ヨハネ​に​よる​福音​書 5:1-47

5  この後,ユダヤ人の祭り+があって,イエスはエルサレムに上っていった。  さて,エルサレムにある羊の門+の所に,ヘブライ語でベツザタと呼ばれる池があり,そこに5つの柱廊があった。  その柱廊には,病気の人,目が見えない人,足が不自由な人,体がまひした*人などが大勢,横たわっていた。  ―  そこに,38年間も病気の男性がいた。  イエスはこの男性が横たわっているのを見,もう長いこと病気であるのに気付いて,「良くなりたいですか」と言った+  病気の男性は答えた。「旦那さま,私には,水が揺れる時に池に入れてくれる人がいません。私が行こうとすると,ほかの人が先に下りてしまいます」。  イエスは言った。「起き上がり,その敷物を持って,歩きなさい+」。  すると男性はすぐに良くなり,敷物を持って歩き始めた。 その日は安息日だった+ 10  それでユダヤ人たちは,治った人に言いだした。「安息日だから,敷物を運んではいけない+」。 11  男性は答えた。「治してくださった方が,『敷物を持って,歩きなさい』と言いました」。 12  ユダヤ人たちは,「『それを持って,歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。 13  しかし,癒やされた人はそれが誰かを知らなかった。イエスはその場の群衆に紛れ込んでしまっていた。 14  この後,イエスはその男性を神殿で見つけて,言った。「あなたは良くなりました。もう罪を犯してはなりません。もっとひどいことがあなたの身に起きないためです」。 15  男性は去っていき,治してくれたのはイエスだとユダヤ人たちに告げた。 16  そのため,ユダヤ人たちはイエスを迫害しだした。安息日にそうしたことをしていたからである+ 17  それに対してイエスは言った。「私の父は今までずっと働いてきました。それで私も働き続けています+」。 18  このため,ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとするようになった。安息日を破っているだけでなく,神を自分の父と呼んで自分を神のような者としている,という理由だった+ 19  それでイエスはユダヤ人たちにこう言った。「はっきり言っておきますが,子は自分からは何一つ行えず,父がしていることを見て行えるにすぎません+。何でも父がすることを子も同じように行います。 20  父は子に愛情を抱いていて+,自分がすること全てを子に示します。また,こうした行いより偉大なことを子に示し,あなた方は驚くことになります+ 21  父が死者を生き返らせて命を与えるように+,子も自分が望む人に命を与えるからです+ 22  父は誰一人裁かず,裁くことを全て子に委ねています+ 23  全ての人が,父を尊ぶように子を尊ぶためです。子を尊ばない人は,子を遣わした父を尊んでいません+ 24  はっきり言っておきますが,私の言葉を聞いて,私を遣わした方を信じる人は,永遠の命を受けます+。断罪されず,死から命へと移っています+ 25  はっきり言っておきますが,死者が神の子の声を聞き,注意を払った人たちが生きる時が来ます。今がその時です。 26  父は,自分が命を与える力を持っているように+,子が命を与える力を持つことを許したからです+ 27  そして,裁きを行う権威を彼に与えました+。彼が人の子+だからです。 28  このことに驚いてはなりません。記念の墓の中にいる人が皆,彼の声を聞いて出てくる時が来るのです+ 29  良いことをした人は命の復活へ,悪いことを行った人は裁きの復活へと出てきます+ 30  私は自分からは何一つ行えません。聞く通りに裁きます。私の裁きは正しいものです+。自分の意志ではなく,私を遣わした方の意志に沿って行うからです+ 31  もし私だけが私について証言するのであれば,私の証言は真実ではありません+ 32  私について証言する方が別にいて,その方がする証言は真実であることを私は知っています+ 33  あなた方はヨハネの所に人々を遣わし,ヨハネは真理について証言しました+ 34  私は人からの証言を必要としませんが,あなた方が救われるために,このことを言います。 35  彼は燃えて輝くランプでした。そして,あなた方はしばらくの間,彼の光を受けて喜びにあふれたいと思っていました+ 36  しかし,ヨハネの証言に勝る証拠があります。天の父が私に与えて成し遂げさせる仕事そのもの,つまり私がしていることです。それが,父が私を遣わしたことの証拠となるのです+ 37  また,私を遣わした父が私について証言してくださいました+。あなた方はこれまで父の声を聞いたことがなく,その姿を見たこともありません+ 38  そして,あなた方の心には父の言葉がとどまっていません。父が遣わした者を信じないからです。 39  あなた方は聖書によって永遠の命を受けられると考えて,それを調べています+。それこそ私について証言するものです+ 40  それなのに,あなた方は命を受けるために私の所に来ようとしません+ 41  私は人*からの称賛を受け入れたりはしません。 42  一方,あなた方は心に神への愛を抱いていません。私はそのことをよく知っています。 43  私が天の父の名によって来ているのに,あなた方は私を受け入れません。ほかの人が自分の名によって来れば,あなた方はその人を受け入れるでしょう。 44  あなた方は互いに称賛し合って+,唯一の神からの称賛を求めていない+のですから,どうして信じることができるでしょうか。 45  私があなた方を父に訴えるとは考えないでください。あなた方を訴える人がいます。あなた方が望みを置いているモーセです+ 46  実際,あなた方が本当にモーセを信じているなら,私を信じるはずです。モーセは私について書いたからです+ 47  しかし,モーセが書いた物を信じないのであれば,どうして私が言うことを信じるでしょうか+」。

