ルカによる福音書 21:1-38
注釈
寄付箱: 古代ユダヤの資料によると,こうした寄付箱もしくは容器は,ラッパもしくは角笛のような形をしていて,上部に小さめの開口部があったと思われる。人々は,そこにさまざまな捧げ物のためのお金を入れた。ここで使われているギリシャ語はヨハ 8:20にも出ていて,「神殿の寄付箱の辺り」の場所を指している。それは女性の庭と呼ばれるエリアにあったと思われる。(マタ 27:6の注釈と付録B11を参照。)ラビの資料によれば,その庭の壁際に沿って13個の寄付箱が置かれていた。神殿には,寄付箱から集めたお金を持っていく主要な宝物庫もあったと考えられている。
寄付箱: マル 12:41の注釈を参照。
貧乏な: または,「貧しい」。ここで使われているギリシャ語ペニクロスは,生活必需品に困っている人や,生活が非常に苦しい人を指すのだろう。ギリシャ語聖書では,ここだけで使われている。
ごく小額の小さな硬貨2枚: 直訳,「2レプタ」。レプタは「小さくて薄いもの」という意味のギリシャ語レプトンの複数形。1レプタは1デナリの128分の1に相当する硬貨で,イスラエルで使われた最小額の銅貨または青銅貨と思われる。用語集の「レプタ」と付録B14参照。
ごく小額の小さな硬貨2枚: 直訳,「2レプタ」。レプタは「小さくて薄いもの」という意味のギリシャ語レプトンの複数形。1レプタは1デナリの128分の1に相当する硬貨で,イスラエルで使われた最小額の銅貨または青銅貨と思われる。用語集の「レプタ」と付録B14参照。
自分が持つ生活費全て: ルカ 21:2の注釈にあるように,やもめが寄付箱に入れたのは「2レプタ」で,1日の賃金の64分の1に相当した。レプタは当時イスラエルで使われた最小額の硬貨。マタ 10:29によれば,アサリオン硬貨1枚(8レプタに相当)でスズメ2羽が買えた。スズメは食用の鳥の中で最も安かった。それでこのやもめは,1回の食事分にもならないスズメ1羽を買うのに必要な額の半分しか持っていなかった。
石がこのまま石の上に残……ることは決してありません: イエスの預言は西暦70年にその通り実現した。ローマ人はエルサレムとその神殿を徹底的に破壊した。城壁のわずかな区画を除けば,その都市は完全に覆された。
石が石の上に残らずに: マタ 24:2の注釈を参照。
私がその者だ: キリストつまりメシアということ。並行記述のマタ 24:5と比較。
私がその者だ: マル 13:6の注釈を参照。
終わり: または,「完全な終わり」。ここで使われているギリシャ語(テロス)は,マタ 24:3で「終結」と訳されているギリシャ語(シュンテレイア)とは異なる。マタ 24:3の注釈と用語集の「体制の終結」を参照。
騒乱: または,「無秩序」,「暴動」。ギリシャ語アカタスタシアは,収拾がつかないことという基本的な意味があるが,確立された権威に対する反対,反乱,政治的動乱も指せる。コ二 6:5で,この語は「暴動」と訳され,パウロが直面した激しい反対を指している。
終わり: または,「完全な終わり」,「最終的な終わり」。マタ 24:6の注釈を参照。
国民: ギリシャ語エトノスの意味は広く,国など一定の政治的また地理的境界内に住む人々を指すことも,民族を指すこともある。マタ 24:14の注釈を参照。
立ち上がり: または,「奮い立ち」,「意気込み」。ここのギリシャ語は「敵意を抱いて動く」という考えを伝え,「武装して立ち上がる」または「戦いを始める」とも訳される。
国民: マタ 24:7の注釈を参照。
立ち上がります: マタ 24:7の注釈を参照。
流行病: 直訳,「疫病」。または,「伝染性の病気」。終わりの時に関するイエスの大預言を記した3人の福音書筆者のうち,多くの要素から成る「しるし」のこの特徴を述べたのはルカだけ。(ルカ 21:7。マタ 24:3,7。マル 13:4,8)3つの記述は補い合っている。「流行病」に当たるギリシャ語が聖書に出てくるもう1カ所は使徒 24:5で,そこでは「厄介者」,トラブルメーカー,社会的脅威と見なされる人物に関して比喩的に使われている。
恐ろしい光景: この語は,「恐れる」という意味のギリシャ語動詞フォベオーに由来し,ギリシャ語聖書でここだけに出ている。恐ろしい出来事を指すと思われる。
