テモテ​へ​の​第​二​の​手紙 2:1-26

2  あなた+に言います。キリスト・イエスの惜しみない親切により,絶えず力を得なさい。 2  また,私から聞き,多くの証人によって確かめられた事柄を+,忠実な人たちに託しなさい。そうすればその人たちは十分に資格を得て,他の人を教えることができるようになります。 3  あなたもキリスト・イエスの立派な兵士+として苦しみに耐えなさい+ 4  兵役に就いている人は,商売に手を出したりはしません。兵士を募った人から良いと認められるためです。 5  競技に参加する人は,規則に従って競技しなければ賞*を得られません+ 6  また,最初に収穫の分け前を得るのは,一生懸命に働く農家の人であるはずです。 7  私が述べていることについていつも考えなさい。主は,あなたが全てのことを理解できるようにしてくださいます。 8  イエス・キリストが生き返らされたことと+,ダビデの子孫であることを+思い起こしなさい。私はそのことを良い知らせとして伝えました+ 9  その良い知らせのために私は苦しみに遭い,犯罪者として拘禁されています+。とはいえ,神の言葉は縛られていません+ 10  それで私は,選ばれた人たちのために全てのことを忍耐します+。その人たちもキリスト・イエスを通して救われ,永遠の栄光を受けるようになるためです。 11  次の事柄は真実です。私たちは共に死んだのであれば,共に生きることにもなります+ 12  忍耐するなら,共に王として治めることになります+。否定するなら,否定されることになります+ 13  たとえ私たちが不忠実でも,その方は常に信頼できます。ご自分を否定することができないからです。 14  これらのことをいつも人々に思い起こさせてください。言葉のことで争わないようにと,神の前で教えてください。そうした争いは聞く人たちに害を及ぼし,何のためにもなりません。 15  自分を神に差し出して,良いと認められるように力を尽くしなさい。真理の言葉を正しく用いることができ,恥じることが何もない働き手になるのです+ 16  そして,聖なる事柄を汚す無駄話を退けなさい+。そうした話により人々はますます神を敬わなくなり, 17  彼らの言葉は壊疽のように広がっていきます。そういう人たちの中にヒメナオとフィレトがいます+ 18  この人たちは真理からそれていき,復活はすでに起きたと言って+,ある人たちの信仰を損なっています。 19  それでも,神が据えた強固な土台は揺らぐことがなく,次の言葉が刻まれています。「エホバはご自分のものである人たちを知っている+」。「エホバの名を呼ぶ+人は皆,不正を退けるべきである」。 20  さて,大きな家には,金や銀の器具だけでなく,木や土の器具もあります。立派な用途のための器具もあれば,つまらない*用途のための器具もあります。 21  それで,後者のような人たちから離れている人は+,立派な用途のための器具となります。神聖にされたもの,持ち主の役に立つもの,あらゆる良い活動のために用意ができたものとなるのです。 22  ですから,若い時に抱きがちな欲望から逃れ,清い心で主に頼る人たちと共に,正しさと信仰と愛と平和を追い求めなさい+ 23  さらに,愚かで無意味な議論を避けなさい+。そうした議論は争いを生むからです。 24  主の奴隷は争う必要はありません。必要なのは,誰にでも穏やかに接すること+,教える資格があること,不当な扱いを受けても自分を抑えること+ 25  好意的でない人たちを温和な態度で教えることです+。もしかしたら神は,その人たちが悔い改めて真理の正確な知識を得られるようにされるかもしれません+ 26  そしてその人たちは,悪魔に捕らわれて悪魔の望み通りに行動していた+ことに気付き,本心に立ち返って悪魔のわなから逃れるかもしれません。

