ヨハネ​に​よる​福音​書 12:1-50

12  イエスはしの6まえにベタニヤ+とうちゃくした。そこには,イエスがかえらせたラザロ+がいた。  イエスのためにそこでゆうしょくかいもうけられた。マルタはきゅうしていて+,ラザロはイエスといっしょしょくをして*いるひとびとなかにいた。  そのときマリアは,じょうこうこうじゅんすいのナルドを300グラムってきて,イエスのあしそそぎ,かみいてかわかした+いえこうかおりでいっぱいになった+  しかし,1人ひとりで,イエスをうらろうとしていたユダ・イスカリオテ+った。  「どうしてこのこうを300デナリでって,まずしいひとたちにほどこしをしなかったのか」。  とはいえ,ユダがそうったのは,まずしいひとたちのことをけていたからではなく,かれどろぼうで,かんしていたかねばこからよくぬすんでいたからだった。  そこでイエスはった。「マリアをそのままにしておきなさい。わたしほうむられるのためにおこなっているのです+  まずしいひとたちはずっといますが+わたしはずっといるわけではありません+」。  そのあいだに,おおぜいのユダヤじんが,イエスがそこにいることをってやってた。イエスだけではなく,かえらされたラザロもるためだった+ 10  さいちょうたちはラザロもころそうとそうだんした+ 11  ラザロのために,おおくのユダヤじんがベタニヤへき,イエスにしんこうつようになったからである+ 12  つぎまつりにていたおおぜいひとたちは,イエスがエルサレムにることをいた。 13  そしてヤシのえだってイエスをむかえに+,こうさけはじめた。「おすくいください,このかたを! エホバのによってかた,イスラエルのおうしゅくふくされますように+!」 14  イエスは,わかいロバをつけてった+。こういてあるとおりである。 15  「おそれることはない,シオンよ。あなたのおうる。ロバのっている+」。 16  たちははじめこれらのことをかいできなかったが+,イエスがえいこうけたとき+,イエスについていてあるとおりのことがきたということがかった+ 17  イエスがラザロをはかからして+かえらせるのをひとびとは,そのことをかたつづけた+ 18  それもあって,おおくのひとが,イエスがこのせき*おこなったことをいて,いにった。 19  それでパリサイひとたちはたがいにこうった。「ぜんぜんうまくいかない。なさい,だれ*かれいていってしまった+」。 20  さて,すうはいのためにまつりにひとびとなかにギリシャじんたちがいた。 21  そのひとたちは,ガリラヤのベツサイダのひとフィリポ+ところて,「イエスにいたいのですが」とたのはじめた。 22  フィリポはってアンデレ+つたえ,2人ふたりってイエスにつたえた。 23  イエスはこうこたえた。「ひとえいこうけるときました+ 24  はっきりっておきます。1つぶむぎめんちてなないかぎり,ただ1つぶのままです。しかし,ぬなら+おおくのむすびます。 25  ぶんいのちしゅうちゃくするひとはそれをうしないますが,このかいぶんいのちしまない+ひとは,それをたもってえいえんいのちます+ 26  わたしつかえようとおもひとは,わたしあとしたがいなさい。わたしがいるところにそのひともいることになります+わたしつかえようとおもひとは,てんちちとうとばれます。 27  いまわたしこころさわいでいます+なんえばよいのでしょう。ちちよ,わたしをこのたいからすくしてください+。しかしやはり,わたしはまさにこのためにたのです。 28  ちちよ,おまええいこうあるものとしてください」。すると,てんからこえがあった+。「わたしはすでにそれをえいこうあるものとし,ふたたえいこうあるものとする+」。 29  そこにっていたぐんしゅうはそれをいて,かみなりったのだといだした。「てん使かれはなけたのだ」とひともいた。 30  それにたいしてイエスはった。「このこえがしたのは,わたしのためではなく,みなさんのためです+ 31  いま,このさばかれています。もうこのはいしゃ+されます+ 32  わたしほうは,めんからげられたなら+,あらゆるひとわたしせます+」。 33  イエスは,ぶんがどんなげようとしているかをしめすために+そうっていた。 34  それにたいしてぐんしゅうった。「わたしたちは,キリストがえいきゅうにとどまるとりっぽうにあるのをきました+ひとげられなければならないとうのはなぜですか+ひととはだれですか」。 35  イエスはった。「ひかりはもうしばらくみなさんのあいだにあります+ひかりがあるうちにあるきなさい。やみせいふくされないためです。やみなかあるひとは,ぶんがどこへくのかをりません+ 36  ひかりがあるうちにひかりしんこういだきなさい。ひかりとなるためです+」。 イエスはこれらのことをってっていき,かくした。 37  イエスがひとびとまえじょうおおくのせきおこなってきたのに,ひとびとはイエスにしんこうたず, 38  げんしゃイザヤのこのことじつげんした。「エホバ,わたしたちからいたことだれしんこうったでしょうか+。エホバのちからだれしめされたでしょうか+」。 39  イザヤは,かれらがしんじることができなかったゆうについて,こうもっている。 40  「わたしかれらのえなくし,かれらのこころかたくさせた。かれらがず,こころかいせず,かたえず,わたしかれらをやすことのないためである+」。 41  イザヤはキリストのえいこうたので,かれについてこれらのことをかたった+ 42  じっさいには,おおくのはいしゃたちもイエスにしんこうった+。しかしパリサイおそれて,かいどうからついほうされないために,こうげんしようとはしなかった+ 43  かみからのしょうさん*よりもひとからのしょうさん*あいしたのである+ 44  イエスはおおごえった。「わたししんこうひとは,わたしだけでなく,わたしつかわしたかたにもしんこうちます+ 45  また,わたしひとは,わたしつかわしたかたをもます+ 46  わたしひかりとしてました+わたししんこうひとだれやみなかにとどまることのないためです+ 47  とはいえ,わたしこといてまもらないひとがいても,わたしさばきません。わたしたのは,だんざいするためではなく,すくうためだからです+ 48  わたししてわたしことれないひとさばかれます。わたしはなしたことわりのさばくのです+ 49  わたしぶんかんがえではなしたのではなく,わたしつかわしたてんちちが,なになにおしえるべきかをめいじました+ 50  わたしは,えいえんいのちるにはちちのおきてにしたがひつようがある*ことをっています+。それで,なんでもちちからげられたとおりにはなしています+」。

