてきてぶたなかはいった。すると,れはとっしんしてがけからみずうみち,おぼんだ。 34  ぶたっていたひとたちはきたことをげていき,まち田舎いなかでそのことをらせた。 35  ひとびとなにきたのかをようとしててきた。イエスのところると,じゃあくてん使りつかれていたおとこふくて,しょうになってイエスのあしもとすわっていた+。それでおそろしくなった。 36  もくげきしていたひとたちは,じゃあくてん使りつかれたおとこがどのようにしてくなった*かをひとびとらせた。 37  それで,しゅうへんのゲラサのひとたちのいきからおおぜいひとは,ぶんたちのところからるようイエスにもとめた。じょうおそれにとらわれていたのである。それからイエスはふねり,ていこうとした。 38  じゃあくてん使おとこは,いっしょにいさせてほしいとたのつづけた。しかしイエスはこうっておとこらせた+ 39  「いえかえり,かみがしてくださったことかたつづけなさい」。おとこっていき,イエスがしてくれたことまちじゅうひろめた。 40  イエスがもどると,ぐんしゅうしんせつむかえた。みなイエスをけていたのである+ 41  すると,ヤイロというだんせいがやってた。かいどうやくいんだった。そしてイエスのあしもとにひれし,いえてくれるようたんがんはじめた+ 42  12さいぐらいの一人ひとりむすめにそうだったのである。 イエスがすすんでいくと,ひとびとむらがった。 43  ところで,12ねんかんしゅっけつつづ+だれにもなおしてもらえずにいるじょせいがいた+ 44  じょせいうしろからちかづき,イエスのがいすそ*+さわった。するとしゅっけつはすぐにまった。 45  イエスは,「さわったのはだれですか」とった。みなぶんではないとこたえていると,ペテロがった。「せんせいひとびとがあなたをかこんでむらがっているのです+」。 46  それでもイエスはった。「だれかがわたしさわったのです。わたしからちから+ていき*ました」。 47  じょせいは,かれていたとかり,ふるえながらすすて,イエスのまえでひれし,イエスにさわったゆうとすぐにやされたようみなまえせつめいした。 48  イエスはった。「あなたがくなった*のはしんこうがあったからです。あんしんしてらしなさい+」。 49  イエスがはなしているうちに,かいどうやくいんいえからひとて,「むすめさんはくなりました。もうせんせいわずらわすことはありません」とった+ 50  これをいてイエスはやくいんった。「しんぱいりません。ただしんこうちなさい。そうすればむすめさんはすくわれます+」。 51  そのいえくと,イエスは,ペテロ,ヨハネ,ヤコブ,むすめちちおやははおやがいは,だれいっしょなかはいらせなかった。 52  いっぽうひとびとみなき,むすめのためにむねをたたいてかなしんでいた。イエスはった。「くのをやめなさい+しょうじょんだのではなく,ねむっているのです+」。 53  ひとびとはイエスのことをあざわらいだした。しょうじょんだことをっていたからである。 54  しかしイエスはしょうじょってけ,「きなさい*!」とった+ 55  するとしょうじょかえ+,すぐにがった+。イエスは,しょうじょなにべさせてあげるようめいじた。 56  りょうしんはわれをわすれたようになったが,イエスはきたことだれにもはなさないようにとした+

脚注

または,「記念の墓」。
もしかすると,「を長い間しっかり捕らえてきた」。
または,「救われた」。
または,「裾の飾り(フリンジ)」,「房(タッセル)」。
または,「出ていくのが分かり」。
または,「救われた」。
直訳,「子供よ,起きなさい」。または,「目を覚ましなさい」。