脚注

または,「冠」。
または,「卑しい」。

注釈

あなた: 直訳,「私の子であるあなた」。パウロは愛情の表現として「私の子」と言った。テモ二 1:2の注釈を参照。

キリスト・イエスの惜しみない親切により: パウロはこの表現を使って,「惜しみない親切」によってのみ「力を得」られることをテモテに示している。(用語集の「惜しみない親切」参照。)エホバはイエスに特別な親切や恵みを豊かに示したので,イエスには「神の恵み……が満ちていた」と言えた。(ヨハ 1:14注釈)そしてイエスは,感謝を表すどんな人にもそのような親切を差し伸べる手段となった。それで,聖書は神の惜しみない親切だけでなく「私たちの主イエス・キリストの惜しみない親切」についても述べている。(テサ一 5:28。テサ二 3:18

絶えず力を得なさい: パウロはテモテに,絶えることのない力の源であるエホバ神との絆を強めるよう勧めている。パウロが使っているギリシャ語動詞エンデュナモオーは名詞デュナミス(力,強さ)と関連がある。その名詞はテモ二 1:8の「神の力」という表現で使われている。ある参考文献によれば,パウロがここで使っている動詞の語形は,「テモテが神に頼り続ける必要性を示している。すなわち,『強められ続ける』」。パウロは同じ動詞をエフ 6:10で使い,エフェソスのクリスチャンにこう勧めた。「これからも主[エホバ神]によって,また主の強い力によって強くなっていってください」。

忠実な人たちに託しなさい: パウロはテモテに,学んだ貴重な真理を他の責任ある人たちに伝えて,つまり託してほしいと思っていた。「託し」と訳されている語は,注意深くそうすべきことを示唆している。(テモ一 6:20の注釈を参照。)パウロの指示は,全ての弟子が他の人を教えなければならないというイエスの命令と合っている。(マタ 28:19,20)パウロは次のような流れを示している。イエスがパウロを教え,パウロがテモテを教え,テモテがその教えを忠実な人たちに託し,その人たちがさらに他の人たちを教えた。

十分に資格を得て……教える: 「十分に資格を得て」と訳されているギリシャ語には,仕事を果たす上で「能力のある」あるいは「十分な」という意味もある。パウロはコリントの人たちに手紙を書いた時に同じ語を使い,神は割り当てた仕事を果たす能力をクリスチャンに与えてくださることを説明した。コ二 3:5の注釈を参照。

キリスト・イエスの立派な兵士: パウロはテモ二 2:3-6で3つの例えを使い,テモテに,また全てのクリスチャンに,困難や苦しみに耐える覚悟が必要であることを説明している。3節ではクリスチャンを兵士に例えている。手紙で何度もそうしている。(コ一 9:7。コ二 10:3-5。エフ 6:10-17。フィリ 2:25。テサ一 5:8。テモ一 1:18。フィレ 2)兵士は上官の命令に従い,困難を予期する。同じようにクリスチャンも,キリスト・イエスの命令に従い,苦しみに耐えることをいとわない。その苦しみには,憎まれることや迫害されることが含まれる。このようにしてパウロはテモテに,「キリスト・イエスの立派な兵士」として,決意,忍耐,自己鍛錬が必要なことを思い起こさせている。

商売に手を出し: 現役のまともな兵士は誰も世俗の事柄や金もうけに「手を出し」(直訳,「絡み付かれ」)たりしない。「商売」(もしかすると,「日常の雑務」)は気を散らし,兵士として活動する気力や体力を奪うものとなる。自分と他の人の命が懸かっているので,兵士はいつでも司令官の命令に従って行動する準備ができていなければならない。同じように,テモテはほかの事柄に気を取られずに宣教に集中していなければならなかった。(マタ 6:24。ヨ一 2:15-17

競技: パウロはここでクリスチャンの生き方を運動競技に例えている。選手は規則に従って競技する必要があった。競技が行われる場所には,規則を記したものが掲げられた。賄賂は禁止され,審判によって規則が厳格に適用された。トレーニング中や競技中に規則を破った選手は失格になった。同じように,クリスチャンは神に良いと認めていただくために神の基準と要求にしっかり従わなければならない。テモテは,神のいずれかの要求を無視して苦闘を避けようとするのではなく,「苦しみに耐え」る必要があった。(テモ二 2:3コ一 9:24,25,テモ一 4:7,8の注釈を参照。メディアギャラリーの「朽ちる冠」も参照。