脚注

または,「なえた」。直訳,「乾き切った」。
または,「人間」。

注釈

過ぎ越しの祭り: イエスは西暦29年秋のバプテスマの後,伝道活動を開始した。それで,ここで述べられている宣教初期の過ぎ越しは西暦30年春に行われたものだったに違いない。(ルカ 3:1の注釈付録A7を参照。)4つの福音書を比較することで,イエスの地上での宣教期間中に過ぎ越しが4回あったことが示され,宣教が3年半続いたという結論になる。マタイ,マルコ,ルカの福音書(しばしば共観福音書と呼ばれる)は,イエスが死んだ時の4回目の過ぎ越し以外は述べていない。ヨハネは3つの過ぎ越しについてはっきり述べている。(ヨハ 2:13; 6:4; 11:55)そして,もう1つはヨハ 5:1の「ユダヤ人の祭り」という表現で言及されていると思われる。これは,イエスの生涯をより詳しく理解するために福音書の記述を比較することの価値をよく示す1例。ヨハ 5:1; 6:4; 11:55の注釈を参照。

ユダヤ人の祭り: ヨハネはどの祭りのことかを明確にしていないが,西暦31年の過ぎ越しと結論できる十分の理由がある。ヨハネの記述は一般に出来事の起きた順に書かれている。文脈からすると,この祭りはイエスが「収穫までまだ4カ月ある」と言った少し後のこと。(ヨハ 4:35)この収穫の季節,特に大麦の収穫は大体,過ぎ越しの時(ニサン14日)に始まった。それで,イエスがこう述べたのは,過ぎ越しの4カ月ほど前,つまりキスレウの月(11月から12月にかけて)のころだったようだ。献納の祭りとプリムの祭りの2つもキスレウとニサンの間に行われた。しかし,イスラエル人はこの祭りのためにエルサレムに上っていくことは求められていなかった。それでこの文脈で,イエスがイスラエルに対する神の律法に従ってエルサレムで参加する必要があった「ユダヤ人の祭り」としては過ぎ越しが最も可能性が高いと思われる。(申 16:16)確かに,ヨハネは次の過ぎ越しのことを述べる前にほんのわずかの出来事しか記していないが(ヨハ 6:4),付録A7の表からすると,イエスの初期の宣教に関するヨハネの記述はかなり省略されており,他の3人の福音書筆者がすでに書いた多くの出来事については述べていない。実のところ,他の3人の福音書筆者が記したイエスの数多くの活動によって,ヨハ 2:13ヨハ 6:4にある過ぎ越しの間にもう1回,年ごとの過ぎ越しが確かにあったという結論は信頼できるものとなっている。付録A7ヨハ 2:13の注釈を参照。