注釈

伝道し: ギリシャ語は基本的に「使者として広く知らせる」という意味。知らせる方法を強調しており,一般には,一群の人たちへの説教ではなく多くの人々への宣伝を指す。

広めた: マタ 3:1の注釈を参照。

マグダレネと呼ばれるマリア: しばしばマリア・マグダレネと呼ばれるこの女性はイエスの伝道の2年目に関するこの記述に初めて出てくる。マグダレネ(「マグダラの」という意味)という呼び名は,カペルナウムとティベリアのほぼ中間に位置するガリラヤ湖西岸の町マグダラに由来すると思われる。そこがマリアの出身地か居住地だったという説もある。マリア・マグダレネは特にイエスの死と復活に関する記述の中で際立っている。(マタ 27:55,56,61。マル 15:40。ルカ 24:10。ヨハ 19:25

奉仕する: または,「仕える」。ここで使われているギリシャ語動詞はディアコネオーで,関連する名詞ディアコノス(奉仕者,仕える人)は,他の人のためにひたすら謙遜に仕える人を指す。その語は,キリスト(ロマ 15:8),男性も女性も含めキリストの奉仕者(ロマ 16:1。コ一 3:5-7。コロ 1:23),援助奉仕者(フィリ 1:1。テモ一 3:8),また給仕(ヨハ 2:5,9)や政府の役人(ロマ 13:4)を指して使われている。

クーザ: ヘロデ・アンテパスの管理人。家の事柄を任されていたのかもしれない。

ヨハンナ: 「エホバは恵みを与えてくださった」,「エホバは慈悲深い」という意味のヘブライ語名エホハナンの短縮で女性形。ヨハンナは,イエスに病気を癒やされた女性の1人で,ギリシャ語聖書で2回だけ,ルカの福音書にのみ出ている。(ルカ 24:10

に仕えていた: または,「を援助していた」,「に必要物を提供していた」。ギリシャ語ディアコネオーは,食料の調達,調理,給仕など,他の人を身体的に世話することも指す。同様の意味で使われている例として,ルカ 10:40(「用事を[する]」),ルカ 12:37(「給仕[する]」),ルカ 17:8(「給仕[する]」),使徒 6:2(「食物を配る」)などがあるが,個人に対する同じような他の奉仕全ても指せる。ここでは,2節と3節に出ている女性たちがイエスと弟子たちをサポートし,神からの割り当てを果たせるよう助けたことを述べている。そうすることにより,女性たちは神をたたえた。神は憐れみ深く気前の良いこの女性たちに関して聖書に記録を残して後代の人々が読めるようにし,高く評価していることを示した。(格 19:17。ヘブ 6:10)同じギリシャ語が,マタ 27:55,マル 15:41でも女性たちに関して使われている。ルカ 22:26の注釈を参照。そこには,関連する名詞ディアコノスの説明がある。

例え: または,「例え話」。ギリシャ語パラボレーは字義的には,「そばに(一緒に)置く」という意味で,例え話,格言,例えなどの形を取る。イエスはある事柄を説明するのによく似た事柄になぞらえる,つまり「そばに置く」ことが度々あった。(マル 4:30)イエスの例えは短い話でたいていは創作的なものであり,そこから道徳上また宗教上の真理を引き出すことができた。

例え: マタ 13:3の注釈を参照。

岩地: あちこちに岩がある土地ではなく,土がほとんどない岩場や岩棚を指す。並行記述のルカ 8:6には,幾つかの種が「岩の上に」落ちたとある。そのような土地では,種が根を深く張れないので必要な水分を得られない。

岩の上: マタ 13:5の注釈を参照。

いばらの間: イエスは,いばらの茂みではなく,耕す時に畑から取り切れなかったいばらのことを言っていると思われる。それが成長して,まかれたばかりの種はふさがれてしまう。

