マタイによる福音書 11:1-30
脚注
注釈
周辺の町: その地域(ガリラヤ)のユダヤ人の町々を指すと思われる。
教えて伝道する: マタ 4:23の注釈を参照。
キリスト: ギリシャ語クリストスに由来する称号で,「メシア」(ヘブライ語マーシーアハ)に相当する。どちらも「油を注がれた者」(「選ばれた者」とも訳される)という意味。聖書時代,統治者として選ばれた人に油を注ぐ儀式が行われた。
キリスト: ギリシャ語では,ここの「キリスト」という称号の前に定冠詞が付いている。イエスのメシアとしての地位を強調するためと思われる。
キリスト: ギリシャ語ではここで,「油を注がれた者」(「選ばれた者」とも訳される)を意味する称号「キリスト」の前に定冠詞が付いている。イエスが約束のメシア,特別な意味で選ばれた方であることを表すため。マタ 1:1; 2:4の注釈を参照。
重い皮膚病: 皮膚に重度の病変が生じる病気。今でいうハンセン病が含まれると思われるが,それに限定されてはいない。この病気と診断された人は治るまで社会から離れて生活した。(レビ 13:2,45,46)用語集参照。
はっきり言いますが: または,「真実に言いますが」。ここのギリシャ語に含まれているアメーンという語は,ヘブライ語のアーメーンを翻字したもので,「そうなりますように」もしくは「確かに」という意味。イエスは発言や約束や預言の前置きとして頻繁にこの表現を使って,絶対的な真実性と信頼性を強調した。イエスのこの語の用い方は,宗教的文書で他に例がないとされている。ヨハネの福音書全体に見られる通り,イエスはこの語を2度重ねて(アメーン,アメーン)自分の言葉の信頼性をさらに強調することもあった。ヨハ 1:51の注釈を参照。
バプテストの: または,「浸礼を施す人」,「浸す人」。マル 1:4; 6:14では「バプテスマを施す人」,マル 6:24では「バプテスマを施す者」と呼ばれている。ヨハネの別名で,水に浸してバプテスマを施すのがヨハネの特徴となる活動だったことを示していると思われる。ユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスは,「別名をバプテストというヨハネ」と書いている。
はっきり言います: マタ 5:18の注釈を参照。
バプテストの: または,「浸礼を施す人」,「浸す人」。マタ 3:1の注釈を参照。
目標にしてひたむきに努力しており: ここで使われている関連のある2つのギリシャ語は,力強い行動と努力という基本的な考えを伝えている。これらを良くない意味(暴力を振るっているか受けているという意味)に理解する聖書翻訳者もいるが,文脈およびここのギリシャ語動詞が聖書で後1度出ているルカ 16:16からすると,「熱意を持って追い求める」,「熱烈に求める」という良い意味に理解するのが妥当。バプテストのヨハネの伝道に応じた人たちの力強い行動や努力を述べていると思われる。そのようにして,王国の成員となる見込みが得られる。
律法……預言者: 「律法」は聖書の創世記から申命記までの書,「預言者」はヘブライ語聖書の預言書を指す。とはいえ,これらの語が一緒に使われる時,それはヘブライ語聖書全体を意味する場合がある。(マタ 7:12; 22:40。ルカ 16:16)
預言者の書と律法: 「律法と預言者の書」(マタ 5:17; 7:12; 22:40。ルカ 16:16)という通常の語順と逆になっている唯一の箇所。全体的な意味は変わらないと思われるが(マタ 5:17の注釈を参照),ここでは聖書の預言的な側面の方が強調されているようだ。律法でさえ預言したとあり,預言的な要素が強調されている。
エリヤ: 「私の神はエホバ」という意味のヘブライ語の名前。
食べたり飲んだりしない: ヨハネの自己抑制の生き方を指すと思われる。断食をすることや,酒類を控えるというナジルの要求にしっかり従うことが含まれた。(民 6:2-4。マタ 9:14,15。ルカ 1:15; 7:33)