ヘブライ語: ギリシャ語聖書で,聖書筆者は「ヘブライ語」という語を,ユダヤ人が話した言語(ヨハ 19:13,17,20。使徒 21:40; 22:2。啓 9:11; 16:16)や,復活して栄光を受けたイエスがタルソスのサウロに話し掛けた言語を指して使った。(使徒 26:14,15使徒 6:1では,「ヘブライ語を話すユダヤ人」と「ギリシャ語を話すユダヤ人」は区別されている。それらの箇所の「ヘブライ語」という語は「アラム語」と訳すべきだと考える学者もいるが,その語が実際にヘブライ語を指して使われていると考えるべき十分の理由がある。医者ルカが,パウロはエルサレムの人々に「ヘブライ語で」話したと述べた時,パウロは,ヘブライ語で書かれたモーセの律法を学ぶことが生活の中心になっていた人たちに話し掛けていた。死海文書を構成する大量の断片や写本のうち,聖書関係のものも聖書とは無関係のものも,ほとんどがヘブライ語で書かれていて,ヘブライ語が日常的に使われていたことを示している。アラム語の断片も数は少ないが見つかっていて,両方の言語が使われていたことも分かる。それで,聖書筆者が「ヘブライ語」という語を使っている時,実際にはアラム語やシリア語を指していたとは考えにくい。(使徒 21:40; 22:2。使徒 26:14と比較。)ヘブライ語聖書では,以前から「アラム語」と「ユダヤ人の言語」が区別されていて(王二 18:26),1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは聖書のその記述を考慮し,「アラム語」と「ヘブライ語」を別個の言語と述べている。(「ユダヤ古代誌」,X,8 [i,2])アラム語とヘブライ語にはよく似た言葉があり,アラム語からヘブライ語に取り入れられた言葉もあっただろう。とはいえ,ギリシャ語聖書の筆者たちがアラム語のことをヘブライ語と言う理由は一つもないと思われる。

ベツザタ: 「オリーブの家」という意味のヘブライ語の名前。一部の写本で,この池は「ベテスダ」と呼ばれている。これは「憐れみの家」という意味かもしれない。「狩人[または,漁師]の家」という意味の「ベツサイダ」としている写本も幾つかある。今日,ベツザタという名前を好む学者が多い。

3節の終わりから4節にかけて以下の文の全体もしくは一部を加えている写本もある。「水が動くのを待っていた。4 主の[または,「エホバの」]天使が季節ごとにその池の中に下りてきて,水を揺らすからだった。その時,水が揺れた後に最初に入った人は,どんな病気を患っていても,治って健康になるのである」。しかし,これは権威ある初期の幾つかの写本には出ておらず,ヨハネの原文の一部ではないと思われる。(付録A3参照。)ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の幾つか(付録C4のJ9,22,23)で,「主の天使」の代わりに「エホバの天使」と訳されている。

病気の人……横たわっていた: 水が揺れる時にその池に入ると癒やされる,と一般に信じられていた。(ヨハ 5:7)それで,治ることを願う人たちがその場所に集まっていた。しかし,聖書は神の天使がベツザタの池で奇跡を行ったとは述べていない。(ヨハ 5:4の注釈を参照。)イエスがその池で奇跡を行ったことは述べていて,男性は水に入らなかったがすぐに癒やされたことは注目に値する。

3節の終わりから4節にかけて以下の文の全体もしくは一部を加えている写本もある。「水が動くのを待っていた。4 主の[または,「エホバの」]天使が季節ごとにその池の中に下りてきて,水を揺らすからだった。その時,水が揺れた後に最初に入った人は,どんな病気を患っていても,治って健康になるのである」。しかし,これは権威ある初期の幾つかの写本には出ておらず,ヨハネの原文の一部ではないと思われる。(付録A3参照。)ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の幾つか(付録C4のJ9,22,23)で,「主の天使」の代わりに「エホバの天使」と訳されている。

敷物: または,「寝床」。聖書の地で,寝床はわらやイグサで作られた簡素な敷物が多く,快適さを増すためにキルティングやある種のマットレスが付いていたかもしれない。使用しない時は巻き上げて片付けた。この文脈で,ギリシャ語クラバットスは貧しい人の寝床を指すと思われる。マル 2:4-12で,同じギリシャ語は,まひした男性を乗せた「担架」を指している。

ユダヤ人: この語はヨハネの福音書で,文脈によっていくらか異なる意味を伝えている。ユダヤ人全般,ユダヤに住んでいる人,エルサレムやその近くに住んでいる人を指す場合がある。モーセの律法に関連した人間の伝統を厳格に守ってイエスに敵意を抱くユダヤ人を指すこともある。この文脈で,「ユダヤ人」は,ユダヤ人の権力者または宗教指導者を指すと思われる。とはいえ,この語は伝統に熱心な他のユダヤ人も含めて広く使われたのかもしれない。

もう罪を犯してはなりません: イエスの言葉は,この男性が何か罪を犯したので病気になったという意味ではない。イエスが治した男性が38年間病気だったのは,受け継いだ不完全さのためだった。(ヨハ 5:5-9。ヨハ 9:1-3と比較。)イエスはその男性に,憐れみを示されて癒やされたからには救いの道を歩んで故意の罪を避けるようにと勧めていた。そのような罪は,病気よりもっとひどい結果,永遠の滅びをもたらしかねない。(ヘブ 10:26,27