いばらの間: マタ 13:7の注釈を参照。

神聖な秘密: ギリシャ語ミュステーリオンは「新世界訳」で25回,「神聖な秘密」と訳されている。ここでは複数形が使われており,神が決めた時まで秘められている神の目的のさまざまな面を指す。その時が来たら十分に啓示されるが,それは神が理解を与えることにした人たちだけにである。(コロ 1:25,26)いったん啓示されると,神の神聖な秘密はできるだけ広く知らされる。そのことは,聖書で「神聖な秘密」に関連して,「伝えた」,「知らせて」,「伝える」,「啓示され」,「啓示」などの語が使われていることから明らか。(コ一 2:1。エフ 1:9; 3:3。コロ 1:25,26; 4:3)神の神聖な秘密の主要な部分は,イエス・キリストが約束の「子孫」つまりメシアであるという点を中心とする。(創 3:15。コロ 2:2)そして,この神聖な秘密には,神の目的の中でイエスに与えられた役割など多くの点も含まれる。(コロ 4:3)イエスがこの時に示した通り,「神聖な秘密」は天の王国もしくは「神の王国」,イエスが王として治める天の政府と関係がある。(マル 4:11。ルカ 8:10マタ 3:2の注釈を参照。)ギリシャ語聖書はミュステーリオンという語を古代の密儀宗教とは別の仕方で用いている。それらの宗教は,1世紀に盛んだった豊作神崇拝に基づいていることが多く,信奉者に不滅性を約束し,直接の啓示が受けられ,神秘的な儀式を通して神々に近づけると教えた。そうした秘密の教えは明らかに真理に基づいていない。密儀宗教に入信した人はその秘密を人に明かさないで謎のままにすることを誓ったが,それはキリスト教の神聖な秘密を広く知らせるのとは対照的だった。聖書でこの語が偽りの崇拝に関して使われている場合,新世界訳では,「ひそかな力」,「謎」と訳されている。そうした3箇所の出例については,テサ二 2:7,啓 17:5,7の注釈を参照。

神聖な秘密: マタ 13:11の注釈を参照。

ランプ: 聖書時代,普通の家庭用ランプはオリーブ油を入れた小さな土器。

ランプ: マタ 5:15の注釈を参照。

弟たち: イエスの異父兄弟たち。マタ 13:55マル 6:3に名前が出ている。「兄弟」という語の意味については,マタ 13:55の注釈を参照。

弟たち: マタ 12:46の注釈を参照。

私の母また兄弟たち: ここでイエスは,生来の兄弟と信者の兄弟つまり弟子とを区別している。イエスに信仰を持たない弟たちがいたと思われる。(ヨハ 7:5)イエスは,親族との結び付きがどれほど大切だとしても,神の言葉を聞いて実行する人たちとの関係の方が大切であることを示している。

向こう側: ガリラヤ湖の東岸のこと。

激しい暴風: この表現は3つのギリシャ語の訳で,「風の大きな嵐」と直訳できる。(マタ 8:24の注釈を参照。)その場にいなかったマルコが暴風のことなど詳細を生き生きと描写しているのは,ペテロから情報を得たことを示しているのかもしれない。ペテロがマルコの福音書に与えた影響については,「マルコの紹介」参照。

激しい暴風: この表現は2つのギリシャ語の訳で,「風の嵐」と直訳できる。(マル 4:37の注釈を参照。)このような嵐はガリラヤ湖では珍しくなかった。湖面は海面より約210メートル低く,そこは周辺の台地や山より気温が高い。そのため大気の乱れや強風が生じ,波が起きやすい。

ゲラサの人たち: この出来事の並行記述では(マタ 8:28-34。マル 5:1-20。ルカ 8:26-39),それが起きた場所について異なった名称が使われている。それぞれの記述について,古代の写本に異読もある。入手できる最良の写本によれば,マタイはもともと「ガダラの人たち」を使い,マルコとルカは「ゲラサの人たち」を採用した。とはいえ,この節のゲラサの人たちの地域に関する注釈で示されているように,どちらの語もおおよそ同じ辺りを指している。

ガダラの人たちの地域: ガリラヤ湖の向こう岸(東岸)の地域。湖から10キロ離れたガダラまで広がる地域かもしれない。そう言えるのは,ガダラの硬貨によく船が描かれているため。マルコとルカはそこを「ゲラサの人たちの地域」と呼んでいる。(マル 5:1の注釈を参照。)その2つの地域は重なり合っていたのかもしれない。付録A7,地図3B,「ガリラヤ湖で行ったこと」と付録B10を参照。