人の子: または,「人間の子」。原語で,この表現は福音書に約80回出ている。イエスは自分を指してこの表現を用いた。自分が女性から生まれた紛れもない人間であること,また人類を罪と死から救う力を持つ,アダムにちょうど対応する人間であることを強調したものと思われる。(ロマ 5:12,14,15)この同じ表現は,イエスがメシアすなわちキリストであることも明らかにした。(ダニ 7:13,14)用語集参照。
徴税人: ローマ当局のために税を徴収するユダヤ人が多くいた。そのようなユダヤ人は,人々が反感を持つ外国勢力に協力していただけでなく,公式の税率以上のものを取り立てたので,嫌われていた。徴税人はたいてい仲間のユダヤ人から避けられ,罪人や娼婦と同格に扱われた。(マタ 11:19; 21:32)
知恵は結果によって明らかになります: または,「知恵の正しさはその全ての子供によって証明されます」。ここで知恵は擬人化され,子供を持つ者として描かれている。並行記述のマタ 11:19で,知恵は「行動」する者として描かれている。知恵の子供や行動や結果,すなわちバプテストのヨハネとイエスが生み出した証拠によって,2人に対する非難が間違っていることが証明される。イエスはいわば,「正しい行動と振る舞いを見なさい。そうすれば訴えが間違っていると分かります」と言っていた。
人の子: マタ 8:20の注釈を参照。
徴税人: マタ 5:46の注釈を参照。
知恵は行動によって明らかになります: または,「知恵の正しさは結果によって証明されます」。ここで知恵は擬人化され,行動する者として描かれている。並行記述で,知恵は「子供」を持つ者として描かれている。(ルカ 7:35の注釈を参照。)知恵の子供や行動や結果,すなわちバプテストのヨハネとイエスが生み出した証拠によって,2人に対する非難が間違っていることが証明される。イエスはいわば,「正しい行動と振る舞いを見なさい。そうすれば訴えが間違っていると分かります」と言っていた。
カペルナウム: 「ナホムの村」または「慰めの村」を意味するヘブライ語名に由来。(ナホ 1:1,脚注)イエスの地上の宣教で特に重要だった町で,ガリラヤ湖の北西岸にあり,マタ 9:1では「自分の町」と言われている。
カペルナウム: マタ 4:13の注釈を参照。
天: ここでは隠喩で,非常に恵まれた状態を指す。
墓: または,「ハデス」。死んだ人たちが眠っている比喩的な場所のこと。(用語集参照。)ここでは比喩で,カペルナウムの立場が低められた状態を表す。
の方が処罰が軽いでしょう: 一種の誇張法で,イエスは文字通りに取られることを意図していなかったと思われる。(マタ 5:18,ルカ 16:17; 21:33などにある,イエスが用いた他の印象的な誇張表現と比較。)イエスは,「その日には[つまり裁きの日には]ソドムの方が処罰が軽いでしょう」(マタ 10:15; 11:22,24。ルカ 10:14)と言った時,ソドムの住民がその日にいると言っていたのではない。(ユダ 7と比較。)コラジン,ベツサイダ,カペルナウムなどの町の人々の多くがいかに無反応で責められるべきかを強調していたにすぎないと考えられる。(ルカ 10:13-15)古代ソドムに起きた事はよく知られるようになり,神の怒りと裁きに関連してしばしば言及されたということに注目できる。(申 29:23。イザ 1:9。哀 4:6)
実際: 直訳,「あなたたちに言います」。ここでギリシャ語では代名詞の複数形が使われていて,カペルナウムの住民を指している。
あなたより: ここでギリシャ語では代名詞の単数形が使われていて,カペルナウムの町を指していると思われる。
の方が処罰が軽いでしょう: ルカ 10:12の注釈を参照。
幼い子供たちに: または,「幼い子供のような人たちに」。謙遜で,教えやすい人たちのこと。
荷を負い切れない: イエスが自分のもとに来るよう招いたのは,心配や苦労という「荷を負い切れない」人たち。エホバの崇拝が,モーセの律法に付け加えられた人間の伝統のために重荷のようになっていた。(マタ 23:4)爽やかさをもたらすはずの安息日も重荷になっていた。(出 23:12。マル 2:23-28。ルカ 6:1-11)