迫害しだした: ここのギリシャ語動詞の未完了形は,ユダヤ人がイエスを迫害し始めて,そうし続けていることを示している。ユダヤ人とは,ユダヤ教の指導者やモーセの律法に関連した人間の伝統を厳格に守っているユダヤ人を指すのだろう。

自分を神のような者としている: 直訳,「自分を神に等しい者としている」。イエスが神を父と呼んだのは正しいことだったが,自分は神と等しいと主張したことはない。(ヨハ 5:17)神を父と呼んで自分を神に等しい者としようとしているとイエスを訴えたのはユダヤ人だった。イエスが安息日を破ったというユダヤ人の主張が間違いだったように,この訴えも間違いだった。イエスは19節から24節の言葉でこの点をはっきりさせ,自分からは何一つ行えないと述べた。明らかにイエスは,神と等しいと主張してはいなかった。(ヨハ 14:28

自分からは: または,「自力では」。つまり,単独では。イエスは神の代理を務める主要な者として,いつもエホバの声に耳を傾け,エホバの指示する事柄を話す。

父は子に愛情を抱いていて: イエスはここで,創造の当初から自分と父との間にある温かな一致の絆と親しい関係を表現している。(格 8:30)ヨハネはこの関係を述べるイエスの言葉を記した時,ギリシャ語動詞フィレオー(「愛情を抱く」)を使った。この動詞はしばしば,真の友の間に存在するような非常に強い絆を表す。例えば,イエスとラザロの間にあった友情の絆を表すのに使われている。(ヨハ 11:3,36)親と子の家族関係を表すのにも使われている。(マタ 10:37)同じ動詞フィレオーは,エホバがご自分の子の弟子たちに抱く強くて温かい個人的な愛着,および弟子たちが神の子に抱く温かい感情を示すのにも使われている。(ヨハ 16:27

命の……裁きの: こことヨハ 5:24で,「裁き」は「命」や「永遠の命」と対比されていて,死という結果になる裁きを指している。(ペ二 2:9; 3:7ヨハ 5:24の注釈を参照。)ギリシャ語聖書で「裁き」と訳されるギリシャ語(クリシス)はほとんどの場合,有罪の裁きを意味する。文脈や他の聖句から分かるように,イエスが述べている裁きは,人が死ぬ前に行ったことではなく,復活した後の行動に基づいている。ロマ 6:7は「死んだ人は自分の罪から放免されている」と述べている。復活する個々の人は,永遠の「命」の報いを得る従順な人か死の「裁き」に至る不従順な人かを自分の歩み方によって示す。

死人は死人に葬らせ……なさい: ルカ 9:59の注釈にあるように,イエスが話していた男性の父親は死んだのではなく,病弱だったか年を取っていたのだと思われる。それで,イエスは「神から見て死んでいる人に死人を葬らせなさい」と言っていたと考えられる。つまり,父親が亡くなるまで世話できる親族がほかにいたようなので,男性はイエスの後に従うという決定を引き延ばすべきではなかった。男性はイエスの後に従うなら,神から見て死んでいる人たちの1人になるのではなく,永遠の命への道を歩むことになる。イエスは,生活の中で神の王国を第一にしてそれを遠く広く知らせることが神から見て生きていくうえで鍵となることを示している。

死者: イエスは,死者が「神の子の声を聞」くだと述べているので,アダムから罪を受け継いで死の宣告を受けた生きている人間のこととしか取れない。(ロマ 5:12)神の観点では,罪の「代償」は死なので,人類全体は命を持つ権利がない。(ロマ 6:23)イエスの「言葉」を聞いてそれに従う人は,比喩的に「死から命へと移」ることができる。(ヨハ 5:24の注釈を参照。)聖書で「聞く」という語はたびたび,「注意を払う」,「従う」という意味で使われている。

断罪されず: 直訳,「裁きに至らず」。「裁き」と訳されるギリシャ語クリシスは,幾つかの意味合いを伝える。どんな意味かは文脈によって決まる。例えば,裁くこと(ヨハ 5:22),公正(マタ 23:23。ルカ 11:42),法廷(マタ 5:21)を意味する。有利な裁きも不利な裁きも指せるが,ギリシャ語聖書ではほとんどの場合,有罪の裁きという考えを伝える。この節で,この語は永遠の命と対比して,と並べて使われている。それで,命を失う結果になる裁きを指している。(ペ二 2:9; 3:7ヨハ 5:29の注釈を参照。