ゲラサの人たち: この出来事の並行記述では(マタ 8:28-34。マル 5:1-20。ルカ 8:26-39),それが起きた場所について異なった名称が使われている。それぞれの記述について,古代の写本に異読もある。入手できる最良の写本によれば,マタイはもともと「ガダラの人たち」を使い,マルコとルカは「ゲラサの人たち」を採用した。とはいえ,この節のゲラサの人たちの地域に関する注釈で示されているように,どちらの語もおおよそ同じ辺りを指している。

ゲラサの人たち: マル 5:1の注釈を参照。

ゲラサの人たちの地域: ガリラヤ湖の向かい側つまり東側の地域。今日,この地域の境界ははっきりせず,明確な場所は分からない。ゲラサの人たちの地域をガリラヤ湖の東岸の急斜面に近いクルシの辺りと結び付ける人もいる。一方,ガリラヤ湖の南南東55キロに位置するゲラサ(ジャラシュ)の町を中心に広がる地域と考える人もいる。マタ 8:28では「ガダラの人たちの地域」と呼ばれている。(マタ 8:28,マル 5:1の注釈を参照。)異なる名前が使われているが,どちらもガリラヤ湖東岸のおおよそ同じ辺りを指していて,2つの地域は重なり合っていたのかもしれない。それで,これらの記述に矛盾はない。付録A7,地図3B,「ガリラヤ湖で行ったこと」と付録B10も参照。

墓場: または,「記念の墓」。(用語集の「記念の墓」参照。)墓は,洞窟や,自然の岩をくりぬいた部屋だと思われる。普通,町の外にあった。墓場は,関係する儀式上の汚れのためにユダヤ人から敬遠されていたので,狂人や邪悪な天使に取りつかれた人の格好の住みかとなった。

邪悪な天使に取りつかれた男: マタイ(8:28)は2人の男と言っているが,マルコ(5:2)とルカは1人の男について述べている。マルコとルカが邪悪な天使に取りつかれた1人の男だけに注目したのは,イエスがその男と話し,彼の様子がとりわけ目立ったからだと思われる。もしかすると,その男の方が凶暴だったか長期にわたって邪悪な天使の影響を受けていたのかもしれない。2人の男が癒やされた後,イエスに同行したいと言ったのが1人だけだったという可能性もある。(ルカ 8:37-39

墓場: マタ 8:28の注釈を参照。

何をしに来たのですか: または,「私とあなたに共通するものがありますか」。この修辞的な質問は直訳すると,「私とあなたとには何が」。このセム語系の慣用句はヘブライ語聖書に出ていて(裁 11:12,脚注。ヨシ 22:24。サ二 16:10; 19:22。王一 17:18。王二 3:13。代二 35:21。ホセ 14:8),対応するギリシャ語表現がギリシャ語聖書で使われている。(マタ 8:29。マル 1:24; 5:7。ルカ 4:34; 8:28。ヨハ 2:4)具体的な意味は文脈によって異なる。この節で(マル 5:7),この慣用句は敵意や拒絶の表れであり,「邪魔をするな」,「放っておいてくれ」と訳す人もいる。別の文脈では,侮蔑や高慢さや敵意の表れではなく,見方や意見が異なることを表明したり提案された事に関わりたくないことを示したりするために使われている。ヨハ 2:4の注釈を参照。

牢番: 「牢番」と訳されるギリシャ語バサニステースは「責め苦に遭わせる者」という基本的な意味がある。牢番が囚人に残酷な拷問を加えることが多かったからだと思われる。しかし,この語は一般的な意味で牢番を指すようになった。拷問があってもなくても監禁は責め苦と見なされたからだと思われる。マタ 8:29の注釈を参照。