脚注

または,「食卓で横になって」。
直訳,「しるし」。
直訳,「世」。
または,「是認」。
または,「是認」。
または,「父のおきてが永遠の命である」。

注釈

イエスがベタニヤで: マタ 26:6-13の出来事はニサン9日が始まる日没の後に起きたと思われる。ヨハネにある並行記述がそれを示している。そこには,イエスが「過ぎ越しの6日前に」ベタニヤに到着した,とある。(ヨハ 12:1)ニサン8日の安息日が始まる(日没の)頃に到着したに違いない。その翌日,シモンの所で食事をした。(ヨハ 12:2-11付録A7B12参照。

ベタニヤ: オリーブ山の東南東斜面にあった村で,エルサレムから3キロほど。(ヨハ 11:18)この村にあったマルタ,マリア,ラザロの家はユダヤでのイエスの拠点だったようだ。(ヨハ 11:1)今日,そこには「ラザロの場所」という意味のアラビア語名を持つ小さな村がある。

ラザロ: 「神は助けた」という意味のヘブライ語の名前エレアザルのギリシャ語形と思われる。

過ぎ越しの6日前に: イエスはニサン8日の安息日が始まる(日没の)頃に到着したに違いない。安息日が終わると(つまりニサン9日の初めに),イエスは重い皮膚病だったシモンの家で夕食会を楽しみ,マルタとマリアとラザロも一緒だった。(ヨハ 12:2-11マタ 26:6の注釈付録A7B12を参照。

ベタニヤ: マタ 21:17の注釈を参照。

ラザロ: ルカ 16:20の注釈を参照。

夕食会: 日没後つまりニサン9日が始まってから,重い皮膚病だったシモンの家で開かれた食事会。(マタ 26:6。マル 14:3

イエスの頭に注ぎ: マタイとマルコによれば,女性はイエスの頭に油を注いだ。(マタ 26:7)数十年後に記したヨハネは,足にも注いだという点を述べている。(ヨハ 12:3)イエスによれば,この愛ある行為はイエスを葬るための準備を比喩的に表すものだった。マル 14:8の注釈を参照。