一生懸命に働く農家の人: この例えで,「一生懸命に働く」と訳されているギリシャ語は,「苦労して働く」,「奮闘する」という考えを伝えている。疲れ果てるまで働くことを示しているのかもしれない。農家の人は,良い収穫を望むなら,時には過酷な環境で,休みなく働かなければならなかった。テモテも,神に良いと認めていただきたいなら,自分を甘やかしたりせず勤勉に働かなければならなかった。(コ一 3:6,7。コロ 1:28,29テモ一 4:10の注釈と比較。

私が述べていることについていつも考えなさい: 「いつも考えなさい」に当たるギリシャ語は,「識別力を働かせなさい」とも訳せる。(マタ 24:15。マル 13:14)パウロは直前で3つの例えを使った。(テモ二 2:3-6)ここでテモテに,自分の生活に当てはめるためにその例えについて深く考えるよう強く勧めている。(テモ一 4:15の注釈と比較。)そして,エホバが必要な理解力あるいは識別力を与えてくださると保証している。パウロは,ある父親が格 2:6で述べた同じような保証の言葉を念頭に置いていた可能性がある。

ダビデの子孫: 直訳,「ダビデの種から」。付録A2参照。

神の言葉は縛られていません: パウロは直前で,自分が「犯罪者として」扱われていることを述べた。イエスの隣で処刑された犯罪者を描写するのと同じ言葉を使っている。(ルカ 23:32,33,39)とはいえここで,鮮やかな対比を浮き彫りにしている。パウロは縛られ拘禁されていても,どんな牢屋も鎖も神の言葉を封じることはできない。(テモ二 1:8,16)ある参考文献によれば,パウロは良い知らせに反対する人たちについてこう言っている。「彼らはメッセージを伝える人を止めることができても,メッセージそのものは止められない」。

忍耐するなら: この表現は,「終わりまで耐え忍んだ人が救われます」というイエスの約束と通じるところがある。(マタ 24:13の注釈を参照。)パウロにも親しい友テモテにも,キリストと共に治めるという輝かしい希望があった。(ルカ 22:28-30)パウロはここで,そのような希望の実現の鍵は忍耐であることを強調している。聖なる力によって選ばれたクリスチャンというだけで自分の希望は確実に実現するとは決して考えなかった。(フィリ 3:14の注釈を参照。)選ばれたクリスチャンで信仰を捨てた人のことを知っていた。(フィリ 3:18)しかし,パウロは自分が死ぬまで忠実であることを確信していた。(テモ二 4:6-8

ご自分を否定することができない: エホバは,自分の本質,性質,基準に反する仕方で行動することはできない。(出 34:6,7。マラ 3:6。テト 1:2。ヤコ 1:17)自分の目的に反する行動はできない。それで,ほかの者がどんな歩みをするかにかかわらず,自分の言葉を必ず実現させる。(ロマ 3:3,4注釈

言葉のことで争わないように: パウロはエフェソスのクリスチャンに,偽りを教える人が助長したと思われる言葉を巡る争いを避けるよう訓戒している。「言葉のことで争」うに当たるギリシャ語は,「言葉」という名詞と「争う」という動詞を組み合わせたもの。この表現は,パウロが書いた物より前の古代文書には見られない。パウロはテモテ第一の手紙で,字義的には「言葉の争い」という意味の関連する名詞を使った。(テモ一 6:4の注釈を参照。)これは言葉のささいな意味の違いを巡る争いだったかもしれないが,害になりかねず,破壊的な影響を及ぼす恐れもあった。