何をしに来たのですか: マル 5:7の注釈を参照。

私を罰し: 関係するギリシャ語がマタ 18:34で「牢番」と訳されている。それで,この文脈で「罰する」とはルカ 8:31に出てくる「底知れぬ深み」への拘束や監禁を指すようである。マタ 18:34の注釈を参照。

レギオン: 恐らく,これは邪悪な天使に取りつかれた男の実名ではなく,男が大勢の邪悪な天使に取りつかれていたことを示している。もしかすると,そのうちの主要な者が男にレギオンと名乗らせたのかもしれない。1世紀,ローマの軍団(レギオン)は普通6000人ほどで構成された。この場合,多くの邪悪な天使が関わっていたことを示しているのかもしれない。マタ 26:53の注釈を参照。

レギオン: マル 5:9の注釈を参照。

私たちを罰する: 関係するギリシャ語がマタ 18:34で「牢番」と訳されている。それで,この文脈で「罰する」とは並行記述のルカ 8:31に出てくる「底知れぬ深み」への拘束や監禁を指すようである。

底知れぬ深み: ここのギリシャ語アビュッソスは,「非常に深い」,「計り知れない」,「果てしない」という意味で,拘禁したり閉じ込めたりするための場所やそうされている状態を指す。この語はギリシャ語聖書に,こことロマ 10:7,そして「啓示」の書に7回,合計9回出ている。啓 20:1-3では,将来サタンが底知れぬ深みに1000年間入れられることが描かれている。「底知れぬ深みに」送り込まないようイエスに懇願した邪悪な天使たちは,将来のことを念頭に置いていたのかもしれない。28節で,そのうちの1人は自分を「罰し」ないようイエスにお願いした。並行記述のマタ 8:29では,邪悪な天使たちはイエスに,「私たちを罰するために,定められた時よりも前に来たのですか」と尋ねている。それで,彼らが恐れていた「罰」とは,「底知れぬ深み」に拘禁されたり閉じ込められたりすることを指すようである。用語集マタ 8:29の注釈を参照。

豚: 豚は律法では汚れた動物だったが(レビ 11:7),デカポリス地方にはユダヤ人でない人が大勢住んでいて,豚肉の市場があった。ギリシャ人もローマ人も豚肉をごちそうと見ていた。「豚を飼っていた人たち」がユダヤ人で律法を破っていたのかどうかは述べられていない。(ルカ 8:34

神がしてくださった事を語り続けなさい: イエスは,奇跡のことを言い触らさないようにといういつもの指示(マル 1:44; 3:12; 7:36。ルカ 5:14)とは異なり,起きた事を親族に話すようこの男に指示した。イエスはその地域を去るように言われていて直接自分で語ることができないので,そう指示したのかもしれない。また,この男の証言は,豚が失われたことに関する良くないうわさが広まったとしても,それを打ち消すことになっただろう。

町中: 並行記述のマル 5:20は,「デカポリスで」と述べている。それで,ここで言う町はデカポリス地方の町の1つだと思われる。用語集の「デカポリス」参照。

独り子: 「ただ一人生まれた」とも訳されるギリシャ語モノゲネースは,「その種の中で唯一の」,「唯一無二の」,「特異な」と定義されている。聖書でこの語は,息子または娘と親との関係を表すのに使われる。(ルカ 7:12; 8:42; 9:38の注釈を参照。)使徒ヨハネが書いた書で,この語はイエスについてのみ使われているが(ヨハ 3:16,18。ヨ一 4:9),イエスが人間として誕生し存在したことに関しては一度も使われていない。この語はロゴスつまり「言葉」として人間となる以前に存在していたイエスを描写するために使われていて,イエスは「人類が誕生する前」でさえ「初めに神と共にいた」方と述べられている。(ヨハ 1:1,2; 17:5,24)イエスはエホバの初子で神が直接創造したただ独りの方なので,「独り子」。他の天使も「真の神の子たち」や「神の子たち」(創 6:2,4。ヨブ 1:6; 2:1; 38:4-7)と呼ばれているが,その子たちは皆,初子を通してエホバによって創造された。(コロ 1:15,16)まとめると,モノゲネースという語は,イエスが「無類の」,「特異な」,「比類のない」存在であることと,神がただひとりで直接生み出した唯一の子であることを表す。(ヨ一 5:18