マリア: マルタとラザロの姉妹。(ヨハ 11:1,2)並行記述のマタ 26:7マル 14:3では,「女性」と述べられている。

非常に高価な香油: ヨハネの記述では,ユダ・イスカリオテがその香油は「300デナリ」で売れたと言ったことが明示されている。(ヨハ 12:5)この額は一般の労働者の約1年分の賃金に相当した。このような香油の原料は一般に,ヒマラヤ山脈で見られる芳香性の植物(Nardostachys jatamansi)と考えられている。ナルドは,混ぜ物が入れられることが多く,模造されることもあったが,マルコもヨハネもこの時の香油が純粋のナルドだったと述べている。(マル 14:3)用語集の「ナルド」参照。

300グラム: 直訳,「リトラ」。ギリシャ語リトラは普通,ローマ・ポンド(ラテン語リーブラ)に等しいとされている。1リトラは約327グラム。付録B14参照。

イエスの足に注ぎ: マル 14:3の注釈を参照。

初めから: この表現は,ユダが生まれた時や,イエスが一晩中祈って使徒を選んだ時を指すのではない。(ルカ 6:12-16)ユダが裏切る行動を取り始めた時を指し,イエスはすぐにそれに気付いた。(ヨハ 2:24,25。啓 1:1; 2:23ヨハ 6:70; 13:11の注釈を参照。)これはユダの行動が前もって考えられた計画的なもので,突然の心の変化によるものではなかったことも示している。ギリシャ語聖書で「初め」という語(ギリシャ語アルケー)の意味は相対的で,文脈によって決まる。例えば,ペ二 3:4で「始め」は,創造の始まりを指す。しかし,ほとんどの場合は限定的な意味で使われている。例えば,ペテロは「初めに私たちが受けたように」異国の人たちが聖なる力を受けたと述べている。(使徒 11:15)ペテロは,自分が生まれた時や招かれて使徒となった時のことを言っていたのではない。西暦33年のペンテコステの日,つまり聖なる力が特定の目的のために注がれた「初め」のことを言っていた。(使徒 2:1-4)「初め」という語の意味が文脈によって異なることを示す他の例は,マタ 19:8,ヘブ 3:14,ヨ一 2:7にある。

裏切ろうとしていた: この部分では2つのギリシャ語動詞が使われていて,どちらも現在時制で,ユダがイエスを裏切ったのは衝動的なものではなく計画的なものだったと考えることができる。ヨハ 6:64に述べられていることはこの理解を裏付けている。ヨハ 6:64の注釈を参照。

300デナリ: マタイは単に「高く売れて」と記しているが(マタ 26:9),マルコとヨハネはもっと具体的に述べている。マル 14:3の注釈,用語集の「デナリ」,付録B14を参照。

300デナリ: マル 14:5の注釈を参照。

この女性がこの香油を私の体に付けた: この女性(マタ 26:7の注釈を参照)の惜しみない行為はイエスへの愛と感謝の気持ちからだった。イエスによれば,この女性はそれとは知らずに,イエスが葬られる時のための準備をしていた。当時,液状やクリーム状の香油がしばしば死体に塗られた。(代二 16:14

私が葬られる日のために: マタ 26:12の注釈を参照。

そこ: つまりベタニヤ。(ヨハ 12:1

過ぎ越しの6日前に: イエスはニサン8日の安息日が始まる(日没の)頃に到着したに違いない。安息日が終わると(つまりニサン9日の初めに),イエスは重い皮膚病だったシモンの家で夕食会を楽しみ,マルタとマリアとラザロも一緒だった。(ヨハ 12:2-11マタ 26:6の注釈付録A7B12を参照。

次の日: 西暦33年のニサン9日の朝。ニサン9日は前の晩の日没から始まり,その晩にイエスは重い皮膚病だったシモンの家で食事を楽しんだ。ヨハ 12:1の注釈付録B12を参照。

祭り: 文脈から分かるように,これは過ぎ越しの祭り。(ヨハ 11:55; 12:1; 13:1)過ぎ越しはニサン14日に祝われ,無酵母パンの祭りはニサン15日から21日まで続いた。(レビ 23:5,6。民 28:16,17付録B15参照。)イエスの時代,この2つの祭りは密接に結び付いていたため,ニサン14日から21日までの8日間全体が1つの祭りと見なされた。(ルカ 22:1)ヨセフスは「無酵母パンの祝いと呼ばれた8日間の祝い」と述べている。付録B12参照。