死から命へと移っています: イエスが述べているのは,かつては神から見て死んでいたものの,イエスの言葉を聞いて信仰を持ち,罪深い歩みをやめた人たちのことだと思われる。(エフ 2:1,2,4-6)その人たちは,死の宣告を取り下げられて,神への信仰ゆえに永遠の命の希望を与えられるという意味で「死から命へと」移る。イエスは,ユダヤ人の息子が家に帰って父を葬らせてくださいと言った時,「死人は死人に葬らせ……なさい」と告げた。この時も,神から見て死んでいる人のことを述べていたと思われる。(ルカ 9:60ルカ 9:60,ヨハ 5:25の注釈を参照。

死から命へと移っています: イエスが述べているのは,かつては神から見て死んでいたものの,イエスの言葉を聞いて信仰を持ち,罪深い歩みをやめた人たちのことだと思われる。(エフ 2:1,2,4-6)その人たちは,死の宣告を取り下げられて,神への信仰ゆえに永遠の命の希望を与えられるという意味で「死から命へと」移る。イエスは,ユダヤ人の息子が家に帰って父を葬らせてくださいと言った時,「死人は死人に葬らせ……なさい」と告げた。この時も,神から見て死んでいる人のことを述べていたと思われる。(ルカ 9:60ルカ 9:60,ヨハ 5:25の注釈を参照。

死者: イエスは,死者が「神の子の声を聞」くだと述べているので,アダムから罪を受け継いで死の宣告を受けた生きている人間のこととしか取れない。(ロマ 5:12)神の観点では,罪の「代償」は死なので,人類全体は命を持つ権利がない。(ロマ 6:23)イエスの「言葉」を聞いてそれに従う人は,比喩的に「死から命へと移」ることができる。(ヨハ 5:24の注釈を参照。)聖書で「聞く」という語はたびたび,「注意を払う」,「従う」という意味で使われている。

自分の内に命を: ヨハ 5:26でイエスは,父が「命を与える力を」(直訳,「自分の内に命を」)持っているように自分も「命を与える力を」授けられた,と述べた。(ヨハ 5:26の注釈を参照。)その約1年後の今,イエスは弟子たちについて同じ表現を使っている。ここでイエスは,「自分の内に命を」持つとは「永遠の命」を得ることと同じだとしている。(ヨハ 6:54)この文脈で「自分の内に命を」という表現は,命を与える力を意味するのではなく,命の十分に満ちた状態を得る,簡単に言えば存分に生きることを指すようだ。天に行くよう選ばれたクリスチャンは,天での不滅の命に復活させられると,存分に生きられるようになる。地上で生きる希望を持つ忠実な人は,キリストの千年統治が終わった直後に最終的に試され,それを通過すると,存分に生きることができる。(コ一 15:52,53。啓 20:5,7-10

自分が命を与える力を持っている: 直訳,「自分の内に命を持っている」。イエスが「命を与える力」を持っているのは,もともとエホバだけが持っていた力を父から与えられたから。この力には,神の前での良い立場を得て命を得る機会を人間に与える権威が含まれる。死者を復活させて命を与える能力も含まれるだろう。イエスは,ここに記されている言葉を述べてから約1年後に,弟子たちが自分の内に命を持てることを示した。イエスが弟子たちに関して使った「自分の内に命を持」つという表現の意味については,ヨハ 6:53の注釈を参照。

人の子: または,「人間の子」。原語で,この表現は福音書に約80回出ている。イエスは自分を指してこの表現を用いた。自分が女性から生まれた紛れもない人間であること,また人類を罪と死から救う力を持つ,アダムにちょうど対応する人間であることを強調したものと思われる。(ロマ 5:12,14,15)この同じ表現は,イエスがメシアすなわちキリストであることも明らかにした。(ダニ 7:13,14用語集参照。

人の子: マタ 8:20の注釈を参照。

記念の墓: これはギリシャ語ムネーメイオンの訳で,墓を指す。その語は,「覚えている」,「(自分に)思い出させる」という意味の動詞ミムネースコマイに由来する。それで,故人の記憶を保つという意味を伝える。この文脈では,死んだ人が神に覚えられていることが示唆されている。こうした意味を考えると,イエスの傍らで処刑された犯罪者が,「王国に入る時に私を思い出してください[ミムネースコマイ]」と嘆願した言葉をルカが記すのに使った語に,より深い意味があることが分かる。(ルカ 23:42