独り子: 「ただ一人生まれた」とも訳されるギリシャ語モノゲネースは,「その種の中で唯一の」,「唯一無二の」,「特異な」と定義されている。使徒ヨハネが書いた書で,この語はイエスについてのみ使われている。(ヨハ 1:14; 3:18。ヨ一 4:9ヨハ 1:14の注釈を参照。)神が創造した他の天使も子と呼ばれているが,イエスだけが「独り子」と呼ばれている。(創 6:2,4。ヨブ 1:6; 2:1; 38:4-7)イエスは初子で父が直接創造したただ独りの方なので,特異で,神の他の全ての子と異なっている。その子たちは,初子を通してエホバによって創造された,つまり生み出された。パウロはギリシャ語モノゲネースを同じように使って,イサクがアブラハムの「独り子」だったと言っている。(ヘブ 11:17)アブラハムはハガルによるイシュマエルや,ケトラによる数人の子の父親だったが(創 16:15; 25:1,2。代一 1:28,32),イサクは特別な意味で「独り子」だった。神の約束によるアブラハムの唯一の子で,サラの唯一の子だった。(創 17:16-19

一人: 「ただ一人生まれた」とも訳されるギリシャ語モノゲネースは,「その種の中で唯一の」,「唯一無二の」,「ある部類もしくは種類の中で唯一の」,「特異な」と定義されている。この語は,息子についても娘についても親との関係を表すのに使われる。この文脈では,一人っ子という意味で使われている。同じギリシャ語はナインのやもめの「一人」息子や,イエスが邪悪な天使を追い出した,ある男性の「一人」息子にも使われている。(ルカ 7:12; 9:38)ギリシャ語セプトゥアギンタ訳ではエフタの娘についてモノゲネースが使われていて,「彼女はたった1人の子で,ほかに息子も娘もいなかった」と書かれている。(裁 11:34)使徒ヨハネが書いたものの中で,モノゲネースはイエスに関して5回使われている。イエスに関して使われる場合のこの語の意味については,ヨハ 1:14; 3:16の注釈を参照。

出血: 慢性的な月経の出血と思われる。モーセの律法によれば,この女性はその症状のために儀式上汚れたものとなり,他の人に触れてはならなかった。(レビ 15:19-27

出血: マタ 9:20の注釈を参照。

あなた: 直訳,「娘よ,あなた」。イエスが女性に直接「娘よ」と語り掛けたという記録に残る唯一の事例。配慮が必要な状況で,女性が「震え」ていたので,そう呼んだのかもしれない。(マル 5:33。ルカ 8:47)愛情を示すこの表現は,女性の年齢を示す呼び掛けではなく,イエスの優しい気遣いをはっきり表すものだった。

安心して暮らしなさい: 直訳,「平和のうちに行きなさい」。この慣用表現はギリシャ語聖書でもヘブライ語聖書でも,「あなたにとって事がうまく運びますように」という意味でよく使われている。(ルカ 7:50; 8:48。ヤコ 2:16。サ一 1:17; 20:42; 25:35; 29:7,サ二 15:9,王二 5:19と比較。)しばしば「平和」と訳されるヘブライ語(シャーローム)は広い意味を持つ語で,戦争や騒乱がないことを指し(裁 4:17。サ一 7:14。伝 3:8),健康や安全(サ一 25:6,脚注。代二 15:5,脚注。ヨブ 5:24,脚注),福祉(エス 10:3),友情(詩 41:9)という考えを伝えることもある。ギリシャ語聖書で,「平和」に当たるギリシャ語(エイレーネー)もヘブライ語の場合と同じく広い意味合いで使われていて,争いがない状況だけでなく,健康,救い,調和という考えを表現している。