お救いください: 直訳,「ホサナ」。このギリシャ語は,「お救いください」または「どうか,救ってください」を意味するヘブライ語から来ている。ここでは,神に救いや勝利を求める嘆願として使われていて,「救いをお与えください」とも訳せる。やがて祈りと賛美の両方の表現になった。そのヘブライ語は詩 118:25にあり,この聖句は過ぎ越しの時期にいつも歌われたハレル詩編の一部だった。それで,人々はこの時にその表現をすぐ思い浮かべた。ダビデの子の救いを求めるこの祈りに神が答えた1つの方法は,イエスを死から復活させたこと。マタ 21:42で,イエス自身が詩 118:22,23を引用し,メシアに適用している。

お救いください: マタ 21:9の注釈を参照。

エホバ: ここでの引用は詩 118:25,26から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録A5と付録C参照。

こう書いてある通りである: ヨハ 12:15の続く引用はゼカ 9:9から取られている。

シオン: 直訳,「シオンの娘」。または,一部の聖書翻訳では,「娘シオン」。聖書は,町を女性として擬人化したり女性を指す語句で比喩的に表したりすることが多い。この表現で,「娘」は町自体もしくは町の人たちを指すのだろう。シオンという名前は都市エルサレムと密接に結び付いていた。

1頭のロバがつながれていて子ロバが一緒にいる: ロバと子ロバの両方が出ているのはマタイの記述だけ。(マル 11:2-7。ルカ 19:30-35。ヨハ 12:14,15)マルコ,ルカ,ヨハネが子ロバのことしか述べていないのは,イエスが子ロバだけに乗ったからだろう。マタ 21:5の注釈を参照。

ロバに……子ロバに: マタ 21:2,7は2頭の動物について述べているが,ゼカ 9:9の預言で王は1頭だけに乗っている。マタ 21:2の注釈を参照。

シオン: マタ 21:5の注釈を参照。

ロバの子: 若いロバのこと。マルコ(11:2),ルカ(19:35),ヨハネの記述はこの出来事に関して,1頭の動物,子ロバのことだけを述べている。マタイ(21:2-7)の記述は,親ロバもいたという点まで述べている。マタ 21:2,5の注釈を参照。

墓: または,「記念の墓」。用語集の「記念の墓」参照。

ギリシャ人: 1世紀,パレスチナにはギリシャ人の植民市がたくさんあった。この文脈でこの語は,ユダヤ人の宗教に改宗していたギリシャ人を指していると思われる。イエスがヨハ 12:32で預言として,「あらゆる人を私に引き寄せます」と述べたことに注目できる。

命: ギリシャ語,プシュケー。用語集の「プシュケー」参照。

奉仕者: または,「仕える人」。聖書で,ギリシャ語ディアコノスは他の人のためにひたすら謙遜に仕える人を指すことが多い。キリスト(ロマ 15:8),キリストの奉仕者(コ一 3:5-7。コロ 1:23),援助奉仕者(フィリ 1:1。テモ一 3:8),また給仕(ヨハ 2:5,9)や政府の役人(ロマ 13:4)を指して使われている。

仕え: または,「奉仕し」。ここで使われているギリシャ語動詞ディアコネオーは,ギリシャ語名詞ディアコノスと関連がある。聖書で,ギリシャ語ディアコノスは他の人のためにひたすら謙遜に仕える人を指すことが多い。マタ 20:26の注釈を参照。

私の心: ここでギリシャ語プシュケーは,人の存在全体を指す。それで,「私の全存在」あるいは単に「私」とも訳せる。用語集の「プシュケー」参照。

声: 福音書の中で,エホバが人間に直接話したことが記されている3つの事例のうち3つ目のもの。1つ目は西暦29年のイエスのバプテスマの時で,マタ 3:16,17,マル 1:11,ルカ 3:22に記されている。2つ目は西暦32年,イエスの姿が変わった時で,マタ 17:5,マル 9:7,ルカ 9:35に記されている。3つ目はヨハネの福音書だけに出ていて,西暦33年,イエスの最後の過ぎ越しの少し前のこと。エホバは,お名前を栄光あるものとしてください,というイエスの願いに答えた。

この世の支配者: 同じような表現がヨハ 14:3016:11に出ていて,悪魔サタンを指している。この文脈で,「世」という語(ギリシャ語コスモス)は,神から遠く離れていて神の意志に反して行動する人間社会を指す。神に従わないこの世は神がつくり出したのではない。それは「邪悪な者の支配下に」ある。(ヨ一 5:19)サタンと「天にいる邪悪な天使の勢力」が,目に見えない「この闇の世の支配者たち[ギリシャ語コスモクラトール]」として活動している。(エフ 6:11,12