言葉: または,「強力な言葉」。直訳,「口」。ここでギリシャ語ストマは,話す言葉,もしくは言語能力の同義語として使われている。
あなたたちの髪の毛1本も失われません: イエスは誇張法を使って,弟子たちが「全ての人から憎まれ」ても保護されることを明確に述べた。(ルカ 21:17)文脈から分かるように,イエスがおもに述べているのは,神との関係に関して永遠に危害を被ることのないように守られること。身体的な危害全てから守られることではない。(ルカ 21:16)それでイエスの弟子は,虐待や死から奇跡的に救い出されることは期待しない。しかし,死から復活させるエホバの力を確信できる。(マタ 10:39)この節で動詞にギリシャ語の否定語が2つ付いていることは,イエスの約束の確かさをはっきり強調している。イエスが神の世話に関して弟子たちに述べた「あなたたちは髪の毛まで全て数えられています」という言葉も同様の意味を伝えている。(ルカ 12:7)マタ 10:30の注釈を参照。
あなたたちは髪の毛まで全て数えられています: 人間の髪の毛は平均10万本以上といわれている。エホバはそのような細かな点まで熟知しているので,キリストの後に従う一人一人に強い関心を持っておられることを確信できる。
忍耐: 聖書で使われているギリシャ語名詞ヒュポモネーは,障害,迫害,試練,あるいは誘惑に直面しても希望を失わない,勇敢で確固とした辛抱強い「忍耐」を意味する。関連する動詞ヒュポメノーは「耐え忍ぶ」と訳され,字義的には,「下にとどまる」という意味。しばしば,「逃げずにとどまる」,「自分の立場を固守する」,「粘り強く行い続ける」,「しっかり立っている」という意味で使われる。(マタ 10:22。ロマ 12:12。ヘブ 10:32。ヤコ 5:11)
命を受けます: または,「命を獲得します」。ギリシャ語プシュケーの意味は文脈によって判断しなければならない。(用語集の「プシュケー」参照。)しばしば,現在もしくは将来の命を指す。この文脈では,「将来の命」あるいは「真の命」と訳せる。
ユダヤ: ローマの属州ユダヤのこと。
山に: 4世紀の歴史家エウセビオスによると,ユダヤとエルサレムのクリスチャンはヨルダン川を渡ってペラに逃げた。そこはデカポリスの山地にある町。付録B10参照。
処罰が下される期間: または,「復讐の期間」。神の復讐と処罰がなされる時のこと。イエスは以前にナザレの会堂でイザヤの預言の一部(イザ 61:1,2)を引用して自分に当てはめたが,「私たちの神の復讐の日」に関する部分を引用したとは記録されていない。(ルカ 4:16-21)しかし,イエスは今回,「復讐の期間」について述べ,エルサレムが陣営を張った軍隊に囲まれることを予告した。神の復讐はヘブライ語聖書に書かれていることに含まれていた。ここで「処罰が下される」や「復讐」と訳されているのと同じギリシャ語がセプトゥアギンタ訳の申 32:35,エレ 46:10(26:10,LXX),ホセ 9:7に出ている。それらの聖句では,対応するヘブライ語が「復讐」や「処罰」と訳されている。
異国の人々の定められた時: または,「異邦人の時」。ギリシャ語カイロス(ここでは複数形で「定められた時」と訳されている)は,ある時点,決まったあるいは限定された期間,ある特徴を持つ「季節」を指せる。(マタ 13:30; 21:34。マル 11:13)イエスの宣教が始まる「定められた時」(マル 1:15)やイエスの死の「定めの時」(マタ 26:18,脚注)に関して使われている。さらにカイロスは,神の取り決めや時間表の中の将来の時や時期を指して,特にキリストの臨在と王国に関連して,使われている。(使徒 1:7; 3:19。テサ一 5:1)聖書本文でのカイロスという語の使われ方からすると,「異国の人々の定められた時」という表現は,あいまいで不明確な時を指しているのではなく,始まりと終わりのある決まった期間を指していると思われる。「異国の人々」また「異邦人」という言葉は,ギリシャ語エトノスの複数形を訳したもので,聖書筆者たちはその語をしばしば,ユダヤ人でない異国の人々を指して使った。