断罪されず: 直訳,「裁きに至らず」。「裁き」と訳されるギリシャ語クリシスは,幾つかの意味合いを伝える。どんな意味かは文脈によって決まる。例えば,裁くこと(ヨハ 5:22),公正(マタ 23:23。ルカ 11:42),法廷(マタ 5:21)を意味する。有利な裁きも不利な裁きも指せるが,ギリシャ語聖書ではほとんどの場合,有罪の裁きという考えを伝える。この節で,この語は永遠の命と対比して,と並べて使われている。それで,命を失う結果になる裁きを指している。(ペ二 2:9; 3:7ヨハ 5:29の注釈を参照。

復活: ギリシャ語アナスタシスは字義的には,「起き上がらせること」,「立ち上がること」という意味。ギリシャ語聖書で死者の復活を指して40回ほど使われている。(マタ 22:31。使徒 4:2; 24:15。コ一 15:12,13)セプトゥアギンタ訳のイザ 26:19では,「あなたの死者は生きる」という表現に含まれるヘブライ語動詞の訳としてアナスタシスの動詞形が使われている。用語集参照。

命の……裁きの: こことヨハ 5:24で,「裁き」は「命」や「永遠の命」と対比されていて,死という結果になる裁きを指している。(ペ二 2:9; 3:7ヨハ 5:24の注釈を参照。)ギリシャ語聖書で「裁き」と訳されるギリシャ語(クリシス)はほとんどの場合,有罪の裁きを意味する。文脈や他の聖句から分かるように,イエスが述べている裁きは,人が死ぬ前に行ったことではなく,復活した後の行動に基づいている。ロマ 6:7は「死んだ人は自分の罪から放免されている」と述べている。復活する個々の人は,永遠の「命」の報いを得る従順な人か死の「裁き」に至る不従順な人かを自分の歩み方によって示す。

復活: マタ 22:23の注釈を参照。

自分からは: または,「自力では」。つまり,単独では。イエスは神の代理を務める主要な者として,いつもエホバの声に耳を傾け,エホバの指示する事柄を話す。

聞く通りに: 裁く点で最高の方である父から,ということ。

別: 明らかに父を指す。(ヨハ 5:34,37

聖書: この表現は多くの場合,ヘブライ語聖書全体を指している。聖書を注意深く調べていたユダヤ人は,イエスの生活や教えを聖書が予告していた事柄と比較することによってイエスがメシアだと容易に識別できたはず。しかし,イエスが約束のメシアであることを示す聖書の豊富な証拠を誠実に調べようとしなかった。聖書によって永遠の命を受けられると考えていたが,命を得るための真の手段として聖書が示している方イエスを受け入れようとしなかった。(申 18:15。ルカ 11:52。ヨハ 7:47,48

それ: 節の前半に出ている聖書のこと。その聖書に収められているメシアに関する預言は,イエスの話を聞く人たちがイエスを通して「永遠の命」を得られることを示していた。

唯一の神: 初期の一部の写本には「神」という語が含まれておらず,「唯一の方」と訳せる。しかし,ここの訳の読みには権威ある初期の他の写本による強力な裏付けがある。

メディア

ベツザタの池
ベツザタの池

ヨハネの福音書にだけ,ベツザタと呼ばれる池のことが出ていて,それは「エルサレムにある羊の門の所に」あった。(ヨハ 5:2)この門はヘブライ語聖書に出ている羊の門のことだと思われる。それは都市の北東の角にあった。(ネヘ 3:1,32; 12:39)あるいは,ヨハネが述べる「羊の門」はヘブライ語聖書に出ている門より後代に造られたものかもしれない。考古学者たちは神殿の丘の北で,ヨハネの説明と一致するような大きな池の遺跡を発見した。発掘により,縦46メートル,横92メートルほどの敷地に2つのくぼ地がある池のあったことが明らかになっている。福音書の記述によれば,池には「5つの柱廊」があり,病気の人や体の不自由な人が「大勢」集まることができた。(ヨハ 5:2,3)5つの柱廊のうちの1つは北と南のくぼ地を仕切る部分にあり,残りの4つは池の周りを囲んでいたと思われる。

1. ベツザタ

2. 神殿の丘