爽やかにして: 「爽やかにする」に当たるギリシャ語は,休ませること(マタ 26:45。マル 6:31)も,回復して力を取り戻せるように苦労から解放すること(コ二 7:13。フィレ 7)も指せる。文脈を見ると,イエスと「共に働」くこと(マタ 11:29)には,休みではなく奉仕が関係する。イエスの言葉は,イエスが疲れ切った人に力や元気を取り戻させて,軽くて心地よいイエスの荷を持ちたいと思えるようにする,という考えを伝えている。
温和な: 神の意志と導きに進んで従い,他の人を支配しようとしない人たちの内面の気質。ギリシャ語に臆病さや弱さの含みはない。セプトゥアギンタ訳で,この語は「温厚な」や「謙遜な」と訳せるヘブライ語に対応する語として使われている。モーセ(民 12:3),教えやすい人(詩 25:9),地上に住み続ける人(詩 37:11),メシア(ゼカ 9:9。マタ 21:5)に関して使われている。イエスは自分を温和な人,温厚な人と述べた。(マタ 11:29)
私と共に働いて: または,「私のくびき(てんびん棒)を負って」。イエスは,権威や指示に従うという意味で「くびき(てんびん棒)」を比喩的に使った。神がイエスに負わせた2連式のくびきを念頭に置いていたのであれば,自分と一緒にくびきに付くよう招いていて,そうする弟子たちを助けるということ。その場合,ここは「私のくびきに一緒に付いて」とも訳せる。一方,イエスが他の人に負わせるてんびん棒であれば,弟子としてキリストの権威や指示に従うことを述べていた。用語集の「くびき」,「てんびん棒」参照。
温和: マタ 5:5の注釈を参照。
謙遜: 直訳,「心のへりくだった者」。「へりくだった」に当たるギリシャ語は,謙遜で控えめなことを指し,ヤコ 4:6とペ一 5:5にも出ており,そこでは「謙遜な人」と訳されている。心の状態は気質あるいは神や人への態度に現れる。
メディア



ここに描かれているような道路沿いの広場が市場になることもあった。行商人が通りに多くの商品を並べて通行が妨げられることもよくあった。地元の住人は家庭用品,陶器,高価なガラス製品,生鮮食品を買うことができた。冷蔵庫はなかったので,必要なものを買うために毎日市場に行く必要があった。ここでは,買い物客が商人その他の訪問者の運んでくるニュースを聞き,子供たちが遊び,仕事のない人たちが雇ってくれる人を待つことができた。広場でイエスは病人を癒やし,パウロは伝道した。(使徒 17:17)誇り高い律法学者やパリサイ派の人はこのような公共の場で注目されたりあいさつされたりするのを好んだ。

コラジンとベツサイダの町はカペルナウムの近くにあった。カペルナウムは,イエスが2年以上にわたるガリラヤ各地への宣教で本拠地とした町だと思われる。それらの町のユダヤ人の住民はイエスの強力な行いを見た。偶像崇拝を行うティルスやシドンの住民でもそれを見たら,悔い改めたことだろう。イエスが5000人以上の男性に奇跡的に食事をさせ,後に目が見えない人を癒やしたのは,ベツサイダの辺りだった。(マタ 14:13-21。マル 8:22。ルカ 9:10-17)

この動画のパノラマ画像は,ガリラヤ湖北東岸近くにあるオフィール展望台から撮ったもの。コラジン(2)は,古代のカペルナウム(1)とされる場所から3キロほど。カペルナウムは,イエスが2年以上にわたるガリラヤ各地への宣教で拠点とした町だと思われる。使徒のペテロとアンデレはカペルナウムに住んでいて,マタイの徴税所はその町の中か近くにあった。(マル 1:21,29; 2:1,13,14; 3:16。ルカ 4:31,38)ペテロとアンデレはフィリポと同様,もともとは近くの町ベツサイダ(3)から来ていた。(ヨハ 1:44)イエスはこれらの3つの町やその近くで多くの奇跡を行った。付録A7-D,地図3Bと,A7-E,地図4を参照。

てんびん棒は人が両肩に担ぐ横木か木枠で,荷を体の両側にぶら下げた。くびきは,2頭の家畜が荷を引く時に首に掛ける横木か木枠。