神: 権威あるギリシャ語写本の中には,「神」としているものもあれば,「主」としているものもある。ギリシャ語聖書のヘブライ語やその他の言語への翻訳の幾つかはここで神の名前を使っている。付録C1参照。

教えて: または,「厳粛に言い渡して」。パウロがここで使っているギリシャ語は,もっと字義的に訳せば,「徹底的に証言して」となる。(使徒 20:24; 28:23)ある参考文献によると,この語は「重要な事柄や非常に危険な状況において『証言する,警告を与える』ことを意味する」。

聞く人たちに害を及ぼし: この部分はギリシャ語でカタストロフェーという語(「滅び」や「破滅」という意味)を含み,「聞く人たちを滅び(破滅)に至らせ」とも訳せる。パウロは言葉を巡る争いについて警告するために強い言葉を選び,無意味な争いに加わらないよう「神の前で」エフェソスのクリスチャンを教えるようにとテモテに言った。テモ一 5:21の注釈を参照。

力を尽くしなさい: パウロはこの表現を使って,「熱心/意欲的である,骨折る,あらゆる努力をする,良心的である」ようテモテに促している。このギリシャ語(スプーダゾー)はある辞典でそう定義されている。テモテはこの勧めに従えば,神に良いと認められ,良い働き手になる。感謝されなかったり反対されたりしても,恥じる理由は全くない。

真理の言葉を正しく用いる: パウロはここで,字義的には「真っすぐに切る」という意味のギリシャ語動詞を使っている。パウロが何を念頭に置いていたかについて,いろいろな意見がある。例えば,天幕作りをしていたパウロは,布をきちんと真っすぐに切ることをイメージしていたのかもしれない。あるいは,セプトゥアギンタ訳格 3:6; 11:5でのこの語の用法を念頭に置いていたのかもしれない。そこでこの語は,人の道を真っすぐにすることを表している。この動詞は,農家の人が真っすぐな畝を作ることなど,ほかの意味でも使える。いずれにしても,パウロがテモテに言っているのは基本的に,神の言葉を教える時に真っすぐな進路を行くように,つまり神の言葉を適切に用い,正確に説明し,個人的な見解や言葉その他のささいなことを巡る議論に関わって本筋からそれないようにということ。(テモ二 2:14,16

無駄話: テモ一 6:20の注釈を参照。

神を敬わなくなり: ロマ 1:18の注釈を参照。

壊疽: ギリシャ語の医学用語ガングライナは,しばしば急速に広がり,治療しないと死に至りかねない病気を指す。パウロはこの語を,背教的な教えや「聖なる事柄を汚す無駄話」に関して比喩的に使っている。(テモ二 2:16-18)しばしば,そのような不健全な教えを,神の言葉の真理に基づく「健全な[または,「有益な」]」教えと対比している。(テモ一 1:10; 6:3。テモ二 1:13。テト 1:9; 2:1テモ一 6:4の注釈も参照。)「壊疽のように広がっていきます」という表現を使うことで,無駄話や偽りの教えが会衆内で人から人へとすぐに伝わり,神との関係を失うという致命的な結果をもたらしかねないことを強調している。(コ一 12:12-27

そういう人たちの中にヒメナオとフィレトがいます: パウロは背教者の例としてこの2人を挙げている。テモテは背教者の教えを退けなければならなかった。ヒメナオとフィレトは真理からそれていき,さらに偽りを教えて復活はすでに起きたと主張することによって他の人の信仰を損なっていた。(テモ二 2:18の注釈を参照。)パウロがテモテ第一の手紙を書いた時,ヒメナオはすでに信仰を捨てていた。そして「矯正され,神を冒瀆してはならないことを学ぶ」ため,クリスチャン会衆から除かれていたようだ。(テモ一 1:20の注釈を参照。)それから1年以上たっていたが,まだ生き方を改めていなかった。