追い出されます: イエスの預言的な言葉は,サタンがこの世の支配者の立場を追われる将来の時のことを述べている。

引き寄せて: 「引き寄せる」に当たるギリシャ語動詞は,漁網を手繰り寄せることに関して使われるが(ヨハ 21:6,11),神が人の意思を無視して引っ張るということではない。この動詞は「引き付ける」ことも意味する。イエスの言葉はエレ 31:3に言及しているのかもしれない。その聖句でエホバはご自分の古代の民に,「揺るぎない愛をもってあなたを引き寄せた」と言った。(セプトゥアギンタ訳はここで同じギリシャ語動詞を使っている。)ヨハ 12:32注釈を参照)によれば,イエスも同じようにあらゆる人を自分に引き寄せる。聖書は,エホバが人間に自由意思を与えたことを示している。エホバに仕えるかどうかは誰もが選択できる。(申 30:19,20)神は,正しい態度を持つ人をご自分に優しく引き寄せる。(詩 11:5。格 21:2。使徒 13:48)エホバは,聖書の音信によって,また聖なる力によってそうする。ヨハ 6:45に引用されているイザ 54:13の預言は,父に引き寄せられた人たちに当てはまる。(ヨハ 6:65と比較。)

ギリシャ人: 1世紀,パレスチナにはギリシャ人の植民市がたくさんあった。この文脈でこの語は,ユダヤ人の宗教に改宗していたギリシャ人を指していると思われる。イエスがヨハ 12:32で預言として,「あらゆる人を私に引き寄せます」と述べたことに注目できる。

地面から上げられ: 次の節に示唆されているように,イエスが杭に掛けられて処刑されることを指していると思われる。

あらゆる人: イエスは,国籍,人種,経済状態に関わりなく,あらゆる背景の人を自分に引き寄せると述べている。(使徒 10:34,35。啓 7:9,10ヨハ 6:44の注釈を参照。)この時,神殿で崇拝していた「ギリシャ人たち」がイエスに会いたがったことは注目に値する。(ヨハ 12:20の注釈を参照。)多くの翻訳者は,ギリシャ語パース(「皆」,「全ての[人]」)を,最終的に全ての人間がイエスに引き寄せられることを指すように訳している。しかし,この見方は聖書の他の部分と一致しない。(詩 145:20。マタ 7:13。ルカ 2:34。テサ二 1:9)ギリシャ語は字義的には「全て」,「皆」を意味するが(ロマ 5:12),マタ 5:11使徒 10:12は,その語には「全ての種類の」や「あらゆる」という意味もあることをはっきり示している。多くの翻訳は,これらの聖句で「あらゆる」,「あらゆる種類の」といった訳を使っている。(ヨハ 1:7。テモ一 2:4

エホバ: ここでの引用はイザ 53:1からで,元のヘブライ語本文では「エホバの力」という表現の所で神の名前が1回だけ使われている。しかし,ヨハネが引用しているのはイザヤの預言のセプトゥアギンタ訳だと思われる。そこのギリシャ語本文は,キュリオス(主)という語で始まっていて,直接の呼び掛けで使う語形になっている。(同じくイザ 53:1が引用されているロマ 10:16を参照。)セプトゥアギンタ訳の翻訳者は,イザヤが神に質問していることが分かるように神の名前を挿入したのだろう。付録C3にある通り,セプトゥアギンタ訳の後代の写本では元のヘブライ語本文のテトラグラマトンの代わりにしばしばキュリオスが使われている(この引用の2回目に出てくるキュリオスもその1例)。そのため,ここの本文で神の名前が使われている。ギリシャ語聖書の幾つものヘブライ語訳(付録C4のJ12,14,16–18,22,23)は,ヨハ 12:38の1回目に出てくるキュリオスの所で神の名前を使っている。

エホバの力: または,「エホバの腕」。ここで引用されているイザ 53:1では,元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が1回出ている。(この節の1回目に出てくるエホバに関する注釈と,付録A5と付録Cを参照。)「腕」を意味するヘブライ語とギリシャ語は,聖書の中では力を行使する能力を表すものとして,しばしば比喩的に使われている。エホバは,イエスが行った奇跡としるしを通してご自分の「腕」,つまり力強さや力を行使する能力を明らかにした。