あなた: マル 5:34の注釈を参照。

安心して暮らしなさい: マル 5:34の注釈を参照。

死んだのではなく,眠っている: 聖書の中で,死はたびたび眠りに例えられている。(詩 13:3。ヨハ 11:11-14。使徒 7:60。コ一 7:39; 15:51。テサ一 4:13)イエスは少女を生き返らせに行くところだったので,こう言ったのかもしれない。深い眠りに就いている人を起こすことができるように,死んだ人を生き返らせることができる,ということを示そうとしていた。少女を復活させるイエスの力は,「死んだ人を生かし,ないものをあるかのように呼ぶ方」である天の父から来た。(ロマ 4:17

死んだのではなく,眠っている: マル 5:39の注釈を参照。

息を引き取った: または,「息絶えた」,「自分の生命力を委ねた」。ここでギリシャ語プネウマは「息」もしくは「生命力」を指すと理解できる。これは並行記述のマル 15:37でギリシャ語エクプネオー(直訳,「息を吐き出す」)が使われていることによって裏付けられている。(そこでは「息を引き取った」と訳され,注釈には「息絶えた」とある。)「委ねた」とも訳せるギリシャ語が使われているのは,イエスが必死で生き延びようとはしなかったということだと考える人もいる。全てのことが成し遂げられていたからである。(ヨハ 19:30)イエスは進んで「自分の命を捧げて死をも受け入れ」た。(イザ 53:12。ヨハ 10:11

は生き返り: または,「に生命力(息)が戻り」。ここではギリシャ語プネウマが使われており,地球上の生物の生命力もしくは単に息を指すと思われる。マタ 27:50の注釈を参照。

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家庭用のランプ台
家庭用のランプ台

この家庭用のランプ台(1)はエフェソスやイタリアで見つかった1世紀の工芸品に基づいて画家が描いたもの。この種のランプ台は裕福な家で使われたと思われる。貧しい家庭では,ランプを天井からつるすか,壁のくぼみ(2),あるいは土製や木製の台に置いた。

1世紀の漁船
1世紀の漁船

この絵は,ガリラヤ湖の岸辺の泥に埋まっていた1世紀の漁船と湖畔の町ミグダルで発見された1世紀の家のモザイク画に基づいている。この種の舟は帆柱と帆があって5人が乗り組んだのではないかと思われる。4人がこぎ,1人が船尾の小さな甲板に立ってかじを取った。この舟は長さが約8メートル,幅は中央部で約2.5メートル,深さは1.3メートルほど。13人以上を乗せられたようだ。

ガリラヤの漁船の遺物
ガリラヤの漁船の遺物

1985年から1986年にかけての干ばつでガリラヤ湖の水位が下がり,泥に埋まっていた古代の舟の一部が姿を現した。出土した舟は長さ8.2メートル,幅2.3メートル,深さは最大1.3メートル。考古学者によれば,この舟は紀元前1世紀から西暦1世紀の間に造られた。動画では,現在イスラエルの博物館に展示されているこの舟を再現し,水に浮かんでいた2000年ほど前の様子をイメージして描いている。

ガリラヤ湖の東側の崖
ガリラヤ湖の東側の崖

イエスが2人の男から邪悪な天使を追い出して豚の群れの中に送り込んだのは,ガリラヤ湖東岸沿いでのことだった。

イエスが女性を癒やす
イエスが女性を癒やす

おびえた女性がイエスを見上げている。12年間苦しんできた病気を癒やしてもらおうとイエスの衣服に触ったことを震えながら告白する。イエスはその女性をとがめるのではなく,親切にこう言う。「あなたが良くなったのは信仰があったからです。安心して暮らしなさい」。(ルカ 8:48)イエスは,ヤイロの娘を癒やしに行く途中でこの奇跡を行った。(ルカ 8:41,42)こうした奇跡から分かるように,イエスにはあらゆる種類の病気を癒やす力があり,イエスが人類を治める時,「私は病気だ」と言う人は一人もいない。(イザ 33:24