復活はすでに起きたと言って: ヒメナオとフィレトのように,エフェソスで偽りを教える人の中には,献身したクリスチャンは比喩的な意味ですでに復活したと教える人がいたようだ。自分たちの間違った見方を広めるためにパウロの言葉をねじ曲げた人もいたかもしれない。パウロは確かに,罪人はバプテスマを受ける時,以前の生き方に関して死んで比喩的な意味で生き返ると教えた。とはいえ,そのような象徴的な復活は聖書が教えている文字通りの復活の希望に取って代わるものではなかった。復活は「すでに起きた」と教える人は,将来の文字通りの復活の希望を否定していて,背教者だった。(ロマ 6:2-4,11。エフ 5:14エフ 2:1の注釈を参照。

信仰を損なっています: パウロはすでに10年ほど前に,復活の希望を台無しにする偽りの教えと闘っていた。(コ一 15:2注釈12使徒 17:32と比較。)天か地に将来復活して完全な命を得ることを否定した人は,聖書に真っ向から逆らっていた。(ダニ 12:13。ルカ 23:43。コ一 15:16-20,42-44)クリスチャンが復活に関する間違った見方によって信仰を損なわれるなら,この約束された将来の報いを受けるという希望を失うことになった。(ヨハ 5:28,29

神が据えた強固な土台: パウロはこの「強固な土台」が何かをはっきり述べてはいないが,ほかの手紙で「土台」という語を使って安定性と信頼性を強調している。例えば,エホバの目的におけるイエスの役割を土台に例えている。(コ一 3:11エフ 2:20で,「使徒や預言者たちという土台」と書いている。クリスチャン会衆について似た言葉を使っている。(テモ一 3:15の注釈を参照。ヘブ 6:1,脚注も参照)パウロは前の2つの節(テモ二 2:17,18)で,背教的な教えに抵抗するようテモテを促している。エホバの方法,活動,性質が常に信頼できて永続的であることをテモテに保証するために,「神が据えた強固な土台は揺らぐことがなく」という表現を使っている。(詩 33:11。マラ 3:6。ヤコ 1:17

次の言葉が刻まれています: または,「次の証印が付いています」。(用語集の「印章」参照。)建物の土台や別の部分に,建築者,所有者,用途を示す言葉が刻まれることは珍しくなかった。(コ二 1:22,エフ 1:13の注釈と比較。)「啓示」の書は,使徒たちの名前が刻まれた土台石について述べている。(啓 21:14)パウロがここで言っている「次の言葉」は,以下の注釈で説明されているように,重要なものである。

エホバ: パウロはここで民 16:5セプトゥアギンタ訳)を引用している。そこではモーセがコラとその支持者に,エホバは「ご自分のものである人たちを知っている」と言っている。元のヘブライ語本文ではヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が使われているので,この訳の本文でエホバという名前が使われているのは適切。付録C1C2参照。

「エホバはご自分のものである人たちを知っている」: 民 16:5を引用したパウロは,コラ,ダタン,アビラムの反逆に関する記述を使って,エホバがご自分に反逆する者たちを確かに知っていることをテモテに伝えている。エホバは彼らの悪い行いの影響を必ず打ち消す。エホバは,ずっと昔にコラと仲間たちがご自分の目的を妨げるのを許さなかったのと同じように,1世紀の背教者たちがそうするのを許すつもりはなかった。しかし,モーセが言ったように,エホバはご自分に忠実な人たちのことを分かっている。その人たちをよく知っていて,良いと認めている。ガラ 4:9の注釈を参照。

「エホバの名を呼ぶ人は皆,不正を退けるべきである」: パウロの言い回しからすると,この言葉は引用だと思われる。とはいえ,ヘブライ語聖書にパウロの言葉とぴったり合う文はない。パウロは直前で,コラの反逆について述べた民数記 16章から引用している。それで,パウロは同じ記述を参照して民 16:26にあるモーセの言葉をまとめた可能性がある。モーセの時代,エホバに忠実な人は,断固とした行動を取って正しくない人から離れなければならなかった。それでパウロは,テモテや他の忠実なクリスチャンもあらゆる不正を退けるべきだと言っている。これにはパウロが前後の文脈で述べたこと,つまり言葉を巡る争い,「無駄話」,背教的な教え,「愚かで無意味な議論」を避けることが含まれる。(テモ二 2:14,16,18,23