イザヤはキリストの栄光を見た: イザヤは,エホバが高い王座に座っている天の幻を見た。エホバはイザヤに,「誰が私たちのために行くだろうか」と尋ねた。(イザ 6:1,8-10)「私たち」という複数代名詞が使われていることから,この幻で神と共に少なくとももうひとりいたことが分かる。ヨハネはここでイエスが人間となる前にエホバのそばで受けていた栄光のことを言っていたと結論できる。(ヨハ 1:14)これは,神が「私たちに似た者として人を造ろう」と言った創 1:26などの聖句と調和している。(格 8:30,31,ヨハ 1:1-3,コロ 1:15,16も参照。)また,イザヤはつまりキリストについて語った,とヨハネは述べている。イザヤ書の多くの部分が,予告されたメシアに焦点を当てているため。

ニコデモ: パリサイ派の人,ユダヤ人の支配者の1人つまりサンヘドリンの一員。(用語集の「サンヘドリン」参照。)ニコデモという名前は「民の征服者」という意味で,ギリシャ人の間で一般的だったが,ユダヤ人も使っていた。ニコデモはヨハネの福音書だけに出ていて(ヨハ 3:4,9; 7:50; 19:39),イエスはヨハ 3:10で彼を「イスラエルの教師」と呼んでいる。ヨハ 19:39の注釈を参照。

会堂から追放する: または,「破門する」,「会堂の出入りを禁じる」。ギリシャ語の形容詞アポシュナゴーゴスが使われているのは,こことヨハ12:4216:2だけ。追放された人は,のけ者として退けられ,あざけられた。そのように他のユダヤ人との交友を絶たれると,その家族は経済的に深刻な影響を受けた。会堂はおもに教育の場だったが,むち打ちや破門の罰を加える権限を持つ地方法廷としても使われた。マタ 10:17の注釈を参照。

支配者: ここで,「支配者」に当たるギリシャ語は,ユダヤ人の高等法廷,サンヘドリンの成員を指していると思われる。この語はヨハ 3:1で,その法廷の一員であるニコデモを指して使われている。ヨハ 3:1の注釈を参照。

会堂から追放され: ヨハ 9:22の注釈を参照。

断罪する: または,「裁く」。エホバは,人類というに不利な裁きを下すために自分の子イエスを遣わしたのではない。信仰を示す人たちを救うという愛のある使命のために遣わした。(ヨハ 3:16。ペ二 3:9

断罪する: または,「裁く」。ヨハ 3:17の注釈を参照。

メディア

ヤシの木
ヤシの木

聖書時代,ナツメヤシ(Phoenix dactylifera)はイスラエルとその周辺にたくさん生えていた。ヤシはガリラヤ湖の沿岸や暑いヨルダン渓谷の下流域にも繁茂していたと言われている。「ヤシの木の町」と呼ばれたエリコの周辺には特に多かった。(申 34:3。裁 1:16; 3:13。代二 28:15)ナツメヤシは高さ30メートルに達することもある。枝や葉は長さ3-5メートルにもなる。ユダヤ人は,喜ばしい仮小屋の祭りの時に,葉がたくさん付いたヤシの枝を集めた。(レビ 23:39-43。ネヘ 8:14,15)イエスを「イスラエルの王」として喜んで迎えた群衆がヤシの枝を使ったことは,王としてのイエスの立場を賛美し,従っている印となったと思われる。(ヨハ 12:12,13啓 7:9,10の「大群衆」も,ヤシの枝を持つ姿で描かれていて,救いが神と子羊から来ることを認めている。

子ロバ
子ロバ

ロバは硬いひづめを持つウマ科の動物。馬と違う点は,体が小さく,たてがみが短く,耳が長いこと,また尾の毛が少なく先半分だけがふさふさになっていること。ロバの愚かさと強情さはことわざのようになっているが,実際には馬より賢いと見なされている。また,たいていは辛抱強い動物。男性も女性も,イスラエルの著名な人も,ロバに乗った。(ヨシ 15:18。裁 5:10; 10:3,4; 12:14。サ一 25:42)ダビデの子ソロモンは父親の雌ラバ,つまり雄ロバの雑種の子に乗って,油を注がれる場所へ向かった。(王一 1:33-40)それで,ソロモンより偉大な方であるイエスが,馬ではなく子ロバに乗ってゼカ 9:9の預言を実現したのは極めて適切なことだった。