人の子: または,「人間の子」。原語で,この表現は福音書に約80回出ている。イエスは自分を指してこの表現を用いた。自分が女性から生まれた紛れもない人間であること,また人類を罪と死から救う力を持つ,アダムにちょうど対応する人間であることを強調したものと思われる。(ロマ 5:12,14,15)この同じ表現は,イエスがメシアすなわちキリストであることも明らかにした。(ダニ 7:13,14)用語集参照。
天の雲: 雲があると見えにくくなるが,人は理解の目で「見」ることができる。(使徒 1:9)
見ます: 「見る」と訳されるギリシャ語動詞は字義的には,「物を見る」,「眺める」という意味だが,心の目で「識別する」,「知覚する」という比喩的な意味でも使われる。(エフ 1:18)
例え: または,「例え話」,「教訓」。マタ 13:3の注釈を参照。
例え: または,「例え話」。ギリシャ語パラボレーは字義的には,「そばに(一緒に)置く」という意味で,例え話,格言,例えなどの形を取る。イエスはある事柄を説明するのによく似た事柄になぞらえる,つまり「そばに置く」ことが度々あった。(マル 4:30)イエスの例えは短い話でたいていは創作的なものであり,そこから道徳上また宗教上の真理を引き出すことができた。
天と地は過ぎ去ります: 他の聖句は,天と地が永遠に存続することを示している。(創 9:16。詩 104:5。伝 1:4)それでイエスのこの言葉は誇張表現で,仮にあり得ないことが起きて天と地が過ぎ去ったとしても,イエスの言葉は実現する,という意味だと理解することもできる。(マタ 5:18と比較。)一方,ここで述べられているのは,啓 21:1で「以前の天と以前の地」と呼ばれている比喩的な天と地のこととも考えられる。
私の言葉は決して過ぎ去りません: または,「私の言葉が過ぎ去ることは絶対にありません」。動詞にギリシャ語の否定語が2つ付いて強い打ち消しを表し,イエスの言葉の永続性をはっきり強調している。
天と地は過ぎ去ります: マタ 24:35の注釈を参照。
私の言葉は決して過ぎ去りません: マタ 24:35の注釈を参照。
メディア

ラビの資料によれば,ヘロデの建てた神殿にはショファルの箱と呼ばれる寄付箱が13個あった。ヘブライ語ショーファールは「雄羊の角」という意味で,その寄付箱の少なくとも一部が角笛もしくはラッパのような形をしていたことを示しているのかもしれない。イエスは,憐れみの施しをする時に比喩的な意味でラッパを吹く人を非難したが,それを聞いた人たちは,ラッパの形の寄付箱に硬貨が入れられる時の音を思い起こしたかもしれない。(マタ 6:2)やもめが寄付した2枚の小さな硬貨は入れた時にそれほど音がしなかったと思われるが,イエスはやもめとその寄付がエホバにとって貴重であることを示した。

西壁の南の部分にあるこれらの石は,1世紀の神殿の丘にあった建造物に使われていたと考えられている。エルサレムとその神殿がローマ人に破壊された事実を思い出させるものとなっている。

イエスは,エルサレムとユダヤの住民が「剣の刃に倒れ」ると予告した。(ルカ 21:24)写真にある2000年前の剣は,ローマ人に対する反乱が起きた西暦66年にエルサレムに配置されていたローマの歩兵隊に属する兵士のものだと思われる。長さは約60センチで,腐食した革のさやに収まったままだった。この剣は最近,考古学者がダビデの町とエルサレムの西壁近くにある考古学公園との間の排水溝を発掘している時に見つかった。(2011年に発表)この排水溝は,西暦70年のエルサレムの滅びに先立つ動乱の時期にエルサレムの住民の隠れ場になっていたと思われる。

イエスは,エルサレムとその神殿に起きる事柄に関する大預言の中で,ユダヤの住民が「捕らわれて全ての国の人々のもとへ引いていかれます」と予告した。(ルカ 21:21,24)写真の硬貨はイエスの言葉が実現したことを示す明確な証拠。ユダヤ攻略を祝うこうした硬貨は西暦71年に最初に鋳造された。硬貨の片面には,皇帝ウェスパシアヌスの息子ティトゥスの像が描かれている。ティトゥスはウェスパシアヌスが着手したユダヤ征服を完了した。硬貨のもう一方の面には,ヤシの木の横に,後ろ手に縛られた捕虜のユダヤ人男性と,座って悲しむユダヤ人女性が描かれている。IVDAEA CAPTAという文字が刻まれていて,これは「捕らわれのユダヤ」という意味。