エホバの名を呼ぶ: この部分は,セプトゥアギンタ訳イザ 26:13に言及しているのかもしれない。その節の元のヘブライ語本文には神の名前がはっきり出ている。付録C3の序文テモ二 2:19(2)を参照。

大きな家……器具: パウロはクリスチャン会衆を「大きな家」に,会衆の個々の人を「器具」つまり容器に例えている。「器具」や「器」に当たるギリシャ語は聖書の中でしばしば比喩的に使われ,人を指す。(使徒 9:15,脚注。ロマ 9:22注釈テサ一 4:4注釈ペ一 3:7)続く節(テモ二 2:21-26)で,パウロはこの例えを使って,会衆内にいてエホバの定めた原則をかたくなに無視する人との親しい交友を避けるようテモテに勧めている。

若い時に抱きがちな欲望: テモテはこの手紙を受け取った時,既に成人していて,30代だったかもしれない。(テモ一 4:12の注釈を参照。)それでもパウロはテモテに,「若い時に抱きがちな欲望から逃れ」るように,つまり若い人に共通する欲望と闘うために自分を訓練するようにと言っている。(伝 11:9,10)そうした欲望には,不道徳な性的欲求が含まれるだろう。(格 7:7-23コ一 6:18の注釈を参照。)この表現は,お金や力への飽くなき欲望,競争心,楽しみばかり追い求めることなども指すかもしれない。(格 21:17。ルカ 12:15。ガラ 5:26。テモ一 6:10。テモ二 3:4。ヘブ 13:5

逃れ……追い求めなさい: テモ一 6:11の注釈を参照。

主: 文脈からすると,「主」はエホバ神を指すと思われる。(テモ二 2:19ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の幾つか(付録C4のJ7,8,17,22)は,ここで神の名前を使っている。

主に頼る人たち: パウロはテモテに,ここで「主に頼る人たち」と言っている仲間の信者と交友を持つよう促している。(ロマ 10:13の注釈を参照。)そうした仲間のクリスチャンは清い心を持っていたので,良い友になった。その人たちは道徳的また宗教的に清く,動機が純粋で,心の全てをエホバに向けていた。(テモ一 1:5の注釈を参照。)若い時に抱きがちな欲望から逃れて良いことを追い求めるようテモテを助けてくれる。

正しさ……を追い求めなさい: テモ一 6:11の注釈を参照。

愚かで無意味な議論を避けなさい: エフェソスのクリスチャンは臆測に基づく議論をして争っていて,パウロはテモテに,彼らがそれをやめるのを助けるよう促している。この手紙で3度目。(テモ二 2:14注釈16)パウロはテモテ第一の手紙で,同様の傾向に注意を向けていた。テモ一 1:4; 6:20の注釈を参照。

無意味な: パウロは,エフェソス会衆の悩みの種となっていた議論を「無意味な」,字義的には「教育のない」と表現している。パウロはその語を使って,そのような議論をする人が,子供でも教わっているはずのクリスチャンの基本的な教えを知らないことを示唆しているのかもしれない。確かに,そのような議論に関わる人はキリストの最も基本的な教えである愛を実践していなかった。(ヨハ 13:34,35

主の奴隷: 文脈からすると,「主」はエホバ神を指すと思われる。(テモ二 2:19)ヘブライ語聖書でも,エホバの崇拝者はエホバに仕える人と呼ばれていて,つまりエホバの奴隷である。(ヨシ 1:1; 24:29。裁 2:8。王二 10:10; 18:12)パウロはテモテや他の監督たちに,会衆内の難しい状況をどう扱うべきかを教えている。パウロはこの表現を使うことによって,監督たちが神の指示に従わなければならないことや仲間の信者への接し方について神に対して責任を負わなければならないことを思い起こさせている。パウロが挙げている性質は,テモ一 3:1-7テト 1:5-9に記されている監督に求められる事柄を補っている。広い意味では,全てのクリスチャンが「主の奴隷」であり,これらの性質を示す必要がある。

奴隷: 「奴隷」と訳されるギリシャ語は一般的に,他の人に所有される人を指す。(テト 1:1。ヤコ 1:1ロマ 1:1の注釈を参照。)テモ二 2:24について,ある参考文献はこう述べている。「人間の奴隷になるのは不名誉なことだが,神の奴隷になるのは大きな名誉である」。テサ一 1:9の注釈を参照。

争う: 「争う」に当たるギリシャ語は一般的に,戦闘や取っ組み合いと関連付けられるが(使徒 7:26),文脈によっては,言い争いを指す場合もある。(ヨハ 6:52。ヤコ 4:1,2)パウロがここで示しているように,「主の奴隷」は口論や愚かな議論に加わる必要はない。(テモ二 2:14,16,23)むしろ,主イエスの温和で穏やかな態度に倣う方が良い結果になる。(マタ 11:29; 12:19

誰にでも穏やかに接する: パウロはテモテに,エフェソスで偽りを教える口論好きで分裂をもたらす人のようでなく,誰にでも穏やかに親切に接するよう勧めている。(テモ二 2:23)このギリシャ語表現は,「誰にでも巧みに接する」とも訳せる。パウロ自身,穏やかに接することを学んだ。クリスチャンになる前,ユダヤ教の伝統に非常に熱心だったので,少しも穏やか,巧み,親切ではなかった。キリストの弟子たちを乱暴に横柄に扱った。それでもイエスは,パウロに穏やかに接した。(使徒 8:3; 9:1-6。ガラ 1:13,14。テモ一 1:13)パウロは,穏やかさが弱さではないことも学んだので,悪い行いについて毅然と率直に語るのを決してためらわなかった。(コ一 15:34)厳しくなったりせず,仲間の信者に愛を込めて巧みに接した。(テサ一 2:8)「優しく世話する母親」のように穏やかであろうと努めた。(テサ一 2:7の注釈を参照。)パウロはテモテに,会衆内の秩序を乱すクリスチャンや会衆外の反対者を含め,「誰にでも」穏やかに接する点で自分に倣ってほしいと思った。テモテは,争いや分裂ではなく一致と愛を促進する必要があった。(テモ二 2:23,25

教える資格がある: パウロは以前,クリスチャンの監督に求められる事柄を挙げた時に,「教える資格がある」に当たるギリシャ語を使った。(テモ一 3:2の注釈を参照。)テモテは,教える場面だけでなく会衆内の難しい問題を扱う場面でも,資格がある,つまり上手に教える必要があった。とはいえ,パウロが使っている「主の奴隷」という表現は長老だけに当てはまるのではない。真のクリスチャン全員が上手に教える人になる必要がある。(ヘブ 5:12と比較。)

不当な扱いを受けても自分を抑える: この表現は,憤りを表さずに「悪に耐える」という意味のギリシャ語の複合語を訳したもの。「主の奴隷」はひどい扱いに辛抱強く耐え,悪いことをされても仕返しをしないよう自分を抑える必要がある。(ロマ 12:17)テモテは,仲間のクリスチャンから不当な扱いを受けてもそうする必要があった。パウロは後に,クリスチャンは皆,迫害を受けることを予期すべきだと言っている。(テモ二 3:12)それで論理的に言えば,全ての人は「不当な扱いを受けても自分を抑える」必要がある。マタ 5:39の注釈を参照。

好意的でない人たち: パウロが使っているギリシャ語は,この文脈で,クリスチャンの教えに抵抗したり反して行動したりする人たちを指す。パウロは特に,聖書の助言に従ったり教え導く兄弟たちの訓戒を聞き入れたりすることに否定的だったエフェソス会衆の人たちのことを念頭に置いていたのかもしれない。

温和な態度で教える: この文脈で,「教える」と訳されている語は,「矯正する」,「導きを与える」という考えも伝えているかもしれない。ある参考文献によれば,この語は,適切な選択ができる人になれるよう助けることを意味する。「主の奴隷」はそのような教えを,「温和な態度で」つまり謙遜で温厚な態度で与えなければならない。そのようにして「誰にでも穏やかに接する」。(テモ二 2:24注釈ガラ 5:23の注釈も参照。

神は,その人たちが悔い改め……るようにされるかもしれません: クリスチャンの長老が「好意的でない人たち」を温和な態度で正したり教えたりすると,その人が悔い改める,つまり「考えを改める」という良い結果になることがある。(用語集の「悔い改め」参照。)その人が考えや態度を変えたのは,どんな人間の功績でもなく,エホバの功績。強情だったクリスチャンがその重要な変化を遂げるよう助けたのはエホバ。パウロは続けて,そうした悔い改めの素晴らしい結果を幾つか挙げている。つまり,罪を犯した人が真理のより正確な知識を得ること,本心に立ち返ること,サタンのわなから逃れることである。(テモ二 2:26

悪魔のわなから逃れる: パウロは会衆の一部の人が「悪魔のわな」に陥っていたことを示している。悪魔に欺かれて真理からそれ,悪魔の餌食になっていたようだ。(テモ二 2:18,23,25)「悪魔に捕らわれて悪魔の望み通りに行動していた」という表現は,悪魔がうそをついてその人たちが気付かないうちにわなに掛けたことを示しているのかもしれない。サタンはその人たちを殺さなかったが,操って自分の目的のために利用した。パウロはテモテに,わなに掛かった人が「本心に立ち返」る(直訳,「しらふになる」。コ一 15:34の注釈を参照)よう,「温和な態度で」教えることを勧めた。悔い改めた人は悪魔のわなから自由になれた。

メディア

パウロは拘禁されているが征服されてはいない
パウロは拘禁されているが征服されてはいない

パウロはローマで拘禁されている。これが2度目。自分の死が迫っていることを知っている。(テモ二 4:6)それだけでなく,既にデマスなど,一部の仲間に見捨てられていた。(テモ二 1:15; 4:10)それでも,パウロは幸せでいられる。勇気のある兄弟たちが恥じることなく支えてくれた。(テモ二 4:21)例えば,オネシフォロはパウロを見つけるためにローマ中を捜し回った。(テモ二 1:16,17)パウロは拘禁されていても征服されてはいない。キリストの「天の王国」で授けられることになっている報いに焦点を合わせている。(テモ二 4:8,18)この大変な時にも,自分ではなく他の人のことを考えている。牢屋からテモテ第二の手紙を書き,忠実であり続けるようテモテを励ましている。(テモ二 1:7,8; 2:3

大きな家にある器具
大きな家にある器具

ローマの裕福な家族の家には器具がたくさんあった。台所では,奴隷が土器や青銅器の鍋などを使った。ぶどう酒やオリーブ油などの液体を入れておくために大きな土器のつぼやかめなども使った。食堂では,家族が色ガラスの器,青銅器,銀器,土器を使った。家には,ごみ箱や便器など,あまり立派ではない用途のための器もあった。聖書では,人が器に例えられることがある。(使徒 9:15)使徒パウロは,クリスチャン会衆を「大きな家」に,個々の人を「器具」に例えている。「立派な用途」のための器具を「つまらない用途」のための器具と別にしておかなければならないのと同じように,クリスチャンは会衆内の良くない影響を与える人との親しい交友を避けなければならない。(テモ二 2:20,21